今年は大東亜戦争敗戦70周年ということでマメディアでは色々な事柄が語られたり、書かれたりしています。私は、大作「大東亜戦争は、アメリカが悪い」(A5版、736頁)を、碧天舎から今から11年前に自費出版した。完成するのに6年ほど費やしましたので今から17年前ぐらいには書きだしていた。今から17年ぐらい前というと、現在のfacebookもなく、第一現在大流行のSNSなどほとんどなかったような気がします。だから私が定年後の大きな初仕事として大東亜戦争について本を書くことなど公表することさえできなかった。そこで今回は、なぜ定年後の大仕事として大東亜戦争について書くことになったか、お話しましょう。
私は若い時から政治とか歴史に興味があった。私の若い時の非常に大きな政治的、社会的騒動は、1960年前後の日米安保条約改定の締結だった。1960年代は私の20代、まさに若さあふれる青春時代だ。この時期私は、日本の左翼知識人に猛烈に反発していた。私の最終学歴は高卒です。高卒の私でさえ日米安保条約は、日本にとって最重要な外交政策だと賛成しているのに、日本の左翼知識人は、ソ連など共産主義国を入れた全面的な条約を作れと非現実的な提案をし、大反対したのだ。大学生も苦労もせず親父のすねかじりで大学に入っただけでえらそうな口を聞いて大反対していたのだ。国会前では20万、30万の大デモ活動が行われたのだ。高卒の私でもわかるのになぜ知識人、野党政治家、労働組合、マスコミ、大学生などがわからないのかと私は彼らを罵倒していたのだ。私が正しかっただけじゃない、多くの国民も正しい解釈をしていたのだ。安保騒動のため岸内閣は退陣し総選挙に打ってでた。大国民運動として連日大デモをくりかえしたのに、自民党内閣は、選挙に大敗するどころか、大勝してしまったのだ。当時の政治学者、蝋山正道は、日本国民は日米安保などの外交問題を良く理解できないからだと主張していた、外交問題がわからないのは左翼の知識人なのだ。以来私は、日本の左翼知識人を徹底して軽蔑していった。
これが私の大東亜戦争史観につながっていった。大東亜戦争は、日米間の大、大、大戦争だ。そのような大戦争をしてきたのに、日本だけが悪い侵略国なのか。戦後敗戦国として大東亜戦争における日本側の歴史検証があって当然です。ところが検証など何ひとつせず、日本がなにもかも悪く、アメリカは何時も正義なのだ。こんな大戦争がありえますか。少なくとも日本にも言い分があるだろうと考えるのが常識でしょう。太平洋戦争という呼び名も非常に気にくわなかった。当時、本屋の歴史本コーナーでは、ほとんどが太平洋戦争という名前のつく本ばかりだった。
なぜ我々日本人は、大東亜戦争と呼ばずに、太平洋戦争と平然と呼ぶのか。東大名誉教授の平川祐弘氏に「米国大統領への手紙」という好著がある。彼は戦争の呼び名についてこう書いている。「しかし敗れた戦である。私たちはグアム島をもはや大宮島とは呼ばない。シンガポールを昭南とは呼ばない。日本以外の土地でthe Greater East Asian Warと言う語が通用しない以上、そう言い張ってみたところで所詮、井の中の蛙ではあるまいか。この前の戦争について太平洋戦争というより大東亜戦争という呼び名の方がよく似合う点もありはしたが、私はその部分を拡大して全体を覆うようなことしたくない。」などと延々と続くので後は略します。外国の地名など戦争に負けりゃ元にもどるのは当たり前の話です。
アヘン戦争(The Opium War)は、世界語でしょう。しかしイギリスでは、第一次英清戦争です。「セポイの反乱」はインドでは第一次インド独立戦争。日清戦争は、シナは日本に負けても日清戦争などと呼んでいません。シナの甲午(こうご)の年に起きた戦争だから甲午中日戦争、「ベトナム戦争」恐らく世界中の人がこう呼んでいるでしょう。しかしベトナムでは「アメリカ戦争」と呼んでいます。私が主張したいのは、日本人としてのこだわりはないのかと日本国民に問いたい。なぜ多くの国民が太平洋戦争と呼んで平然としていられるのかというのだ。日本国民は、私にいわせれば優秀な民族であることに間違いないが、国民性は自己主張型より迎合型です。しかも欧米の主張には嬉々として迎合し、従う傾向がある。私は外資系五社を渡り歩いて定年を迎えた。多くの日本人労働者が白人に媚びる姿を見てきた、しかし私は日本人としてのこだわりが人一倍強い人間です。ヴェトナム人は世界中でヴェトナム戦争と言ってもアメリカ戦争といっている。私は、世界中が太平洋戦争といっても、私は死ぬまで大東亜戦争と呼びます。
