正義感と「和」の文化

アメリカ人というのは、どうも正義感の強い民族ではないかというのが私の考えです。この私の考えに反対する人もいるでしょうが、その方は最後までこの文章を読んでみてください。1960年代のアメリカは黒人の公民権運動が盛り上がった時代です。公民権運動とは黒人差別撤廃運動です。黒人が白人と同じ学校で学び、同じレストランで食事をし、同じホテルに泊まれる。あるいはバスや映画館では黒人は、どこの席にも自由に座れるというような公民権を黒人は大規模に主張したのです。この黒人の公民権運動は白人の猛烈な反発を呼びました。ケネディー大統領の公共施設における差別撤廃法案が上院で議事妨害にあって棚上げになったり、各地で流血の惨事が繰り返されました。その時多くの白人はただ傍観しておれば身に危険が及ばないものを、正義感に燃え自ら黒人差別撤廃運動に参加して、多くの白人が黒人差別主義者の白人に殺されたり、負傷させられたりしたことも事実なのです。

白人の郵便配達人ウイリアム・ムーアは、大きなゼッケンに「黒人も白人も一緒に食事しよう。すべての人に平等の権利を」と書いて、ボルチモアからミシシッピーに向けての行進に参加したが、彼はアラバマ州に入るやいなや射殺されてしまった。黒人差別を徹底して貫こうとする狂気に近い執念もすごいが、それにも負けない正義感もすばらしいではありませんか。アメリカ南部でも黒人差別の激しいアトランタ州の新聞、「アトランタ・コンスティテューション」の白人記者、ラルフ・マッギルは黒人差別反対の記事をたびたび書くのですが、そのために猛烈なイヤガラセにあっています。その一つが、外から車で通りがかり自宅に何発もの実弾を浴びているのです。反面、彼の勇気ある記事には白人、黒人問わず沢山の人たちから支持や激励の手紙が舞い込むのです。正義感あふれる行為に対して人々が積極的に支持していく。ここらあたりはアメリカ人の長所の一つではないでしょうか。

ご存知アメリカは犯罪王国です。凶悪犯罪、凶悪犯人目白押しです。警察内部の腐敗もあります。そして犯罪件数も多いからたまったものではありません。そういう犯罪多発国にもかかわらず、国家として成り立っているのは、凶悪犯罪や警察内部の腐敗にも負けない人一倍正義感の強い人たちが多いからなのではないでしょうか。その代表的選手をあげれば、昔の人になりますがエリオット・ネスです。エリオット・ネスと聞けば、私の年代であれば思い出すのが、昔のテレビの人気番組「アンタッチャブル」のFBI捜査官です。十年以上前だと思いますが、ケビン・コスナー主演の「アンタッチャブル」という映画にもなりました。禁酒法時代のギャングの大物、アルカポネのギャング一味をやっつけるのですが、エリオット・ネスは実在の人物です。テレビではエリット・ネスは中年の人でしたし、映画では乳飲み子を持つ若い父親でしたが、実際は彼が弱冠26歳の独身の時にカポネ一味撲滅の全権を与えられているのです。若いだけに正義感を発揮しやすいとも言えますが、自分が一緒に住んでいる両親の家と彼の恋人の家を24時間体制で警官に守らせての捜査活動だから、生半可な正義感で勤まる仕事ではありません。恋人とのデートでもボディーガードを見張りにつけているのですが、それでも危うく難をのがれる経験もしています。指揮官のネスを初め彼の部下にもギャングから度々賄賂が届けられますが、すべて送りかえしている。そのためネス一家は、アンタッチャブル(untouchable)と呼ばれたのだ。アンタッチャブル(untouchable)とは米英語で「買収がきかない」の意味です。ネスの伝記を読むと彼は自分の体が神に守られているなどとは一言も言ってはいません。また自分の正義感が許さないなどとも一言も言っていません。ただ淡々と捜査活動を語っているだけに、彼の沈着冷静ぶりと内に秘めた強い正義感がうかがえるのです。一つ一つの密造酒工場をつぶし、カポネの資金源を絶っていくのだ。カポネ逮捕後も数々の功績をあげてそれなりに出世をしたのだが、命を張った危険な仕事のわりには報われ方が少なかった。ネスはそれが不満だったのでしょう、途中退官して自分で仕事を始めたのだ。一説によると警察内部の腐敗を極端に嫌ったネスは、多くの同僚を刑務所に放り込んだため、功績が大であるにもかかわらず、警察内部に嫌われてしまったというのだ。いずれにしても退官後のネスは、数年後に心臓発作で死んでしまった。一方刑務所入りしたカポネは、二度としゃばに出られず、刑務所入り前に患っていた梅毒が悪化、梅毒菌が脳に回って廃人同様になって死んだ。

