英文翻訳本の出版が6月には大丈夫だろうと思っていたのが延びてしまった。今のところ8月なら大丈夫かなという感じです。遅れた理由は二つあります。一つは、まさか「つくる会」本、『保守知識人を断罪す。-「つくる会」苦闘の歴史』との校正が重なり出版が重なるとは夢にも思っていなかったこと。英文版の印刷屋さんが、英語の出版が初めてなので、校正が大変で私に負担がかかることは、予想していたが、予想以上であったことです。ところで題名の「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の英文タイトルが決まりました。「The USA is responsible for the Pacific War」です。Pacific Warは、本のタイトルに使うだけで本文は、すべて「大東亜戦争」の英文名、the Greater East Asia War です。
今回は翻訳余話(3)として印刷屋さんが印象的だと話していたチェロキー族をとりあげてみました。
1890年(明治23)サウス・ダコダ州のインディアン居留地、ウーンデッド・ニーで武装したスー族の一部がアメリカ軍に包囲され、スー族は武装解除し降服した。ところがどこからともなく出た一発の銃声をきっかけに虐殺が始まった。犠牲者約300人、そのうち女、子供は二百人と言われています。これが史上最後のアメリカ白人とインディアンの武力衝突になった。インディアンは完全にアメリカ人によって武力制圧されたのです。インディアンの中でもジョージア州とアラバマ州を根城にしていたチェロキー族は、異色でした。何が異色かと言えば、ほとんどのインディアンは、アメリカ人と武力衝突を続けていたが、チェロキー族は、武力闘争を続けてもアメリカ人には勝てないと判断し、武力衝突を止め、アメリカ白人との共存共栄をはかろうとしたのです。アメリカ白人文明を学び実践していったのです。
1820年前後に、チェロキー国家(チェロキーネイション)という独自の政府を設立したのです。人口2万人あまりの小国家です。チョロキー文字を作りだし、1820年代は、チェロキー国家の発展の時代であった。1825年には新約聖書のチェロキー語訳完成、1827年には、英語とチェロキー語を使用して成文化された憲法を制定、1828年には英語とチェロキー語を併載する週間新聞「チェロキー・フェニックス」を発刊し、その同じ年にチェロキー国初代の大統領が選ばれたのです。このチェロキー国大発展の影には白人宣教師たちの貢献をみのがすわけにはいきません。
ところがジョージア、アラバマ両州当局は、チェロキー族の独立国家を認めないどころかチェロキー族の存在さえ認めようとはしないのです。アメリカ政府に働きかけチェロキー族を一掃しようとした。当時アメリカのジャクソン大統領は、国会施政演説でジョージア州、アラバマ州内のチェロキー族の独立国家を認めず、彼らを全部ミシシッピー川以西の地に移す法案を提出すると発表し、1830年にはジャクソン大統領提案の「インディアン強制移住法」が可決成立してしまった。ちょうどその頃運悪く、チェロキー国内で有望な金鉱が発見された。チェロキー政府は、最高裁判所に訴えた。最高裁長官は、インディアンを先祖伝来の土地から追い出すことは憲法違反であると彼らの主張を支持しました。しかしジャクソン大統領は、この判決はあまりにも非常識だと最高裁の決定を無視して、結局1838年5月23日がチェロキー国国民のオクラホマ居留地移住の日と決められてしまったのです。その移住の日に当時派遣されていきたアメリカ軍兵士の独りが、後になって次のように書いています。
「私は、すっかり希望を失ったチェロキーたちが逮捕されて家のなかから引き出され、銃剣で柵の中に追い立てられるのを見た。ある冷たい雨の降る十月の朝、牛や羊のように馬車に積みこまれて、彼らは西へ旅だった」(「アメリカ歴史の旅」猿谷要 朝日新聞)
ここで書かれている柵というのは、その強制移住にまにあわせるためにアメリカ政府は、急造の強制収容所をつくりチェロキー族を押し込めた柵のことです。合計およそ二万人のチェロキー族を竜巻で有名なオクラホマの居留地に強制移住させるには、莫大な費用がかかります。その費用はすべて政府がもち、実際の運送は、民間業者にやらせたのです。業者は少しでも利益のうわずみをねらって、毛布の枚数、食料の量、幌馬車の数など減らせるものは徹底して減らした。
