「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の思い出(3)

前回のブログでの9通の投書は、2004年7月の本出版後5か月以内に届いたものでしたが、本出版後3カ月以内には電話による講演依頼もあった。その講演依頼は、千葉県のある読者(S)さんだった。彼は元空軍のパイロットの卵だった。終戦直前は、毎日満州で飛行機乗りの訓練に明け暮れていたそうです。このSさんは、私の「大東亜戦争は、アメリカが悪い」を東京で買い求め、感激した人です。彼は個人で保守の団体を作り(4,50人位の会員数)、そのリーダーになっている人でした。講演依頼は、一時間半、質問30分の合計2時間の講演でした。それを聞いて私はびっくりしてしまった。私はサラリーマン時代、長時間の講演などしたこともない。定年後は執筆活動に追われ、保守陣営の講演なども聞いたこともなかった。講演引き受けるかどうかビビッてしまった。しかしこの講演を引き受けないとこの本の売り込みにも影響がある。女房は私の初めての講演を聞きたいというし引き受けることにした。11月末私は女房を連れJRの千葉駅に着いた。Sさんが迎に来ていた。会場は千葉駅近くの郵便局のあるビルだったと思う。参加者は4、50人ぐらいだった。私には生まれて初めての大講演だった。緊張していたが、無事乗り切った。Sさんは、その後パーキンソン病になり、私との交際は短い期間になってしまった。

懇親会の時、その日たまたま参加していた人が、習志野の空挺部隊の元隊員であった。その彼が私に向かって、「今日の講演内容と全く同じ内容でいいから来年の1月か2月に靖国会館で講演してもらいませんか」と言うではないか。渡りに船と同意し、来年に2月に講演をした。講演の主催者は、ある右翼の団体だった。私にしてみれば、私の講演を聞いてもらい、本が売れるのであれば、共産党でも右翼でもどこでもよかった。遊就館に本屋があること知っていましたから、講演を利用して本屋への売り込みに成功した。講演後の懇親会では、以後長くつきあうことになるノモンハン事変の生存兵の一人、Aさんと出合った。Aさんは、自衛隊には色々な団体があるが、戦前、戦中からあった在郷軍人会の流れを含む、全国組織の神奈川県支部の副会長だった。それから3,4か月後、Aさんから電話があった。A さんの神奈川支部会長のKさんが私の本を読んで大変感激し、ぜひ私に会いたいし、また頼みたいこともあるので、ぜひ、ぜひお会いたい、私の都合の良い日にあわせるから、ぜひ会う約束をしてくれないかという丁重な電話をいただき、横浜駅付近で会うことを決めた。

横浜駅近くのレストランで二人の接待を受けた。紹介された神奈川支部会長のKさんは、終戦時陸軍中尉、終戦時フイリッピン米軍の捕虜収容所にいた。Kさんによると、敗戦時の捕虜収容所の問題は、捕虜間で日本兵の階級意識が保てるかどうかだ。敗戦になったら上官の命令など聞くのがバカらしくなる、部下から侮り受ける、彼の部下も反抗的になり暴力で立ち向かってきた。幸い彼は空手を習っていたので、抑えることができたが、もし自分が負けていたらどうなっていたか皆目わからないと言っていたことを思い出す。
Kさんは、「私がお願いしたいのは、ぜひ私が会長をしている神奈川支部に入会してもらいたい」と言った。理由は、当時では現役の自衛官や元自衛官すら自虐史観の人が沢山いるのが現状。会長は少しでも自衛官を自虐史観から解放したいと思っているのです。それには私の本を読ませるのが最適です、本を読むことがきらいな人もいるでしょう。それには私の講演を聞かせるのです。会長の団体は、戦前の在郷軍人会の流れから組織は全国的につながっています。ぜひ私にも入会して自虐史観からの解放に手を貸してくれませんか。
会長は私の手を借りて、神奈川支部会員全部に大東亜線史観を教え、その後関東地方の各県支部を訪問してこの本の販売と私の講演の支援をしたいと言うのです。ぜひ入会してくれと三顧の礼をもって迎えられたような感じで入会した。

