前回の経済外交に続いて今回は歴史と領土外交について述べてみました。
一。歴史外交
歴史外交では、日本の妥協と譲歩外交を分かり易く説明できる好例がいくつもあります。今年の8月12日の産経新聞で桜井よしこ氏は、こう書いています。
「歴史に関して日本政府がどれだけ謝罪を重ねてきたか調べてみると、そのおびただしさに愕然とする。ざっと見て、日中国交正常化当時の田中角栄以来、菅直人首相の談話まで、実に36回に上る」
それでは謝罪以外のいくつかの例を説明していきましょう。
(1)靖国問題
日本が米軍占領下におかれていた1951年に吉田首相が靖国神社に参拝して以来1985年まで35年間毎年歴代の首相が靖国神社を参拝してきた。ところが1985年8月15日に中曽根首相が参拝したその翌月の9月20日に支那の外務省スポークスマンが「中国国民の感情を害する」との発言をした。この支那側の横槍と中曽根自身がこれまで三年間続けて参拝していたものを彼の個人的理由で翌年から参拝をやめてしまったのだ。中曽根の個人的理由とは、中曽根と親しかった胡耀邦(当時中国共産党総書記)の政治的立場を救うためだった。中曽根は個人の関係と国家の関係を混同しているのだ。2007年、福田首相は、「私は友人の嫌がることはしない。国家と国家の関係も同じだ」と発言しています。これも個人と国家の関係を混同している例です。まさに私が主張する「うぶでバカでお人好し」外交の典型です。中曽根が参拝をやめて以来16年間、その間首相になった誰一人として靖国に参拝せず、16年ぶりに平成13年に小泉首相が参拝、以来5年間参拝し続けた。現在の民主党政権は、首相どころか閣僚でさえ参拝しないのだ。
ここに1985年に中曽根が胡耀邦に送った書簡の内容を披露しましょう。
「戦後40年たったとはいえ不幸な歴史の傷跡はいまなお、とりわけアジア近隣諸国民の心中深く残されており、侵略戦争の責任を持つ特定の指導者が祀られている靖国神社に公式参拝することにより、貴国をはじめとするアジア近隣諸国の国民感情を結果的に傷つけることは避けなければならないと考え、今年は靖国神社の公式参拝を行わないという高度の政治的決断をいたしました。
264万人に及ぶ一般の戦死者の遺族は極少数の特定の侵略戦争の責任者が死者に罪なしという日本人独特の死生観により神社の独自判断により祀られたが故に日本の内閣総理大臣の公式参拝が否定される事には、深刻な悲しみと不満を持っているものであります」
この書簡から20年後、王毅駐日大使が首相、外相、官房長官は靖国神社に参拝しないとの「紳士協定」が中曽根内閣時代にできたと公言した。中曽根は即座に否定したが、中曽根書簡が悪用されたのだ。ここで中曽根書簡の前半の部分に下線を引いてありますのでもう一度御覧ください。そうすると以下のことがわかります。
1.中曽根は大東亜戦争のことを侵略戦争と解釈していること。彼は靖国神社に対する支那、韓国の主張に同調していることです。中曽根は我々国民にとってタカ派として知られた政治家です。その政治家がこのような態度をとっていたのです。まだあります。1986年、高校教科書の「新編日本史」が、検定に合格したあと支那と韓国の干渉で四回も修正させられているのだ。あのタカ派といわれた中曽根が屈辱的な譲歩外交に平然としていたのだ。
2.侵略戦争で近隣諸国を傷つけたから靖国神社に参拝しないというのは譲歩外交の典型です。外国は侵略戦争で近隣諸国を傷つけても、近隣諸国民の国民感情より自国のために戦って死んだ兵士を優先して大事にしています。
(2)近隣諸国条項
度重なる韓国、支那の日本の歴史教科書への干渉にとうとう日本政府は、1982年に日本の教科書検定基準に次の規定が盛り込んだ。
「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がなされること」。これを近隣諸国条項といいます。こういう条項を設けたためにかえって歴史教科書に対する内政干渉誘導することになってしまった。いまでは「つくる会」の歴史教科書は、日教組の攻撃の的どころか韓国の攻撃の的にもなってしまったといえます。
(3)村山首相談話