エリオット・ネスの例までだしましたが、とにかくアメリカ人は正義感が強いことは確かなようです。前回のブログ記事に登場させた国立航空宇宙博物館長のマーティン・ハーウィットも正義感強い男だ。史実に基づかない「原爆展」など開けるものかと議会、上院の満場一致の決議に辞職覚悟で堂々と挑戦しているのだ。聞くところによると彼は新任まもない館長だったといいます。同じ国家公務員でも日本の公務員では、とてもこんなことはできないでしょう。ところがアメリカ人の正義感は独りよがりのところがあって、アメリカ人はいつも自分が正義だと思っているのだ。簡単に言えば正義感過剰なのです。戦争についてもそれが言えます。「アラモを忘れるな」、「メイン号を忘れるな」、「真珠湾を忘れるな」などは敵国であったメキシコ、スペイン、日本などにアメリカが正義だと思わせるための策略なのだ。バターン死の行進や原爆投下正当化論などもアメリカが正義と思わせるための宣伝です。東京裁判は茶番劇だと言われたりしますが、まさにアメリカが正義だと思わせるための大仕掛けな舞台装置を用意した茶番劇です。1980年代は、日米貿易戦争だとか日米貿易摩擦だとか言われましたが、あの時代のアメリカの貿易交渉態度は、アメリカが正義、日本が悪の態度でした。アメリカ側の主張が通らなければ制裁(sanctions)を課すというのだ。まさにアメリカが正義面して日本に罰をあたえる感じで日本政府はそれにおののいて譲歩するというのが大体の筋書きだった。このようにアメリカ人は、正義感過剰で、なにをするにも、いつも自分が正義だという意識が心の中にあるみたいです。

これに反して日本人はどうかというと、正義感が非常に乏しい。その原因は何かというと、正義感を燃やすためには己の信念の強さが必要になってくるのですが、その個人の持つ信念の強さが「和をもって貴しとなす」という和の文化や空気の読みすぎなどによって信念の強さがそがれてしまうのだ。日本の社会があまりにも「和」というものを大事にしてきたため、正義感があまり育たなかったと言っていいのではないでしょうか。「和」を大事にするあまり正義感を燃やしても無視されたり、村八分にあったりする例が多いのです。例をあげましょう。お役所で、ある部の全員が不正使い込みしようと決めたとしましょう。その時一人の部員が、それは悪いことなので私は参加しませんなどというと、その主張に他の社員が同調するより、せっかく皆で決めたものを一人いい子になってとか思われて無視されたり、場合によっては村八分扱いを受けるのではないでしょうか。

大企業の粉飾決算の場合、社長一人で誰にもわからないように粉飾決算などできるはずがないのです。必ず社長を含む重役連中が知っていることなのです。それでも粉飾決算が出るということは、粉飾決算は犯罪行為だと反対する人がいなかったのか、あるいは反対者がいても同調する人が少なかったのかどちらかなのです。一人でも正義感を貫いて、粉飾決算は犯罪行為だから絶対反対、もし強硬すれば、自分の目の前で犯罪行為をみのがすわけにはいきません。警察に訴えても暴露しますと強行に主張する人が現れれば、事態は少しは変わってくるとは思うのですが、そんなことはほとんどないのでしょう。談合事件をみてもわかります。談合は違法だとわかっていながら、常識も良識もあるサラリーマンが平然と行い、いっこうに談合はなくなりません。日本の社会は正義感貫くよりも、グループの和がどうしても優先してしまい、その結果、日本人得意の「見て見ぬふり」をしてしまうのです。

「和」の文化というのは、日本のような島国で単一民族の国の中でお互い平和に仲良くやっていきましょうという場合には、実にすばらしい文化です。しかしこの文化は、何十億という異民族、異教徒が入り乱れる世界では、役に立たず決して世界の主流になれる文化ではありません。しかし日本人は、この和の文化のため地球が滅亡する最後まで生き残れる人種のような気がしてなりません。なぜか?皆さんは、「和」の文化の最大の特徴は、何だと思いますか。私は、「妥協」と「迎合」だと思います。これが大勢順応主義を生むのです。日本人は、世界がアメリカに支配されようと、中国に支配されようと、あるいはロシアに支配されようとこの「妥協」と「迎合」で共存できるのです。例を示しましょう。大東亜戦争大敗直後、日本はアメリカ占領軍の支配を受けた。それ以来日本は、アメリカ占領軍の占領政策を徹底した「妥協」と「迎合」で受け入れたのは有名だ。例はいくらでも挙げられます。日本列島の歴史は、平和の時代の方がはるかに長い、それは同時に妥協と迎合の産物なのだ。だから日本人にとって妥協と迎合が一番受け入れやすく、信念をもって正義感を貫くのは、ものすごく大変であまり得意ではないのだ。