定年になったら何をしようかなどと考えていた頃、私が59歳(1997年)の時、歴史教科書裁判で名前を売った当時の東京教育大学教授、家永三郎に対する最高裁の判決が新聞に大きく取り上げられた。その時なんとなく家永三郎がずっと以前に書いた「太平洋戦争」を読んでみようと思ったのだ。ずっと以前に彼が書いていたことは知っていましたが、彼と私とは歴史観の違いがわかっていたので読む気がしなかったのだ。ところがなぜかその時読んでみようと思ったのだ。読んで本当に驚いた。それと同時に彼にたして激しい怒りや軽蔑を感じたのです。これがれっきとした日本史の学者が書く大東亜戦争か。戦争というものは一国でできるものではりません。必ず相手国が必要です。また戦争はある日突然起こるものではありません。起こるまでに必ず国際情勢がからんできます。家永は最初から最後まで徹頭徹尾、徹底的に日本を非難し続けるのです。この時私は、定年後最初にする仕事を決めたのです。「よーし。俺が大東亜戦争の本を書いてやる」。自虐史観論に激しい怒りが燃え上がったのです。
大東亜戦争の本を書いてやると決心したのはいいが、はたして自分に本が書けるのかという疑問があった。私は定年前に本など書いたこともなければ投稿したこともない。それどころか文章を書くのは苦手思いこんでいたのだ。それが自分の怒りだけで歴史評論などの文章が書けるのかどうか非常に不安になっていた。以前新聞か雑誌で「本を書く」というようなタイトルの記事があった。誰が書いていたか覚えていません。彼はうまい文章を書こうとは、絶対の思わないこと。原稿用紙に自分の正直な気持ちをこめ、素直に一心不乱に書け、そうすれば例え貧しい文章でも読者は作者の覇気にのまれて読み続けてしまうとそのようなことが書かれていた。よし私も徹底して自分の気持ちをこめ、素直に書くぞと決めた。それでも自分に本など書ける才能があるかどうか不安だったので試してみた。私は「ある凡人の自叙伝」を書いてみたのだ。自叙伝なら自分の思い出を時代順に書けばよいのだから、書けるのではないか、もし書けないようならいくら怒りに燃えても書ききれるものではない、あきらめるほかわないと考えたのだ。私の誕生日は、8月1日です。8月1日で61歳を迎え、その月末8月31日が定年退職日だった。「ある凡人の自叙伝」は、その年の11月に出版した。これで私は「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の文章は書けるだろうと判断した。私が定年後の初仕事として歴史本を書くと決心した1997年から4年後の2001年に私の執筆活動を強烈に刺激する事件が起きた。
2001年1月19日の日本経済新聞に、「ノーベル平和賞、家永氏が候補に、欧州議員が推薦」という小さな見出しの記事がでた。全文を掲載します。
「英国選出のグレアム・ワトソン欧州議会議員(英自由民主党所属、同議会司法委員会委員長)は18日、日本の家永三郎元東京教育大学教授を2001年のノーベル平和賞候補に推薦したと発表した。同議員は、家永氏は第二次大戦中にアジアに起きた事実をはっきりさせるため生涯をささげてきたと推薦の理由を述べた。同賞への推薦は、スウェーデンのノーベル委員会が依頼した世界各国の研究者や議員らが行う。締切は2月1日で推薦された人物を中心に10月の発表に向けて選考が行われる」
家永のどこが世界平和に貢献したというのだ。彼は欧米人に気に入られる歴史書を書いたにすぎない。ノーベル賞に歴史学賞があれば、家永は間違いなくノーベル歴史学賞を受賞したでしょう。大江健三郎も長年海外で戦前、戦中の日本を徹底して非難してきた。それが報われてノーベル文学賞をもらった。このように欧米は、自国に媚びてくる学者を利用して、いまだに大東亜戦争において自分たちが正義だと主張し続けているのです。それに引きかえ日本はどうですか。戦後50年以上も祖国日本を足蹴にして外国に媚び続けているのが現状です。その現状に私の怒りは爆発したのです。私は執筆活動に苦戦していた。多くの人たちに向かって私は大東亜戦争について本を書くと約束したわけでない、書き上げることが私の力では無理とわかったら、さっさと止めるつもりでいた。しかしこの日経の記事をみたら、なにがなんでも絶対に書き上げてやるとさらに決心を強くしたのだ。
私は最初この本を書き始めた時、本のタイトルを「アメリカ人に教える大東亜戦争」とした。喧嘩両成敗で日米の言い分は五分五分とみていたのだ。しかし大東亜戦争関連の本を読み漁ると、大東亜戦争は、六四、ないし七三でアメリカが悪いとわかったのだ。それでタイトルを「大東亜戦争は、アメリカが悪い」とした。途中筆が進まない時もあった。特に満州事変前後からシナの混乱した状況をどう筆をすすめるべきか悩んだ時もあった。或時夜中に寝汗をかいた。一回寝間着を着かえただけじゃすまないのだ。二回、三回と着かえるようになってしまった。病院で徹底して検査したが、異常がない。先生が何かストレスに感じることはないかと聞くから、実は長編の歴史評論を書いている。どう書いてよいか筆が進まない時があると言ったらそれがストレスになっているのでしょうと言った。私も同感だった。ストレスが原因とわかったら、すっかり寝汗をかかなくなってしまった。分厚い本を書くのも結構体力を使うものだということがわかった。このようにあくせくしながらやっと出版したのが、2004年7月10日。本の宣伝用に巻く帯の表には次のような文章を載せた。