1995年、終戦50周年を記念して当時の村山首相は、「植民地支配と侵略によって多くの国々とりわけアジア諸国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えた」と述べ「痛切な反省の意」と「心からのお詫びの気持ち」を表明した。これが日本政府の大東亜戦争に対する歴史認識としての公式見解とし歴代の内閣に引き継がれている。この談話も諸外国から出せと要求されたものでなく、村山首相個人が働きかけたものです。どれほどバカ呼ばわりしても、したりないくらいナンセンスな外交、この談話で何か外交的効力が発揮できたのですか。
4.河野内閣官房長官談話
1990年代、特に前半は、「従軍慰安婦」事件の問題で揺れた年です。問題の焦点は、日本の官憲が暴力でいやがる女性をむりやり強制連行して慰安婦にさせたことがあったかどうかだった。日本政府は徹底的に調査した。外務、防衛省など六省庁から集めた百二十点の公文書、さらに米国国立公文書館からも取り寄せた約百点の公文書、この計二百二十点に及ぶ公文書の精査からも、嫌がる女性を暴力で強制連行して慰安婦にさせた証拠など出なかった。ところが1993年8月、当時の河野洋平官房長官は次のような談話を発表した。
「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、さらに官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また慰安所における生活は、強制的な状況の下で痛ましいものであった」
この談話が日本政府は、日本軍が強制連行を行ったことを認めたと解釈されて今日にいたっています。1997年3月31日付の朝日新聞では、河野氏は「河野談話」に関するインタビューで「強制連行を示すものはなにもなかった」と発言しています。
2005年8月3日の産経新聞は、「河野談話」の作成経緯について河野官房長官時代官房副長官だった石原信雄氏にインタビューしています。その中でこう語っています。
「日韓の未来志向のためには、本人の意に反して慰安婦になったことを認めることが、その後の日韓関係を深める上で、必要だったという判断だったと思う。だが、韓国側が慰安婦はすべて強制だとか、日本政府が政府として強制したことを認めたとか、誇大に宣伝して使われるのは、あまりにもひどい。韓国政府関係者の言い分は(当時と)全然違った形になっている」
韓国に譲歩しておいて後で泣き言をいう最低の外交交渉です。
二。領土外交
(1)竹島
竹島がいつ、どのようにして韓国に略奪されたか多くの日本国民は知らないのです。特に若い人は、ほとんど知らないと言っていい。教科書で教えることすらしないからです。現在の政治家でさえ知らないのが圧倒的でしょう。普通どこの国でも自国の領土が外国に略奪されれば、教科書に必ず載せて子供たちに教えるものなのだ。子供たちに教えないどころではない、日教組傘下の北海道教職員組合は2008年11月に竹島について「韓国の主張が事実にのっとっている、北方領土については「日本固有の領土式の観点でなく、アイヌ民族や戦争との関係でとらえさせて教えさせる」などとした資料を各校に配布しているのだ。どんな思想を持とうが自由です。しかしその根底には祖国愛あるというものがなければなりません。北海道教組の行為は、祖国への裏切りです。こういう祖国への裏切りが公然とまかりとうる異常な日本になってもう久しいのです。
竹島が韓国に略奪された実態は、以下のとおりです。
敗戦後日本は、アメリカ軍の占領支配下にあった。6年と10ヶ月間の占領支配後の1952年4月28日に独立することになった。その3ヶ月まえの1月、まだ日本が占領下で無力であったその時、韓国の李承晩大統領は、国際法を無視して日本海海上に竹島を韓国領する軍事境界線、所謂「李承板ライン」を突如として設定した。そして竹島は、韓国領と宣言した。まさにあからさまな侵略行為です。その後、日本漁船が李承晩ラインを超えて漁をすると韓国側に拿捕されたり、銃撃で日本人漁民が殺される事件が多発した。日韓漁業協定が成立する1965年の13年間に韓国に抑留された日本人は3929人に及び、拿捕された船舶数は328艘、死傷者は44名を数えた。日本政府は日本人抑留者と引き換え韓国政府の要求で、常習犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた在日朝鮮人472人を放免し、日本滞留特別許可をあたえた。
