日本人の忍耐強さは、政治家をさらに無能にする。

今回の大震災で示した日本人の沈着冷静さと忍耐強さは、世界中の人々に称賛された。多くの日本人がその称賛にうれしい思いをしたことでしょう。私も喜んだ、しかしその喜びも一瞬で、どこか冷めた目で人々の称賛の声を聞いていました。何故なら、沈着冷静、忍耐強さもけっこう、しかし怒るべき時に怒らない、あるいは怒れないのが戦後、特に最近の日本人の共通のような気がしてならないからです。16年前の阪神淡路大震災の時も同じでした。この時も日本人の沈着冷静さと忍耐強さが外国人からは称賛された。被災者の悲しみや絶望、失望の声を聞いたが激しい怒りの声を聞かれなかった。被災者からなぜ激しい怒りの声が出なかったったのだろう。ウイキペディアで阪神淡路大震災を調べてみました。1995年(平成7)1月17日午前5時46分地震発生。それから10分後の5時56分には、伊丹市市長が登庁、その後、神戸市近辺の市長が続々と登庁、ところが貝原兵庫県知事が登庁したのが8時20分、地震発生から2時間30分も遅れて登庁しているのだ。遅れた理由は、車が自宅に向かえにくるまで自宅待機していたからだ。
9時30分 神戸市長が兵庫県に自衛隊派遣要請。この派遣要求にしても震災後4時間近くたっているのだ。そのころ各市町は、続々と兵庫県からの自衛隊派遣要請を待たずに直接自衛隊に派遣要請しています。
一方貝原知事は、8時20分登庁後1時間40分も経過した10時に陸上自衛隊派遣要請したのだ。従って自衛隊が現場に到着した時は、地震発生後5時間近くも経っていたのだ。間違いなく死者の数を増やしたのだ。2007年(平成19)4月、石原都知事が、「神戸地震の時なんか、自衛隊の派遣を要請する首長の判断が遅かったから2千人余計に亡くなった」と発言した。これに対し貝原元知事は、「石原さんの誤解で、確かに危機管理面で反省はあるが、要請が遅れから死者が増えたのではない」と反論しています。地震発生後自衛隊が到着したのがおよそ5時間後ですよ。死者が増えたのは間違いない。

一方当時の首相は、社会党議員の村山首相。社会党は自衛隊創設当時、違憲だと猛反対。「自衛隊には嫁にやりません」などと言う標語を作って選挙戦を戦っていたのだ。地震発生時、素早い適切な対策をとらなかった。村山は自衛隊派遣の遅れの理由を、国会で「なにぶんにも初めてのことなので、早朝のことでもございますから、しかし政府の対応は最善だった」と答弁し国民から強い非難を浴びた。後に村山はこの答弁を全面撤回した。地震発生当時、アメリカのクリントン大統領は、横須賀を母校とする空母、インディペンデンスを救護拠点とする救援活動を申し出たが、村山は、神戸市の非核宣言都市を考慮して断り、毛布3万7千枚のみの輸送機を受け入れのだ。阪神淡路大震災は、貝原兵庫県知事と村山首相とのダブルの対応遅れで死者の数を間違いなく増やしたのだ。しかし被災者は、激しい怒りの行動に出なかった。例えば、村山首相が見舞いのため避難所を訪れた時、村山首相が追い返されたとか、トマトや卵をぶつけられ避難者と対話すらできなかったなどということが全くなかった。この村山は首相退任後には最高位の勲章、桐花大綬章を授けられているのだ。

今度の東北大震災に際し、菅首相は、非常事態を宣言し、被災地向けのあらゆる交通をストップさせ、自衛隊陸海空を総動員し、また米軍の援助を頼み、警察消防を総動員して、被災地に必要な食糧、水、毛布、ガソリンなど生活必需品の現地運びを優先させ、少しでも被災者の苦労をやわらげるべきだったのだ。ところが実際は、生活必需品がなかなか満足にそろわず、被災者に多大な長時間の苦労を与えてしまったのだ。人によっては憲法に非常事態の規定がないと言う人もいますが、憲法改正に反対のあの共産党志位委員長が「政府が非常事態の対応ができていないのは、憲法のせいではない」とさえ言っているのだ。地震発生後の二日の間に菅首相の自衛隊派遣人員が2万、5万、10万と変わった。菅総理はバカだ。10万人もの自衛隊が東京にでも駐屯していると思っているのか、全国から呼び寄せなければならないのだ。二日間で2万、5万、10万と人数が変わってしまっては自衛隊本部が右往左往するだけです。総司令官たる菅首相自身の気が動転しているのだ。

