平成2年に栃木県足利市で当時4歳の女児が殺害された「足利事件」で無期懲役刑が確定し、今年6月に17年ぶりに釈放された菅谷さんが時の人になっています。菅谷さんのケースは、正真正銘の冤罪で、無実にもかかわらず無期懲役刑を受け、17年間も刑務所暮らしを強いられたのです。菅谷さんは一身に同情を集め、また同情に値する事も事実です。その点については私も否定しません。
だがしかしと私は言いたい。冤罪の責任のすべては検察側にあるのでしょうか。私の主張は、菅谷さんにとっては非常に酷な意見であることは承知の上であえて言えば冤罪の半分ぐらいの責任は菅谷さん自身にあるのではないでしょうか。その理由は菅谷さん自身が、実際には殺害していないのに「自分が殺したと」自白しているからです。
想像してみてください。例えば、テレビの時代劇ドラマに出てくる犯罪者への拷問シーン。ロープで体を縛られて天井から逆さまに吊るされ、青竹あるいは木刀で打ちのめされながら自白を強いられる。こういう暴行のもとに菅谷さんが自白したら、これは完全に100パーセント検察側に責任があります。
検察は、言葉の暴力、執拗な誘導尋問、あるいは長時間にわたる尋問、いわゆる言葉の暴力による精神的な苦痛を菅谷さんに与え、自白を強いたと批判されています。しかし私に言わせれば、殺人特に幼児殺人などは、同じ殺人犯としても最低の人間の仕業です。そういう犯罪者かもしれない人間に検察が紳士を相手にするような言葉使いで尋問したら殺人犯に完全になめられますよ。多少荒っぽい尋問や、執拗な尋問は当たり前の話でしょう。警察や検事が犯罪者になめられたら日本は犯罪天国になってしまいます。
菅谷さんにとって不運だったのは、当時信頼性がいま一つだったDNA鑑定で菅谷さんに不利な結果が出たことでしょう。しかしどんな検査結果や鑑定結果が出ようと、自分が殺してもいないことを殺しましたと、うその自白をすることは自分自身を犯罪者にする罪なことをしていることなのです。そういうことを自覚できずに、うその自白をしたというところに菅谷さんの精神的なもろさがあるのではないでしょうか。
菅谷さんに酷な言い方をしますが、菅谷さんのような精神的なもろさでは、かりにこの足利事件なくても他の件で菅谷さんは何か大きな人生上の失敗をしでかしたことでしょう。菅谷さんは、DNA鑑定の結果で孤立無援に陥ったと思います。私は若い人に強く主張したい。自分がいくら正しい行為をしても、あるいはいくら正しい主張をしてもそう簡単に理解されない場合も往々にしてあり、またそれどころか孤立無援に陥ることもあります。だから自分がいくら正しい行為や正しい主張しても、時には戦いとらねばならないことが往々にしてあるということです。精神的に「戦い抜く」ということがいかに大事であるかということです。
自分を応援してくれる人、精神的に支えてくれる人が沢山いれば、誰でも自己の主張、俗に言えばえらそうな事はいくらでも言えます。しかし孤立無援に陥った時でも、自分の主義主張を堂々と主張できる、あるいは行える精神的なタフな人間になってほしいのです。
私に言わせれば現在の日本人は、菅谷さんみたいに精神的なもろさのために自滅していく、すなわち菅谷さん症候群にかかる人が実に多い。若者に自殺者が多いのは、精神的なもろさが最大の原因でしょう。自殺者の数が今年を含めると11年連続して3万人を超えるというのだ。病気の老人が先行き不安になっての自殺は理解できます。全く理解できないのは五体満足の若者の自殺だ。鳩山首相は、所信表明演説の中で失業して職にありつけなかった若者の自殺を同情的に語っていたが、ナンセンスもはなはだしい。そんな自殺者は全く同情にあたいしません。精神的もろさ以外のなにものでもありません。なぜそう言えるかというと私は、終戦直後混乱した社会、国の福祉など全くなかった時代に死に物狂いで生き抜いた母親を自分の目で見てきたからです。
無差別空爆で家を失った私の家族は、終戦直後、父は重症の結核患者、私は小学校一年、下に妹が二人いました。末の妹はまだ乳飲み子同然でした。当時の生活環境など今の若い人には想像できないだろうから簡単に説明しましょう。電気冷蔵庫なし、電気洗濯機なし、掃除機なし、ガス、水道なし、水洗トイレなし。水道がないから、借家から百メートルくらい離れた共同井戸でつるべ落としのバケツで水をくみあげ、持ってきたバケツに水をそそぎ、水がいっぱいにはいったバケツを両手で運び、自宅の台所にため水にして使う。ガスがないから薪やすみの生活。電機アイロンさえないからすみを入れたアイロンです。家事そのものが当時の母親にとって大変な重労働なのだ。その上入院している父の世話、子供達の世話、まさに母親八面六臂の大奮闘でした。