ミシシッピー川を越えてオクラホマまでおよそ1300キロの行程を冬迎える季節に出発した。道中は難渋をきわめた。食料不足による飢えと栄養失調、冬の寒さと疲労、その結果としてコレラや天然痘などの伝染病で次々と死者や脱落者が出た。死者や脱落者はその場にすてられていきました。運送者は、チェロキー族の死者を歓迎しました。一人でも死ねばその分費用が浮くからです。目的地に到着した時、正確な死者の数はわかりませんが、およそ四千人と言われています。四人に一人が死んでいったと言われています。このチェロキー族の強制移住を「涙の道」(The Trail of Tears)と呼ばれています。
1838年12月、飢えと寒さと疲労の極に達した長いチェロキー族の列がオクラホマに向かっている時、ワシントンの国会ではヴァン・ビューレン大統領は白々しい報告をしていました。
「私はここに国会に対し、チェロキー・ネイションのミシシシッピーの西の彼らの新しい土地への移住の完了を報告することに、心から喜びを感ずるものであります。さきの国会において承認決定された諸方策は、もっとも幸福な結果をもたらしました。現地の米軍司令官とチェロキー族との間の了解にもとづいて、移住はもっぱら彼ら自身の指導の下に行われ、チェロキーたちはいささかのためらいを示すことなく移住いたしました。(「アメリカ・インディアン悲史」藤永茂 朝日新聞社)
アメリカ政府は、たった二万人たらずの独立したチェロキー小国すら認めようとしなかったのです。チェロキー族が生死をかけて到着した約束の土地、オクラホマは1861年に始まった南北戦争にまきこまれ、一度は南軍に、ついには北軍に蹂躙されてしまいました。
私がチェロキー族の「涙の道」を知った時、頭に浮かんだのが「バターン死の行進」です。「バターン死の行進」とは、大東亜戦争の時、フィリピンのバターン半島の要塞に立てこもっていたアメリカ兵、オーストラリア兵、フィリピン兵等、合計七万六千名が日本軍の捕虜になり鉄道のあるサンフェルナンドまでおよそ90キロを夏の炎天下に歩かされたので多数の死者が出、また捕虜移送中に残虐行為があったという事件です。この事件は発生の約二年後の1944年2月に日本政府は抗議を受けた。その時「バターン死の行進」とは呼ばれていなかったのです。この事件を日本軍の残虐行為として有名にしたのは、マッカーサーです。彼はフィリッピン方面の日本軍最高司令官、本間雅晴中将に、この責任を負わせ、軍事裁判で死刑にしてしまった。そのため「バターン死の行進」は、アメリカ人の常識みたいに知れわたりました。アメリカ人が「バターン死の行進」を常識にしているなら、チェロキー族の「涙の道」も常識にしてもらいたい。1970年(昭和45年)に公開されたアメリカ映画に「フラップ」という作品があった。私は見ていませんのでどんな内容の映画か知りません。私の年代ならもう亡くなっているが誰もが知っているアンソニー・クィーンという俳優が、アメリカ・インディアン出身のアマリカ兵を演じていました。彼はその映画のなかで痛烈な皮肉を吐いているのです。
「(チェロキー族の)「涙の道」にくらべりゃ、バターン死の行進なんざ、そんじょそこらのピクニックみてぇなもんだ」
それは、そうでしょう。炎天下の道歩かされたといっても、重装備の日本兵も一緒に歩いての90キロ。かたや、チェロキー族は、1300キロ。バターン死の行進が遠足気分に見えてくるのは当然でしょう。
ところで最近アメリカ政府は、日本政府にアメリカ政府の歴史観を日本政府に押し付けようとしています。「従軍慰安婦」事件などその典型的な例です。私にいわせればアメリカが行ってきたすべての戦争について、アメリカ人が正義づらできる戦争など一つもありません。それを現在でも正義づらして日本政府に自国の歴史観を無理強いするとはなにごとかと言うのです。我々日本人は、一般的にアメリカ人の方がシナ人や朝鮮人よりまだずっとましだと思っているのです。シナ人や朝鮮人まねしてどうするのですか。そんなことしているとアメリカ人は日本人に完全にきらわれていきますよ。
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5 comments »
terag3 より:
2013年6月9日 9:23 AM
えんだんじさん
チェロキー族の悲劇は確か昔に、西部劇で観たような気がします。
それで少し、ウィキペディアで調べてみました。
パターン死の行進は全長120キロ、その半分を鉄道で移送、残りの半分
60キロを3日間、つまり一日20キロの行進だった訳ですが、日本兵に
とっては一日に10キロ、20キロ歩くのは日常茶飯事、但し捕虜になった
米軍、フィリピン軍にとっては炎天下、食料も無くマラリア患者も出る中で
それは正に過酷な非人道的な対応とみたのでしょう。
