私はプロ野球は、阪神タイガースのフアンだから、ここ何十年間とテレビナイターを見てきたが、夏の甲子園の高校野球は、今年何十年ぶりかで初めてテレビ放送を見た。それでは何故、夏の甲子園の高校野球のテレビ放送を何十年間も一度も見たことが無かったのか。高卒後何年後か、何十年後かに初めて夏の高校野球の試合をテレビで見たとき、画面ではファンが母校の応援歌や母校の校歌を歌っているとき、私は母校、県立鎌倉高校の応援歌や校歌の歌詞の一言も、そのメロディーの一節すらも思い出せなかったのです。完全に忘れてしまっていたのであった。
それには理由があった。私が中学校を卒業する前年、昭和25年(1950)の4月からいわゆる「就職列車」が始まっていた。経済力のない地方在住者の中卒生を大都会に集めるために政府は「就職列車」という夜行列車を運行させたのだ。それから20年間運行させたのだ。私は現在81歳だから現在60歳位から81歳ぐらいまでの人たちの最終学歴が中卒の人が一番多いい年齢です。
私は神奈川県川崎市生まれの神奈川育ち、戦争中父親の故郷、富山県射水市に一年半ぐらい疎開、戦後は神奈川県の横須賀市の追浜に小1から中卒まで9年間住んでいました。中卒の時、父は藤沢市辻堂にぼろやを建てた。その時、我が家では私が公立(県立)の高校に入学できなければ中卒で働かねばならないことは十分わかっていた。その頃湘南地方のトップの高校は湘南高校であった。中学の先生によると組で5番の私の成績では湘南高校は無理だからと言って鎌倉高校を進めてくれた。その通りにしたら無事鎌倉高校に入学できた。
入学して初めてしったことは、いわゆる湘南地方に住む住民は、いわゆる中産階級で、横須賀市追浜に住む人たちとの貧富の差が大きすぎることだった。
私が住んでいた追浜は、車やバスが走る道路から山頂をめざして15分ぐらい上り詰めた山中の中であった。私の家より上は三、四軒の家があるくらいで、その上は山中に入った山の中だった。水道などあるはずもなく、四軒で使う共同井戸は、つるべ落としで水をくみ上げていた。6畳と4.5畳、と台所の借家だったが、小さな庭があった。我が家は五人家族で両親と私と二人の妹。父は戦後、重症の肺結核で入院、片肺切除で、4,5年入院していた。長男一人の私は小さい時から家の手伝いをした。井戸水の汲み取り、サトイモ、じゃがいも、サツマイモ、トウモロコシ、野菜などな栽培の母親の手伝い、便所は汲み取り、これは私が男だから私専用の仕事だった。便所の汲み取りでは思い出がある。長いひしゃくで汲み取り、大きなバケツに入れ、バケツがいっぱいになると畑の中に大きな穴の中に捨てる。これを繰り返すと便所の中はきれいなるのだが、最後の残った濁り水を完全に汲み上げることが出来ず、どうしても少し残ってしまう。便所掃除をして、最初の犠牲者が、健全な大便をしたとき、その大便が便所掃除で取尽せなかった濁り水の中に落ち、ポチャリと上に跳ね返るのだ。跳ね返り水がお尻の肌に当たるのだ。それを二、三人繰り返すと、正常に使えるのだ。
そんな貧乏生活した上で、ぼろ家とは言え、一応新築した家に引っ越したので家族は喜んだ。
何しろ終戦直前に重症の肺結核で入院、片肺切除で4,5年入院して、退院後すぐに働きだしてから建てた家だからです。退院後の無理な働き方が原因か、一家が藤沢市の辻堂の引っ越した直後に、父は腎臓結核を診断され、医者から二つある腎臓のうち、一つを手術で切除すること宣言された。父は家を新築したばかりで、腎臓など切除できるかと怒るようにして、現代医療のすべてを拒否するメシヤ教という新興宗教に凝った。こうして我が家には再び新しい医療問題がもちあがった。
私は県立鎌倉高校に入学すると、まず私がびっくりしたことは、男子学生でも多くが、友達同士で「君」、「僕」と話していることだった。横須賀では男子生徒全員が、「俺」、「お前」だ。私は即座に男子生徒とは友達になれないと判断し、積極的に交わろうとはしないことにした。中学校は横須賀だから中学時代を知っているやつは誰もいなかった。私が孤立的になるのはとても楽だった。その頃鎌校は、私にとって好都合なことをやっていた、高校生のアルバイト禁止だ。当時「江の島ゴルフ場」と言うゴルフ場があった。藤沢駅、鎌倉駅間に江ノ電が今でもある。駅名から言うと「江の島駅」、「腰越駅」、「鎌倉高校前駅」、などと順番にあるがこの腰越駅から山を登ってゆくと、景勝地江の島が一望できる江の島ゴルフ場があった。山坂のきついコースだったが、このゴルフ場のオーナーが獅子文禄の小説「大番」のモデルと言われた佐藤和三郎です。私は夏休みの三年間キャディーをやっていた。この間現在俳優の中井貴一の父親、有名俳優の佐田啓二のキャディーをやったことを覚えています。