福島原発事故は、天災プラス人災です。初動作業が問題になっていていまだに明確に説明できないでいるのだ。原発事故は、東電の上層部、原子力安全委員会、原子力安全保安院、政権担当の政治家、いわゆる日本のエリート層によるミスハンドルで起きた大事故なのです。原発地域で退避するはめになっている人たちは、怒り狂って当然なのです。私がテレビを見ていた時、たまたま菅総理が被災者の集まっている避難先を訪問していました。帰ろうとした総理に向かって被災者の一人が「もう帰っちゃうのか」と大声をだしたら菅は、のこのこと声のかけた人の方に戻りました。その時、声の主は大きな声で菅に罵声をあびせていました。罵声をあげていた人は、たった一人か二人でした。私に言わせれば、なぜたった一人か二人なのかです。私に言わせれば大勢の被災者に取り囲まれ、身の危険を感じるとか、あるいは放射能汚染されて廃棄物になったトマトやイチゴをいっせいにぶつけられるとか、投棄を命ぜられた原乳を顔面に浴びせるとか激しい怒りをぶつければいいのにと思うのですが、被災者はそれをしないのだ。

戦争に負けた日本人は、特に最近の日本人はいくじのない、怒りをあらわすことが出来ない、全く情けない民族になれはててしまったと言っていいのではないでしょうか。戦後から現在まで60数年間、日本の一般庶民が怒りを表したことなど一度もありません。韓国人などどうすれば日本人を怒らすことができるのだろうと平然と言っているくらいです。人によっては1960年代の日米安保条約反対運動が日本国民の怒りの表れだと言う人もいるかもしれません。安保騒動は、あくまでも騒動でバカ騒ぎなのだ。確かに議事堂前付近に30万人を超えるデモが集結した。安保騒動の責任をとって岸内閣は退陣して総選挙になった。選挙結果は、自民党政権の圧勝です。安保騒動が国民の真の怒りだったら野党が圧勝しているはずです。前回の私のブログを読んでいただければお分かりですが、要するにバカバカしいほどの大騒ぎなのだ。私より一歳年上で作家の塩野七生氏は、当時を回顧して「自分では何がなんだかさっぱりわからずムードでデモに参加していた」とあの才女が語っているのだ。私は大学に行けず働いていたが、あの騒動には全く眼中になかった。現実直視ができないバカな知識人や野党の政治家、まだガキの大学生や上層部の指示通りに動く羊の労働組合員などによる合作のデモ騒ぎ、完全に日本国民から遊離した騒ぎで決して日本国民の心底から沸きあがった怒りではなかった。

話しが飛ぶが、今からおよそ100年前の1905年(明治38)に日本の一般庶民がものすごい怒りを爆発させた事件があった。1905年は日露戦争が日本の辛勝に終わった年です。この年の8月にアメリカのポーツマスで日露講和条約の交渉に入った。交渉は難航した。ロシアは交渉決裂なら戦争を再開すればいいと思っていたからだ。一方日本は文字通りの辛勝でもうこれ以上戦える余裕など全くなかった。日本政府は、ロシアとの交渉中も交渉前にも日本はやっとこさ勝ったのでもうこれ以上戦う余裕などないのだと日本国民に説明できるわけがない。そのため日本国内では交渉が決裂すればもう一度戦ってけりつければいいだけのことと強行一本槍だった。日本国民は、重税に喘ぎ、息子や夫を戦場にとられ生活苦に喘ぎながら大国、ロシアとよく戦ったと思う。それだけに国民はロシアとの講和条約でロシアから多くの分捕り品を期待していたのだ。ところが交渉の結果、日本が得たのは南樺太の割譲だけ、賠償金は一切なしだった。国民は逆上した。戦勝国が敗戦国から賠償金をとりあげるのが国際社会の常識なのだ。日清戦争の時、明治政府は、当時の明治政府の国家予算の4倍を賠償金として清国からとりあげているのです。当然、国民はロシアからの多額の賠償金をとり、それで景気は少しぐらい必ず良くなるだろうと皮算用していたのだ。ところが賠償金は一銭もとることができなかったので逆上し、政府の弱腰外交に非難の目がむけられた。全国各地で集会が開かれ、「講和条約破棄」と「戦争継続」を決議し、全国が騒然となった。

