「人類」という漢字や言葉がいつから使われたのか私は知りません。私の考えでは,男と女を一緒にして「人類」という言葉をつくったのは大間違いだったと考えています。正しくは、「男類」、「女類」に分けて使うべきだったのではないでしょうか。その理由は、男と女とは全く異質な動物だからです。だから男女お互い100パーセント理解しあうことはできません。男が人類なら女は人類ではありません。また女が人類なら男は人類ではありません。そのくらい男女間に違いがあるのだ。もし大の大人が、いやそれは違う、男女は、体の機能が違うだけで、あとは全く同じなのだと主張する男女がいたら、その男は女のことについてあまりよく知らない野暮な男であり、女は男のことをあまりよく知らない野暮な女なのだ。こんなことを主張する男女が異性からもてるようならもう此の世も終わりです。
最初から「男類」、「女類」という字と言葉を使っていたら、現在の日教組の教育方針の基本中の基本、「男女同質」などという考えは生まれなかったでしょう。なまじ「人類」などといって男女一緒こたにしてしまったから「男女同質」という思想が生まれたのかもしれません。「男女同質」とは、男と女は体の機能が違うだけで、あとはすべて同じだ、だから男女間にあらゆる差別、区別はなくすべきだという考えです。よくジェンダーフリーという言葉を使っていますが、この「男女同質」のことです。
戦後このかた男女同権、男女平等が特に強調され、実践されつづけられ、今ではすっかり常識になり、ことさら意識する事ないあたりまえのこととなりました。それはそれで非常に結構なことでなにも反対するものではありません。しかしその反面、男女異質がことさら無視され続け、そのため「男は、男らしく」、「女は、女らしく」育てるという伝統的育て方は、男女差別を生むとして徹底的にきらわれた。今では、特にフェミニストや左翼の連中は、男女異質を無視するどころか強引に男女区別そのものを取り払おうとしてやっきになっている感さえします。その現象が一番強く現れているのが日教組の支配する学校や各市の男女共同参画室です。
学校での男女混合名簿は、もう当たり前になっています。新築の校舎は、男女のトイレは同じ、更衣室も同じ、父兄から文句が出て更衣室の真ん中にカーテンをかけて男女を区別しているような学校も出るしまつです。修学旅行では宿屋に泊まれば、男女同室で寝る。小学校の運動会では、男女を騎馬戦で戦わせる等等。すべての公立学校がこのようだとはいえませんが、こういう傾向になっているようです。
一昨年の3月私は公立の中学校の卒業式では、国旗や君が代がどう扱われているかを調査しに横浜市青葉区の美しが丘中学校に行きました。学校でトイレが使いたくなったので、トイレを探しましたが見つかりません。学生に「トイレはどこ」と聞くと「すぐそこです」と言うから入っていくと女性のトイレでした。びっくりして隣の男子用のトイレで用をたしました。トイレを出てからトイレの入り口を見ると、男女識別のマークが全然ありません。よく観察すると以前は、木に「男」、「女」と書いた木札みたいのがはりつけてあったのでしょう。その男女を識別する木札が無理矢理はがした跡が残っていました。学校のトイレの男女識別札をわざわざ剥がすことが、教育となんの関係があるのでしょうか。日教組のバカさかげんもここまで進んだということでしょうか。
愛知県大府市では、市庁舎のトイレは、「男は青でヒト形、女は赤のスカートでヒト形」で区別していたが、「区別は差別につながる恐れがある」として2000年以降は市庁舎など五箇所のトイレを同一マークに変えた。ところがトイレの利用に迷うケースが続出、結局元のマークに戻すことに決めたというのです。男女のトイレ区別が、男女差別につながるというのなら、女性に全員立小便させたらどうだというのです。
数年まえ私は、相模原市で講演をした。相模原市の男女共同参画室は、駅前ビルの確か5階か6階を全部借り切っています。その階のトイレは、男女区別なし、その他の階は通常どおり男女区別ありという状態でした。今でもそのまま変わらないのかどうかわかりません。このように現在では男女の区別さえ取り除こうとしているだけではありません。発想の区別さえ厳しく問われるのだ。発想の区別とは、例えば、高校生が母の日のプレゼントとしてエプロンを贈った。この母の日にエプロン、すなわち母イコール台所という発想そのものが、男女の区別化だと主張するのだ。
後で振れることになりますが、「男が妻子のために頑張る」このような言葉や発想自体が、男女差別、男女区別を助長する言葉だと非難されるのです。このような時代だから男女異質など全く顧みられることはないのだ。中、高校生の女性のカバンには色々と可愛げな物がついています。一方男性のカバンにはなにもついていません。このように日常生活で子供の時から男女異質性を種々表しているにもかかわらず、その異質性を無視し、男らしさ、女らしさという性差は,後天的に造られたものとしているのだ。
この男女同質、いまはやりの言葉で言えば、「ジェンダーフリー」の思想は、欧米からきたものです。ところが欧米でもこの「ジェンダーフリー」が行き過ぎ、とうとうカソリック教会のローマ法王のベネディクト16世は、去年の末バチカンで聖職者向けに行った年末の演説で、ジェンダーフリーは男性と女性との区別をあいまいにし、人間の「自己破壊」に繋がるものとして非難しているのだ。至極当然のことです。教育界から「男の子は、男らしく」、「女の子は女らしく」という発想を失くし、男女同質で育てられた最大の犠牲者は、男の子です。私に言わせれば、今の若い男は、まるで去勢されたような弱い男に育て上げられたのではないでしょうか。いくつかの好例を紹介しましょう。