学校では、授業料以外に払うお金はすべて欠席していた。修学旅行、クラブ活動、運動部のクラブ活動など。高3の時、一週間の北海道旅行があった。一週間学校は休みかと思ったら、修学旅行中の一週間は、持病持ちであまり体力のない男子生徒と私と二人で学校でおしゃべりしたり、本をもっぱら読んでいた。修学旅行が終わって全員が学校に戻った時、担任の先生が鈴木が可哀そうだと思って皆がお土産を買ってくれたというので、私は前の方に出てもらった。先生が皆にお礼を言えというので、「ありがとうございました」と言った。これは私には屈辱以外の何物でもなかった。こうして授業以外は、全部欠席し、夏休みは三年間極秘でゴルフ場のキャディーをやり、鎌倉高校の校歌や応援歌を歌うこともなく卒業してしまったのだ。母校の校歌や応援歌を何一つ覚えていないのは当然です。今年の高校野球は、大阪の履正社高校が初優勝、創立1922年以来の初優勝だから、同窓生、先輩たちは、感極まったことでしょう。私には青春時代の楽しい思い出は何もないのだ。
卒業まじかになると女生徒は働く人が沢山いるので、学校側から就職先の連絡があるのは当たり前ですが、男子生徒は全員大学受験ですから私にはなんの連絡ありません。担任の先生は、「鈴木君、君は就職すると思うが、君、どうする?」と聞くから、「僕は、職安で探すからいいですよ」と言って、先生とのかかわりを断ってしまった。あの当時、横浜の長者町に職業安定所があった。そこにゆくと、英語がしゃべれると、いくらでも仕事があり、給料も結構高い。そこで私は英語をもっと勉強しようと思い、横浜在住が長い人は、知っている人が多いいと思いますが、横浜山下橋の近くにバンドホテルがあった。ボーイにでもなれば、英語を話す機会が多くなるのでないかとバンドホテルのボーイになった。初任給昼食つきで6,500円だった。高卒18歳から定年61歳までの43年間は、波乱万丈の生活だった。
私の生き様ぶりは、私の小説、「えんだんじ、戦後昭和の一匹狼」(文芸社、1,600円)に描かれています。今思うともっと日本国内の政治情勢を書くべきだったと思う点があるのです。戦後長い間日本は、苦労した。その長い期間、民間ビジネスでは、多くの民間人ビジネスマンが才能を発揮して世界的ビジネスマンになった人も沢山います。しかし政治の世界では、戦後の長い期間、特出の才能を示した政治家が一人だけいた。田中角栄だけである。戦後、日本は常に米国追従であった。吉田茂以下30名の総理大臣のうち、田中角栄は極めて異色であり、唯一、毅然とした姿勢で米国と対峙した。日本の国益を常に追求し、これを第一番目の基準におき物事を判断し、勇気をもって米国のはばかることなく独立独歩の政策を次々と実行し、真の意味での総理大臣中の総理大臣であったというのが私の田中角栄の総合的評価です。ところが田中角栄の金権政治ぶり徹底的に批判された。石原慎太郎も自民党議員だが、ボン、ボン育ちの若さゆえに角栄の苦労がわからない。読者の皆さん、男というものは、金のない男は、目くそ鼻くそと同じ。全く役立たないのだ。政治家にとってはなおさらだ。私も高卒後、外資系五社を渡りあるき、61歳で定年、再就職することなく現在81歳まで半ば作家気分で本を書き続けられるのもその蓄えがあるからこそなのだ。田中角栄反対の急先鋒だった石原慎太郎も都知事になったころから、角栄のすごさが分かったのでしょう。石原が84歳(2016年)のとき、角栄を天才とほめあげ、小説「天才」を書き、出版。石原を礼賛し、それがベストセラーになっているのだ。
その後田中角栄は、日米政府の司法界の謀略に巻き込まれたロッキード裁判という「冤罪事件」に巻き込まれ、病気になり病死してしまった。吉田茂以下総理大臣は、沢山がいるが、田中角栄以下は、総理大臣に値しない政治家ばかりだ。現在の政治環境を見てみろ、日本は戦後大変苦労してきたのだ、それにもかかわらず、政治家稼業は、家族経営、すなわちフアミリービジネスに陥ってしまったのだ。日本みたいに家族が代議士出身の代議士が多いいのは世界でも非常に珍しいのではないか。日本の将来に希望はもてません。これからはずっと下降線をたどるのではないか。ここからは、皆さん、最重要なことを、書きますからじっくり読んでみてください。私たち日本は、明治憲法の下で日清、日露戦争、第一次世界大戦を戦い、これらの戦争で戦い勝利し、大東亜戦争でアメリカに負けた。勝利国のアメリカは、太平洋戦争は日本が悪かった主張し、アメリカ占領軍が作った憲法を押し付けたのだ。戦争に負けた国が、勝った勝利国に憲法を押し付けられ、その憲法を改正することもなく、そのまま大事に70年間以上使い続けている国は、世界には日本以外にありません。田中角栄が生きていたら、現行憲法を無効にし、新憲法作成にまい進したことは間違いないと私は思っています。