9月5日、東京日比谷公園で開かれる全国大会に参加すべくぞくぞくと集まった。その数3万、警視庁はこの大会を禁止し、日比谷公園の入り口を丸太で閉鎖し、市民の立ち入りを禁じた。これが参加者を刺激した。群集の先頭が丸太の柵を乗り越えるとあとは暴動一色になった。東京は翌6日にかけて無政府状態になり、政府は6日戒厳令をしいた。その間、内務大臣官邸が焼打ちにあい、焼き払われたのは、警察署(二)、分署(6)、交番(226)、教会(13)、民家(53)、電車(15輌)。その他、死者(13名)、負傷者(558名)、警官負傷者(471名)。まさに大暴動であった。この暴動の主役は、どちらかと言えば下層階級に属する一般庶民であったことだ。それを端的に表したのが電車15両が焼かれたことです。電車が人力車の車夫の生活をおびやかしたからです。映画「無法松の一生」に出て来る「無法松」のように威勢のいい車夫が目の色かえて電車に飛び乗り焼きつくそうとする姿がしのばれるではないか。同情に値する光景だ。現在とは時代も違うし、背景も違う、およそ現在とは比較にできないこの事件を、私はなぜ持ち出したかというと、およそ100年前の明治末の日本人の一般庶民には、労働組合などと組織されなくても、テレビもなければネットもない、新聞とラジオだけで自然的、自発的に大集合し、暴動を起こすほど荒々しさとエネルギーを持っていたことを伝えたいからです。

それに引き換え、現在の日本人はどうですか。戦後から年数が経てば経つほどおとなしくなり、怒りなど表せなくなっているのだ。最近でも国民が逆上して怒りをあげてもいい事件がいくつかあった。例えば「従軍慰安婦」事件や社会保険庁の年金記録喪失五千万件などです。拉致家族の問題など、朝鮮総連の事務所に万を超えるデモが集まってもおかしくありません。私に言わせれば、今の日本人は羊の群れと化しているのだ。現在の政治家の多くが二世、三世の代です。彼らは平和で繁栄した日本の社会でなんの苦労もなく育ったボンボン育ち、あるいはお嬢様育ちの政治家です。阪神淡路大震災、東北大震災や原発事故で見せた日本人の沈着冷静、忍耐強さがどれだけ彼ら政治家を助けているか理解できていないのだ。大天災や大事故が起こる度に、治着冷静、忍耐強さを示すだけでは、無能な政治家をさらに無能にするだけです。私はなにも暴力をもって暴動を起こし怒りを示せと主張しているのではありません。

阪神淡路大震災で自衛隊派遣が遅れに遅れて死者を多くした村山元首相、東北大震災と原発事故では初動態勢に問題があり被災者に悲惨な目を会わせている菅首相、二人が被災者の避難先を訪問した時には、被災者の激しい怒りで訪問することさえできなかったというような怒りを見せつけてくださいというのです。国民の怒りが政治家を鍛えることになるのです。沈着冷静、忍耐強さだけでは,政治家を鍛えることはできません。明治時代の政治家には優秀な政治家が多かったというのも、選挙権がなくとも当時の日本国民に気迫というものがあったのも一因ではないでしょうか。長所短所は紙一重、沈着冷静、忍耐強さだけでは、いずれ日本人は羊の群れと外国人から言われるようになるでしょう。、いや、もうとっくに言われているでしょう。

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6 comments »

terag3 より:
2011年6月5日 3:12 PM
1960年代の安保闘争の話ですか懐かしいですね。

とはいうものの当時私は25歳、大学で彼らは何を勉強しているのだ騒ぎたいがために大学で勉強したのか、あの馬鹿騒ぎは何なのだと言う具合に冷やかに眺めておりました。

ウィキペディアによれば日本史上空前規模の反政府、反米、政治闘争と言う位置づけですがその実は、えんだんじさんが仰るように全学連の青二才どもに共産主義者と彼らに扇動、主導された労働組合の連中が集まって、その集まった数の力に更に酔い痴れて興奮状態になってまるでお祭りムードのような大騒ぎになったというのが実態なのです。いわゆる群集心理です。