入会してみたが、私は期待外れだと思ったし、K会長、A副会長二人とも期待外れの感を抱いたと思う。神奈川支部の会員たちは、表向きは会長の意見に従っているが実際には、二人の考え(私の本、講演を通じて全国の支部に大東亜戦争史観を広める)に積極的に参加しようとしなかった。私はK会長にお願いして、神奈川支部で講演した。私は神奈川支部の会員たちに私の講演の実力をみせたかったのだ。初めて私の講演を聞いたK会長は、すばらしかった、どこで講演しても恥ずかしくないと言ってくれたが、会員たちにはアピールしなかった。その理由は四つ考えられます。
1.本が分厚すぎて、本好きでないと積極的に読む気にならない。会員たちのほとんどが私の本を読んでいなかった。
2.私が有名な学者や知識人であれば、K会長の言うことを積極的に取り上げようとしたでしょう。しかし、私は無学無名、これといった誇りにできるような経歴なし、一しがない定年サラリーマンに過ぎなかった。
3.K会長とA副会長だけが元軍人であったが、他の会員たちも老人が多かった。老人特有のパソコンを触れない人がほとんどだった。そのため会長、副会長だけでなくほとんど全員、私のブログなど読む人がいなかった。
4.碧天舎が出版一年半後に倒産。本が話題になる機会が完全に失われたこと。

これらの事情のため会長、副会長の計画が空回りしてしまった。それでもK会長は、東京本部の会長から次のような表彰状を書かせ私にくれた。
表彰状: 鈴木敏明殿
「あなたは永年にわたり日本○○○○の使命の重要性を認識されよく連盟の理念を体し防衛思想の普及英霊顕彰並びに歴史伝統の継承助長等日常活動を強化推進し基盤の充実強化に著しい成果をおさめ連盟の発展に多大の寄与をされました。よってここにその功績を称え表彰します。」 平成23年5月18日    社団法人日本○○○○ 会長 T.S.

私は他県の支部での講演を一回もしたことがなく、講演したのは地元神奈川支部の一回だけ、その他この表彰状に書かれているようなこと一度も行ったことありません。それでもK会長もA副会長も、私を表彰状に書かれているように活躍させるつもりができなかったし、私も期待に応えることができなかった。それでも二人は、せめて本部会長から表彰状だけでも渡そうとしたのではないかと憶測しています。現在はもう高齢のため二人とも亡くなっていますが、生前二人が個人の力だけでも私の本が売れるよう最大の努力をはらってくれたことに対しても私は、心からの御礼を申し上げる次第です。

K会長は、元陸軍中尉であったが、私の本に関してもう一人忘れることができない元陸軍中尉がいます。千葉市本八幡に住むIさんだった。Iさんは、本来なら私に投稿したかったのだが、脳梗塞を患い右手と右足が不自由で手紙が書けない、そこで出版社を頼って電話してきたのです。彼は電話口で私の本を絶賛した。彼も大東亜戦争関係の本を数えきれないほど沢山読んでいるけど、私の本の出来が最良だと言うのです。彼は非常な読書家で今でも自宅に三万冊の本があるというのだ。自分はもう年で残り時間が少ないから、私さえ良かったら、この三万冊の本をあげるから受け取ってくれないか、私のこれからの執筆活動に使える本もあると思う。だからぜひ私の家に来て蔵書を見てくれというのだ。我が家には、そんな三万冊の蔵書を置くような場所もないということで丁重にお断りをした。しかし、その後何度も電話してくるようになったのだ。本を譲ることはあきらめたけど、ぜひ私と話をしたいと言うのだ。電話による会話でわかったことは、Iさんはビルマ戦線中に米軍の捕虜になった。彼は戦前アメリカ留学の経験があるので、通訳として働いていたのだ。彼はビルマでは有名な南機関の一員としてビルマ独立義勇軍の編成にも当たったようなことを言っていた。彼の家の訪れることにした。彼は熱心に誘うし、私も面白い話が聞けるかもしれないと考えたからだ。