1997年アジア通貨危機が起こりました。韓国経済は破綻、韓国の経済政策は、IMFの管理に置かれました。そのため韓国政府は、代表団を日本に送りこみ経済援助を要求しました。アメリカの日本占領期間終了間際に武力で竹島を略奪しておいて、経済的に苦しくなれば日本に泣きつき平然と経済援助を求める韓国のずうずうしさ。それなら竹島を返せとも、また援助金で竹島を買い取ろうとも主張しないどころかその時日本政府は、支援国の中でも最大の100億ドルを韓国に提供しているのだ。私はこの時の日本政府のバカさかげんには、つばをはきつけたいくらいの軽蔑さを感じたものだ。
ところで皆さんは、アメリカは竹島を日本の領土と思っているのでしょうか、韓国の領土と思っているのでしょうか、どちらだと思いますか。ブッシュ政権時代、アメリカ地名委員会(BGN)、United States Board of Geographic Names,は、竹島を韓国領土としています。アメリカ地名委員会は、島の名前は「独島(Dog-do)と「竹島(Take-Shima)両方記載していますが、所属国(Country Code)をチェックすると両地名とも大韓民国(South Korea)と記載されています。このアメリカ地名委員会の決定は、アメリカ連邦政府の全ての省および政府機関に対する拘束が認められているほど権威のある機関です。日本政府がアメリカに激しく抗議したとは聞いていません。
(2)北方四島
1945年8月14日、日本政府はポツダム宣言受諾を回答、翌15日昭和天皇が終戦詔勅放送、日本軍は武器を置いた。ところがソ連は、まだ一年間の有効期限がある日ソ中立条約を破棄、8月9日に対日戦に参加、15日の日本敗戦後ソ連軍は攻撃をやめず続行、北方四島を略奪した。ところが敗戦65年後の今年ロシアは、第二次大戦終結の日を、日本がミズリー号艦上で降伏文書を調印した9月2日に制定した。その日に対日戦勝65周年を祝う式典や軍事パレードが極東各地で行われた。当初ロシアは、「第二次大戦終結の日」を「対日戦勝記念日」という名称を使用するつもりでいたが日本からの批判を封じこめるために「第二次大戦終結の日」とした。なぜ8月15日を使わず、今頃になってわざわざ9月2日にしたのか。ロシアは北方四島の不法占拠を正当化しようとしているのだ。ミロノフ上院議長は、日本の北方領土返還要求を「歴史の捏造だ」と断じてさえいるのだ。第二次大戦終結の日を8月15日から9月2日への変更に対して日本政府は、ロシア政府にはげしく抗議して当然なのに、武正公一副大臣は、「対日戦勝」の表現を使わないよう働きかけた結果だとして「ロシア側の対応を評価している」というコメントさえしているのだ。ロシア側は名称より、北方四島の不法占拠の正当化にあるということがこの武正公一というバカにはわからないのだ。本当にバカさかげんに腹がたつ。そして今月11月1日ロシアのメドベージェフ大統領は、ロシアの国家指導者として初めて国後島を訪問した。国後島を訪問しないでくれという日本側の要求を公然と無視し、ロシアは着々と北方四島のロシア化を進めているのだ。それに対し日本は有効な手立てが打てないでいる。
1991年ソ連が崩壊した。国というものは突然崩壊するものではありません。ソ連経済はにっちもさっちも行かなくなり1987年ごろからソ連のゴルバチョフ大統領は、米国の敵になるのを止めたと発言して一方的に軍備削減を行い、1989年に西ドイツから330億ドルの借款を受けた。それでも足りずにゴルバチョフは、ブッシュ大統領に借款を要請した。しかし当時のアメリカは経済絶不調、そこでアメリカは日本に支援させようとした。そこで当時駐日大使だったアマコストが日本政府に要請するのですが、日ソ間に北方領土というトゲがある。アマコストは北方領土問題の対立を和らげるべく日ソ間の仲介しようとした。アマコストは外務省の何人かに領土問題で国際司法裁判所への提訴を助言したのだ。結局アメリカ政府の日本に支援させる試みを失敗に終わった。当時西ヨーロッパ諸国は、ソ連が崩壊したら、ソ連難民が国境を越えて西ヨーロッパに押し寄せてくるのではないかと戦々恐々とし、西ドイツなど主要国は、ソ連に経済援助を積極的におこなっていたのだ。当時日本は経済絶好調だったし、日本は北方四島を買い取りましょうと提案すべきだったのです。提案したからといって成功するわけではないが打診ぐらいすべきだったのではないでしょうか。みすみす買い取るチャンスを失したと私は考えています。
(3)尖閣諸島