しかしその移動については、米軍たちは日本軍に使われるのは嫌だと
言って自分たちが保有していたトラックなど車両は事前に破壊してあった
ということなので、そのような自分たちの行為によって自ら墓穴を掘った形
にもなったと言えるのです。
そして、マッカーサーもこれを戦争犯罪として当時の責任者を処刑して
いますが、コラムニストの高山正之氏は「これを真実かどうか、一度も
検証されていない。検証の動きが出るとすぐに圧力が掛ってくる」・・・と
ウィキペディアには書かれていました。
それに比べて、えんだんじさんが仰るように、チェロキー族の1300キロ
の収容所への移動は正に残酷そのものですね。
<アンソニー・クイーンが、「涙の道」にくらべりゃ、バターン死の行進なんざ、
そんじょそこらのピクニックみてぇなもんだ」>・・・・と言ったのは正論です。
19世紀から20世紀にかけての欧米諸国の人種差別、植民地政策など
正に残酷そのものであり、日本が行った大東亜共栄圏の思想などとは
雲泥の差が有りそれが戦後、敗戦国となって、戦勝国側から日本軍は
全面的に悪であると決めつけられて現在に至っていますが、もういい
加減にしてもらいたいものです。
英文翻訳本が広く英語圏の人々に読んでもらえるように期待しています。
えんだんじ より:
2013年6月10日 7:43 AM
terag3さん
「バターン死の行進」の訂正ありがとうございます。資料を確かめず、記憶で書いてしまったためです。
英文翻訳は、ぶあついのでそう簡単には読んでくれないでしょう。
terag3 より:
2013年6月10日 11:47 AM
えんだんじさん
そうでしたか、ところで思い出しましたが、呉善花氏の日本と
韓国の違いについて書かれている「スカートの風」ですが
その後、「続スカートの風」が出て、更に「新スカートの風」と
言う具合に文庫本で三冊が発刊されました。
最初の「スカートの風」を読んで納得していたら続いて出て
きた続編に更に「新」と言うのが出たので、次は何と書いて
有るだろうと関心を持って三部とも読ませてもらいました。
長文になる書物は一気に出さずにこのように発刊するのも
良い手段だなぁ~とその時、思いました。
「大東亜戦争はアメリカが悪い」も、三部作位にしておけば
良かったのかも知れませんね。
それでも英語圏の人々は、読んでみてこれはと思えば一気
に口コミで広がりベストセラー?になるかも知れませんよ。
期待しましょう!
偕 より:
2013年6月12日 3:17 PM
「バターン死の行進」に疑問を抱いた30歳台の女性がそれと思われる行程を歩いた記が(文春?)雑誌にありました。
その雑誌は奥に入ってしまってすぐには出せませんが、結論としては天候、気温などを考慮しても、やはり、死の行進
などという行程ではなかったということでした。(距離は捕虜の出発点が異なったりして幾通りか差異はありました)
>米軍、フィリピン軍にとっては炎天下、食料も無くマラリア患者も出る中で
それは正に過酷な非人道的な対応とみたのでしょう。
これと負けて逃げ出した不名誉を隠すためにマッカサーがキャンペーンを始めたのだと思います。
ひるがえってわが日本軍を見ると、次のような行軍をしていました。もちろん病人や栄養失調者のいない現役兵の場合です。
宇都宮第14師団の演習地は約50キロ離れた那須の金丸が原。完全軍装で朝7時に出発し、途中大休止をとり、夕方
には演習場に到着。炎天下で行われましたが落伍者はほとんどありません。普通は時間当たり6キロ行軍でした。
その頃の完全軍装とはどのくらいか、と14師団の元兵長さんに聞いたことがありますが、約20キロから25キロが普通だった、
と言っていました。米などはトラックで演習場まで運べば簡単ですが、あくまで戦地を念頭に置いた演習なので米10キロ持参
はいつもの事だったそうです。苦痛は水をあまり飲むな、と言われることで、場合によっては、水筒の水を半分に制限され、
後で考えると飲まない訓練(支那兵が井戸や池に撒く、細菌、毒予防)も兼ねていたのかな?ということでした。
日本軍歩兵なら平気で歩ける距離なので、「捕虜にとってもそれほど苦労しないで歩ける」、と考えたのは常識外れでも
ワザとでもありません。戦後島に囲ったり、労役に使ったりした日本兵をワザと殺した例は、皆さん良くご存じのとおり。
14日から教科書展示がはじまりますね。今回は自由社の採用を要求の文、沢山書きまくります。
えんだんじ より:
2013年6月13日 8:29 AM
偕さん
「バターン死の行進」の情報ありがとうござます。
偕さんのようなお方が入会していただきありがたいです。