1.男が人前で平気で涙を流す。
私のブログ「男の涙」(9月13日)参照
2.妻子を残して平気で自殺していく男が実に多い。
妻子のためにがんばるというような男の気概など全くなくなってしまったと言えるのではないでしょうか。要するに前に触れましたが「男は妻子のために頑張る」とか「男の気概」とか言う言葉そのものが性差別、性区別につながるから使われることがないのだ。先生をしていた経験者から聞きましたが、教室で「お前男だろう」、「男のくせに」、「男らしく」などという言葉をついうっかり使用すると、生徒から「差別用語だ」と「訴えるぞ」などという言葉が返ってくるというのです。男たるものこうでなくてはならぬという枠をはめる言葉が全く使われなくなったため強い男が育ちにくくなっていることは確かでしょう。そういう男がいずれ政治家になっていくのだ。外交交渉はどうなるのでしょうか。
父親が自殺した遺児が、経済的に援助されたりしていますが、私は自殺した父親への同情の言葉を遺児に伝えることは絶対に間違っていると思います。遺児に同情しても妻子を残して自殺する父など最低中の最低の男だとはっきり指摘してやることが必要です。
3.家庭内暴力の増加。
これも男が弱くなっている典型的な例です。男というものは、精神的に幼稚で弱い、情けない男ほど暴力にものをいわせたがるからです。
4.若いセックスレス夫婦の増加。
「草食系男性」という言葉がはやって久しい。私は最初ベジタリアンの男かと思ったくらいです。誠実で優しいが、恋愛には消極的な男性を指す言葉だという。女性との交際が苦手で、晩婚化に拍車をかけているという指摘もあります。厚生労働省の「第四回男女の生活と意識に関する調査」(平成20年9月)のデーター分析の結果、1ヶ月以上性交渉していない夫婦は36.5パーセントです。少子化問題も性交回数の少なさも原因として考えられるとも言われています。若い夫婦が一月以上も性交渉がないのが36.5パーセントなどというのはセックレス夫婦同然と言っていいでしょう。幼児から全く男であるとか女であるとか意識させられることもなく育てられるとこうなってしまうのでしょうか。精神科医でもわからないのではないでしょうか。
「草食系男性」は、女性との交際が苦手だと言われています。好きな女性がいてもくどけないのだ。こんな男は最低中最低だ。私がたまにやる講演は、年配者が多いが、若い男ばかり集めて、「女の口説き方」という演題で講演したいくらいだ。
その他にも日本の男に意気地がなくなった話はよくききます。最近私は、横田徹氏の講演を聴いた。彼は34歳、戦場カメラマンです。日本では難民キャンプの映像を取るカメラマンまで戦場カメラマンを呼んでしまっていますが、実際に銃や機関銃をドンパチと撃ち合っている本物の戦場でカメラ撮影している戦場カメラマンは、日本では現在、横田氏だけです。横田氏によると日本の若者は勇気がないと語っていました。戦場カメラマンは、危険だしその割には収入に報われることがない。だから若い男になり手がないことは理解できると彼は言っています。それにしても日本の若者は勇気がなさすぎる、そこいくと欧米人の若者は実に勇気があると感心していました。欧米人戦場カメラマンが続々と誕生してくると横田氏は言うのだ。
そう言えば、世界の紛争地での現場レポートなどは、CNNなど海外テレビのレポーターからの報告ばかりだ。私の若い頃は、日本兵の勇敢さは、外人からさえも聞かされたし、また世界が認める勇敢さだった。それが現在の日本の若者の姿はどうだ、大相撲では日本人横綱が出なくなって久しいし、また日本人横綱が生まれる気配すらない。
人類が地球上に誕生した時、すでに男女の異質性は、存在していたのです。農業がまだ始まっていなかった何万年も前、男は狩に出かけ、女は家も守りました。狩する道具が幼稚のころは、狩は非常に危険な仕事であったでしょう。そのため男は負傷したり死んだりしたでしょう。また部族同士の戦争もあったでしょう。そのため男の犠牲死により、女は悲惨な辛い目にあう。農業が発展し人間の文明が栄えて狩をする機会が減っても、戦争する規模が少しずつ拡大していきました。男の戦争犠牲者の増加です。同時にそれがまた女が悲惨な辛い目に会う機会の増加です。
この繰り返しの何千年だか何万年、そのために男の攻撃性が強化され、また女の忍耐性が強化されたことは誰も否定できないでしょう。男の攻撃性、女の忍耐性が男女異質の根本的な違いです。この根本的違いから色々と派生して男女異質の遺伝子が組み込まれていったと解釈できます。
三、四年前大ヒットした映画、「タイタニック」。私は若い皆さんに問いたい。あの映画の男女の恋人に逆の演技、すなわち男の演技を女に、女の演技を男にさせたら同じように大ヒットしたでしょうか。まずヒットしないどころか、そんな映画を作る監督もいないでしょう。女が男を一所懸命助けることは、実生活でもいくらでもあります。しかしあの映画の場合は、愛する男が、愛する女を助けてなりたつ映画なのです。すなわち男女異質を忠実に反映した映画です。
若い男女があの映画を見て感動したということは、男女異質を徹底して無視されて育てられた若い男女にもまだ男女異質の遺伝子があるということなのです。「男は、男らしく」、「女は、女らしく」育てるという男女異質を認識したこれまでの育て方を徹底して無視して育てられた男女がいまや20代から30代初め頃の年齢に達しています。私はこの年代の人たちに聞きたいのです。若い皆さんは、私のこのブログにたいしてどのような感想を抱くのでしょうか。