彼は老夫婦二人だけの生活、彼は脳梗塞で右手、右足が不自由と聞いていたので、私は手土産にお酒より、甘いものがいいのではと思い、虎屋の羊羹を持ってでかけた。本八幡は、秋葉原から総武線で30分ぐらいの所だった。彼の家についてびっくりした。建物は非常に古くなっていたが立派な西洋館で敷地は300坪ぐらいあったのではないか。彼は色の濃いサングラスをかけていた。ジャングル戦で敵の狙撃兵に狙われ、頭部の後ろを撃たれ、その弾が右目から眼球と一緒に飛び出していったというので命が助かったらしい。サングラスをはずしてくれて見せてくれたが、どす黒く非常に怖い顔つきになっていた。挨拶をかわし話し込んだが、まず初めに彼が言ったことは、私の本を読んだとき、もっと早く自分が元気だったときこの本に出合っていたら、この本の売り込みに役立ったのに非常に残念だと言った。それから後は、アウンサン・スーチーの父親、アウンサンの話ばかりだったような気がした。話が一段落して、それでは書庫を案内しようと言って案内されたのが四階だての書庫ビルだった。一階から三階まで三万冊の本がびっしり、四階は彼の書斎になっていたが、脳梗塞後四階にあがったことがないのでしょう、机の上がほこりだらけだった。どれでも好きな本があったらさしあげるからと言うのでハーマン・カーンの本など二、三冊もらった。本棚の中に「千夜一夜物語」があった。アラビアンナイトでしょう。その全集を見て、あんなに連続した説話集だったのかとびっくりしたのを覚えています。彼自身本も書くこともなく、何か研究しているわけでもないのに、ただ読書の趣味だけで三万冊を自宅の書庫を建てて持っているのは全国的にもめずらしいのではないか。息子さん一人いるが全く本に興味しめさないそうだ。彼の家を退去して数日後、幸田露伴全集全44巻が送られてきたのにはびっくりした。幸田露伴の名前は知っていたが、まさか44巻も出版しているのは知らなかった。彼が言うには、私が手土産まで持って訪ねて来てくれた御礼だというのだ。君は苦労しているかもしれないが、幸田露伴も苦労している、九巻を読んで見なさい。幸田露伴の苦労ぶりが書いてあるからと言うではないか。さっそく私は九巻をとりあげて読みだした。残念ながら私には、明治時代の小説家の文体などまったく読み慣れていず、時間がかかるばかりだった。結局九巻を私の書斎に置き、残り43巻全部物置にしまいこんだ。

その後Iさんは、癌になり三万冊の本は千葉の地元の図書館に寄贈、敷地は売って、東京三田のマンションに移り住んだ。私は新しい本を出版する度に、三田に送ってやった。必ず三田からお礼の電話があり、その度に彼は私の文章力を褒め、これからもどんどん書き続けるようすすめるのであった。K元陸軍中尉もI元陸軍中尉も、そしてノモンハン事変の生存兵Aさんも、もう年でこの世にはいないが、三人に「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の英文版の完成を見せることも知らせることもできなかったことが残念でたまらない。彼らには生存中本当にお世話になりました。ただただ感謝のみでご冥福を祈るばかりです。
「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の思い出は次回のブログに続きます。

————
1 Comment »

terag3 より:
2015年7月4日 5:18 PM
えんだんじさん

この著書を、上梓されて、それが御縁で当時、大東亜戦争で活躍された軍人さんたちからお声が掛り、当時の実話もお聴きになられたことでしょう。戦後、当時の軍人さんたちは固く口を閉ざしたままで多くを語らず、そのために、自虐史観に基づいた憶測や捏造話が、言論の自由とばかりに蔓延って、英霊たちを冒涜しています。

反戦平和の語り部も、結構ですが、実はもっと大事なことは我らの祖父たちが、国を護るために如何に勇敢に戦い、身を犠牲にして、この日本を守ってくれたかを次世代へ語り継いでいくことが重要だと思います。

ところで2004年と言えば、私も2004年12月23日に、この連盟の主催した、天皇誕生日奉祝行事の一環として、イラクのサマーワで活躍された、番匠幸一郎1等陸佐の講演会を拝聴したことが有ります。現在55歳になられますが、陸将に昇格されていて、第35代西部方面総監に就任されています。

連盟の会長とは面識が有りませんが、神奈川支部長とは、その時に懇親会でお会いして、番匠1等陸佐と並んで記念写真を撮らせて頂きました。そのような次第で、えんだんじさんと私は意外にあちこちで御縁が有るような気がします。これからも、このような保守系の会合での講演会をもっと拡充されて、英語で世界に発信する事業も合わせて益々のご活躍を念じております。
次回も楽しみにしております。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です