いままで支那や台湾が尖閣諸島は自国の領土だと主張してこなかった両国がいつごろから彼らの領土だと主張したのか。1968年「ECAFE」(エカフエ)、国際連合アジア極東経済委員会(Economic Commission for Asia and Far Eastの略)が尖閣諸島周辺調査で石油と天然ガス資源が存在する可能性を発表した。この発表によって1971年12月支那は領有権を主張、翌年の2月には自国の地図にも支那領と明記した。同じ頃台湾は尖閣諸島を自国の行政区に組み入れてしまった。これにたいして日本政府は、なに一つ抗議していません。なぜ世界にむけて「いままで自国の領土などと主張したことすらないのに「エカフエ」によって石油資源の可能性が発表されたら、突然自国の領土と主張するのはけしからん」発表し、強く抗議しなかったのかと言いたい。この時の内閣は、宮沢内閣です。「近隣諸国条項」や「河野談話」は宮沢内閣の時です。宮沢喜一首相は、英語の凄い使い手で英語の達人と言われた人物です。その男が外交では全く使い者にならないのだ。恥の上塗りという言葉があるが、バカの上塗りともいうべき外交上のへまを重ねているのだ。1979年5月海上保安庁は、仮説へリポートを設置。その後支那の抗議のために撤去さえしているのだ。1996年、政治団体「日本青年社」は灯台を建設、日本政府に海図への記載を求めた。ところが支那からの横やりが入り海図への記載を止めた。2004年3月に尖閣諸島に7人の支那人が上陸した。沖縄警察に逮捕された、日本での裁判を受けさせず、全員強制送還で帰国させたのだ。しかもその7人の一人は日本で前科があり、執行猶予中の身であったにもかかわらず、裁判沙汰にせず帰国させてしまっているのだ。
マスコミも国民も自分の国のことは自分で守るという気概がないから政府の愚かな外交に対して激しい非難を浴びせることもないのだ。今回の支那漁船による海上保安庁の巡視船への追突事件で支那人船長や支那人漁民が逮捕され、支那政府は猛烈に抗議した。皆さん支那人船長は、どういう理由で逮捕されたのか知っていますか。公務執行妨害という理由で逮捕されたのですよ。今回初めて公務執行妨害の適用です。わざと巡視船に追突するなど悪質だからです。通常ほとんどの領海侵犯は漁業法違反で摘発しているのです。漁業法違反は検査に応じない場合は、立ち入り検査忌避容疑です。罰則は懲役6ヶ月以下または30万円以下の罰金にすぎない。領海侵犯は重大な国家犯罪です。それがこんな軽い罪で形式犯のような扱いなのです。なぜか。皆さんこれはよく知っておいてください。海岸線を持つ国ならどこの国もある領海侵犯罪が日本には存在しないのです。尖閣諸島が日本の領海だと主張しながら領海侵犯罪がないのです。なぜ領海侵犯罪がないか。自衛隊というのは日本の国を守るために存在しているのですが、日本には自衛隊の権限が広がることをいやがるバカな国民が多すぎるからです。
衝突場面のビデオ流出事件は一段落しそうですが、船長逮捕時のビデオがあるはずです。この時海上保安員が支那人によって殺されたといううわさがあります。政府はこの船長逮捕時の映像をなぜ公開しようとしないのか。公開しなければ、国民は何かが隠されていると思い続けることになる。この事件は明らかに支那が悪い。そのため本来ならば、日本政府が頭にきて支那側首脳陣と会おうとせず、支那政府が何とか日本の首相と会おうと努力する姿が見られて当然なのです。ところがどうですか、少しも悪くない日本がなんとか中国政府首脳と会うことにやっきになっていて、それに対して支那は日本をじらすようにほんのちょっと顔見せするだけ。完全に支那のペースにはまってしまった。全く情けない。
日本経済は、確かに現在中国経済なしではやっていけないことは事実でしょう。しかし同時に支那も日本経済なしにはやっていけないのだ。もし日本と支那のGDPがそれぞれ半分になってしまったとしましょう、それでも日本政府はつぶれることはありません、しかし支那政府は潰れるかもしれないのだ、要するに存在するかどうか全くわからないのだ。それを考えたらそんなにビクビクすることはありません。妥協と譲歩外交はもういいかげんにしてもらいたい。
お知らせ:
1.本日よりまる四日間旅行に行ってきますので、コメントの返答がいつもより多少遅れ
ますのでご了承のほど御願いいたします。
2.今回二回にわたって書きました「妥協と譲歩外交の成れの果て」の責任の大半は外務省です。そこで次回は、「害(外)務省」のタイトルで記事を書きます。