一方アメリカ人が正義感過剰になるのもアメリカ国家の歴史のせいでしょう。白人が他の大陸や島からやってきてインディアンの土地を奪って発展してきました。インディアンとの争いもアメリカ人にとって正義なのだ。メキシコの領土半分近く略奪した戦争もアメリカの正義、アメリカ人は自分かってな正義を振りかざして世界の超大国になったのだ。アメリカ人が正義感過剰になるのは無理ない。正義感過剰とは、あまりにも自己中心的な正義感である。アメリカ人が傲慢だといわれるのはそのせいです。正義感過剰が傲慢を生むのだ。

ところで日本人得意の妥協と迎合が過剰になるとどういう弊害を生むと思いますか。それは卑屈です。現在の日本民族は卑屈そのもので実にいやらしい。大東亜戦争敗戦直後、「ローマ字採用論が大々的に主張され、敗戦わずか3ヵ月後の11月12の読売新聞では馬鹿馬鹿しくもこう書いてさえいるのだ。
「漢字を廃止するとき、われわれの脳中に存在する封建意識の掃蕩(そうとう)が促進され、あのてきぱきしたアメリカ式能率にはじめて追随しうるのである。文化国家の建設も民主政治の確立も漢字の廃止と簡単な音標文字(ローマ字)の採用に基づく国民知的水準の昂揚によって促進されねばならない」。
日自衛戦争を主張して負け、勝利国や外国からお前がしでかした戦争は、侵略戦争だと言われれば、自虐史観が横行し、祖国のために戦ってくれた兵士を足げにし、戦前戦中の日本政府や軍人は不名誉なことしていないのにも関わらず「なかったこと」を「あったこと」にして祖国日本を徹底して貶める。まさに妥協と迎合の過剰が生む卑屈さだ。幕末明治の日本人も現代日本人も「和」の文化に育った人間です。幕末明治の日本人には、白人との間に科学技術と軍事力ではとてつもない圧倒的な差を感じていたはずだ。しかし彼らには現在日本人のような卑屈さは微塵もない。何故か。幕末明治時代に日本人にあって現在日本人にないものが同じ日本人との間に大差をつけているのです。

それは何か。誇り、プライドです。圧倒的な「日本人としての誇り」の強さが幕末明治の人たちにはあったのだ。「武士は、食わねど高ようじ」という言葉は、武士の「誇り高さ」を称賛する言葉だし、又たとえ極貧でも誇りを失うなといういましめの言葉でもあった。しかし現在では「誇り」などという言葉は一切無視されてしまっている状態です。だから現在の日本人には「誇り」などほとんどない、反日日本人にいたってはつめの垢ほどもない。「日本人としての誇り」があるから強い愛国心が伴うのだ。よく日本民族が劣化したと言われますが、私は劣化したとは思っていません。幕末明治の日本人も現在の日本人も同じです。ただ「日本人としての誇り」があるかないかの差だけなのです。「和」の文化の基調ともいうべき妥協と迎合は、えてして卑屈になりがちです。その卑屈さを防ぐのが「誇り高さ」なのです。「誇り」を失くしてしまった現在日本人が卑屈になるのは頷ける話です。「日本人としての誇り」を取り戻せば、日本は復活します。しかし一度失った「日本人としての誇り」を取り戻すのは至難の業です。結局。教育でしか日本人の誇りを取り戻せないでしょう。そうすると日教組がどうしても邪魔になってくる。前々回のブログ記事で紹介した84歳の伊藤玲子先生は、「日教組つぶさないかぎり私は死にません」と公言したが、私も全く同じ、「日教組をつぶさないかぎり、私も絶対に死にません。」しかし日教組が潰れないうちに日本が独立国でなくなる可能性も高いのだ。

私は、特に若い人たちに強調したい。人は誇りをなくすと堕落するといいます。自分自身に誇りを持つこと、日本人としての誇りを持つことがどんなに大事なことか強調しすぎることはありません。

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