この騒動の中で東京大学の女子学生がひとり転倒して頭部出血、胸部圧迫で死亡しました。この事件が大きく取り上げられこれがもとで岸内閣は崩壊したのです。
しかしこの女子学生は全学連共産主義同盟の指導分子いわゆるトロッキストで、社民党の福島、辻本と同じ穴の狢同然ですから昔から共産主義が大嫌いな小生、自分たちが起こした騒動に巻き込まれた事故なのですから何の同情心も湧きませんでした。

明治時代の100年前の全国的な大暴動事件の話もありました。当時は今のようにネットもテレビも無く情報網としては新聞と人伝の伝聞、風評、風の噂ぐらいのものでしょう。
更に江戸時代、戦国時代へと遡れば年貢米を納める農民と城主の関係で農民の生活を無視した厳しい取り立てをすればそれに耐え切れず村人が一致団結して、捕まれば磔獄門をも覚悟しての一揆勃発という事態にもなった訳です。

確かに、えんだんじさんが仰るように暴動を奨励するのではありませんが、現代の人間は余りにも大人しすぎると思っています。
子供が悪いことをしても他人の子供だと叱れる大人が居ない。教員でありながら思想信条の自由だと抜かして日の丸を無視して国歌斉唱にも起立をしない無礼な人間もいる。そのような不条理な事柄が多すぎますが、それらを黙って見過ごす、見て見ぬふりをする。これが一番良くないことだと最近痛感する次第です。

ショウ より:
2011年6月5日 7:59 PM
もういい加減、「日本人優秀論」を見直す時ですね。
日本人がかつて行った素晴らしい業績をたたえるのもそれで結構なんですが、保守の側から日本人批判することはなぜかタブーになっています。
えんだんじ先生のご著書を批判する人は、チクリと痛いところを突かれたからなんだと思います。
今こそ、タブーを打ち破り、日本人の資質を考える時だと思います。

えんだんじ より:
2011年6月6日 10:07 AM
terag3さん

1960年代のあの安保騒ぎは一体なんだったのでしょう。日本の知識人が一体になってから騒ぎしていたのだ。私は知識人を評価する基準としてあの時知識人は何を主張していたかで大体決めています。西尾幹二氏や渡部昇一氏は、安保騒動反対で一切同調していません。大学では同僚達から軽蔑されていたのだ。死んだ女子学生、無駄死に以外のなにものでもありません。彼女の両親はたまらないでしょう。

えんだんじ より:
2011年6月6日 10:12 AM
ショウさん

確かに日本人はすべてにおいて優秀と言わないと気がすまない保守の人がいますね。こういう人は、左翼と同じように扱いにくいですね。

りんごあめ より:
2011年6月9日 4:32 PM
なるほど、いつも えんだんじさんの視点には驚きます。
長所と短所は表裏一体ですね。

私としては静かに刀を抜いて欲しいのですが・・
つまり、今は誰もが一票という刀を所持しているわけですから
常日頃、いや、震災でも冷静沈着でありながら
ここぞという時はビシッと成敗するという・・

でも、ここのところの状況を見ていると、
えんだんじさんのおっしゃる通りかなと、
残念ながら思います。
日本国民が骨抜きになってきている、
怒りすら感じなくなってきている。
植民地根性というものでしょうか・・・

そうこうしているうちに目も当てられないような
本当に語るにも落ちた政権が誕生し
政治家どころか、人としてもあるまじき
恥を知らない行為のオンパレード・・・

それでも国民は静かに耐えていくのでしょうか・・・

えんだんじ より:
2011年6月10日 10:13 AM
りんごあめさん

<つまり、今は誰もが一票という刀を所持しているわけですから

理想を言えば、それが一番理想的なんですが、「規律」は世界一の民族ですが、私がいつも主張しているように「政治見識」は先進国最低ですからね。政治家の質が年々低下。自民党でも期待のもてる政治家がいない。
私など怒りよりもあきらめの心境に近くなってしまいました。

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