父は重症の病だから働けず、収入はない、しかも治療費はかかる。母親は子供達を食べさせなければならない。さつまいもの葉っぱ、大根、にんじんなど、色々な葉っぱを食べさせられた。白米など食べたことがない。母親の死に物狂いの働きをみて私は子供心にも母が倒れたら我が家はもうおしまいということを本能的に感じたのでしょう。私自ら母親の手伝いをしていました。井戸での水汲み、薪割り、トイレの汲み取りなど小学校2,3年ごろから手伝いをしてきました。こんな貧乏暮らしをしていても国家からの福祉は一切期待できなかったのだ。
私が高卒時、昭和32年(1957)、病気で働けない父の診断証明書をつけて大学入学の奨学金を請求しましたが受け入れられませんでした。私の成績が抜群の成績ではなかったからです。本当に優秀な成績ではないと奨学金もかなわなかったのです。それだけ日本は貧乏国だったわけです。中卒の時、就職組みと高校入学組みとは半々でした。しかし実際は就職組みの数の方が多かったと思います。高校入学組みには県立高校に落ちたら就職組みになる人が多かったからです。だから私の年代は、学歴は大卒の人より、中卒と高卒あわせた人達の方が多いのだ。
それがどうですか。来年から高校まで無償だ。終戦直後の生活に較べてあまりにも恵まれています。それでも自殺者が多いのは、国家にとって大きな損失だから国は自殺者の経済的面倒をみろと主張する知識人がいるのだ。私に言わせれば、ふざけるのもいいかげんにしろと言いたい。今はなんでもかんでも国が面倒みろと、国の援助ばかり期待するのが習慣みたいになっているのだ。私の母親みたいに死に物狂いで働いて見ろというのだ。
貧乏になればすぐに生活保護がもらえるから、心底死ぬ気で働く者もなければ、死ぬ気でなくても本当に働く努力を怠っているのではないか。菅谷さん初め現代人の精神的もろさなど指摘されないどころか、経済的な不況になると自殺者が増えるからと経済的な援助を与えようとするばかりで、もっと精神的に強くなれなどと叫ばれることもない。日教組は生徒を過保護に育てるばかりで、いかに子供達が精神的に逞しく育てるかなど考えようともしないのだ。
現代日本人の精神的なひ弱さは、国民だけではありません。政治家も同様です。政治家の精神的もろさの典型的な例は、「靖国神社代替施設」建設案です。戦後、国会は東京裁判など戦争裁判の犠牲者を戦犯者として扱わず法務死として扱い一般将兵と同じ扱いにした。そこで靖国神社は戦争裁判犠牲者を「昭和殉難者」として合祀したのです。戦後の40年間(昭和60年迄)日本の歴代総理大臣、吉田茂から中曽根康弘まで10人の首相が延べ56回靖国神社に参拝しているのだ。
それが昭和60年(1985)8月15日に中曽根首相が靖国神社を参拝した時、その時支那政府は、総理大臣の靖国神社参拝に抗議を表明しました。それ以後中曽根は、首相任期中に靖国神社に参拝することはありませんでした。中曽根以降、靖国神社に参拝したのは橋本首相と小泉首相のふたりだけです。中曽根以降中韓二カ国は、執拗なまでに首相の靖国参拝に反対し続けています。日本の首相が日本国内のどこの神社に参拝しようと勝手な話で、それに反対することは内政干渉です。言い分は日本にあるのです。それにもかかわらず結局、世界中の国々の反対でなく、中韓たった二カ国の強固な反対のために「靖国神社代替施設」建設を考えているのだ。
結局は検事から執拗に「お前がやったのだろう」と責められたら自白してしまった菅谷さんのケースと全く同じです。「靖国神社代替施設」を認めたら戦後40年間歴代の首相が靖国神社に参拝したことが間違だったことになるのだ。自民党の政治家でもあるにもかかわらず、中韓二カ国から執拗に攻められると自分の主義主張がつらぬけなくなり譲歩してしまうという姿勢が見え見えなのだ。靖国参拝問題で日本の主張を貫いたからと言っても戦争になる心配などないどころか、中韓二国が日本と断交してくる心配などすこしもないのに譲歩しようとする姿勢を見せるのは、やはり自民党の政治家自身でさえ精神的なひ弱さを示している証拠です。自民党の議員よ、もっと精神的にタフになれ。
自民党の歴代の首相は、村山談話や河野談話を否定できませんでした。村山談話や河野談話は閣議決定でもなければ国会決議でもありません。あくまでも政治家の個人的談話です。だから首相の一存で否定できるのです。それを否定できないということは、否定した場合の中韓両国の反発や日本国内のマスコミや左翼の反発を恐れているからです。そういう反対を乗り越えてでも自分の主義主張を通す精神的なタフさがない証拠なのです。
日本の首相は、選挙で負けるか、国会で首相不信任案が可決されないかぎり誰も首相を首にできません。首相に確固とした信念と精神的なタフさをそなえていれば、村山談話や河野談話を否定し、自虐史観を否定できるのです。二世議員の首相ではそんな勇気はありません。鳩山首相にいたっては、心は少年時代のまま、知識だけ沢山つけて首相になっただけ。だから友愛などと理想ばかり追い求めて政治を行おうとしているのだ。自虐史観を日本政府自ら払拭しなければ、日本の復活は、絶対にあり得ません。自虐史観を政府自ら公認している限り日本は自滅の道をたどるだけです。いまはもう自滅への道へまっしぐらです。