「この本は、いまだに大東亜戦争日本悪玉論を主張してやまない外国人や日本人に対する、凡人定年サラリーマンの挑戦です。」
自虐史観論を書く日本の知識人は、自分の頭で本を書いていません、まず占領軍(GHQ)の戦争観、左翼国家の戦争観、勝利国の戦争観を書いた方が時流にのれるから有利、などの思想に駆られて書いているから自分の考えで書く部分がなかったり、あるいは極端にすくないのだ。一方私は、「一寸の虫にも五分の魂」とばかりに沢山の本を読み漁り、そのまま自分の頭で考えたこと書いてきたのだ。どちらの本に信用力があるか、読者はおわかりでしょう。
出版後数日して私と出版社との折半費用で産経新聞に一日だけ八つ切りサイズの小さな広告を出した。私は自ら自作の本を持参し、東京、神奈川の大手書店の店長をアポイントなしで訪問し、営業販売した。私のセールスポイントは、「この本はサイズが大きいし、分厚いから5冊も平積みしてもらえれば非常によく目立つ、少なくとも55歳以上の男の人なら必ず目にとまり、買う、買わないは別にして本を必ず取り上げ、パラパラと頁をめくります。この厚さで1500円なら必ず買う人が多くいますから、ぜひこの本をこの書店に置いてくださいの一点ばりで通し、長い立ち話に時間をつぶさずに引き下がった。この結果けっこう売れるではないかとわかりうれしくなった。
出版が7月10日なのにその年が終わる12月末の5か月間にこの本に関する投書が全部九通もあったのだ。それも私には縁もゆかりもない全く未知の九人の方からの投書だった。私は狂喜乱舞した。だってそうでしょう、私は無学無名、これといった人に自慢できるような経歴など何もなし、ただ一介のしがない定年サラリーマンの一人です。その私の書いた本をわざわざ本屋で買い上げ、読書後は、わざわざ手紙やはがき、それもすべてお褒めの言葉を書いた投書を送ってきたのです。私は狂喜し、これらの投書を私の大事な宝物として所有しています。次回のブログでは、この九通の投書の内容を紹介するつもりです。
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3 comments »
terag3 より:
2015年6月6日 11:59 AM
えんだんじさん待っていました本日のブログ。
昭和23年~25年と言えば、私は満州から引き揚げてきて九州の田舎で暮らしていた中学生時代でしたが当時、近所の百姓の、オヤジたちの話を何気なく聞いていた時、天皇陛下のことを「天ちゃん」と呼んでいるのを聞いて、何と言う不敬な言葉を吐いているのかと子供ながら無性に腹立たしくなったことが有りました。
そして1960年の全学連による安保騒動で、当時私は母子家庭だったから中卒で就職していた25歳の青年期、俺より3~4年の若輩者たちが大学生という、私よりもっと恵まれた環境に有りながら、何と言うバカ騒ぎに現を抜かしているのかと、これまた無性に腹が立ったものでした。
若い時からそのような思想を持っていましたから、このたびの、えんだんじさんの「大東亜戦争はアメリカが悪い」には全面的に賛同するものです。
また家永三郎、大江健三郎などの左巻き学者どもに是非、読ませたいのは、硫黄島で戦死された市丸利之介海軍中将が最後の突撃の時に、通信将校と参謀に和文と英文で書いた「ルーズベルトニ与フル書」を持たせて最後の突撃を敢行、それを米海兵隊員の手で二人の遺体から発見し、米国内の様々なメディアで紹介され、書に書かれていた理想は、米国の理想になり世界人類の常識になったと、数日前の「ねずさんのひとりごと」に書かれていました。
この「書」は、当時の日本人の共通の思いであり、そして散華された私たち父祖の思いの全てが、市丸中将の手紙の中に凝縮されているのです。これを読めば自虐史観など吹っ飛んでしまうでしょう。
もし、この「書」を、ご存じない方は、ねずさんのひとりごとブログで探してみて下さい。えんだんじのブログに他人のブログの宣伝をしているようですが、えんだんじさんも、ねずさんも同じく憂国の同志であること間違いないので、お許し下さるでしょう?
次回のブログを楽しみにしています。
endanji より:
2015年6月7日 8:40 AM
Terag3さん
市丸利之助海軍少将のアメリカ大統領(ルーズベルト)への手紙の出典は、私がこのブログに
書いた平川祐弘東大名誉教授の「米国統領への手紙」(新潮社、1996年)です。私の本、
「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の中でも市丸利之助海軍少将のアメリカ大統領えの手紙
の件は詳しく書いております。
terag3 より:
2015年6月9日 5:37 PM
えんだんじさん
そうでしたね、私もうっかりしていました。私も、あっちこっちの書物を拾い読みしていますので、出典までは気付きませんでした。誠に申し訳ないことを致しました。ご無礼の段、お許し下さい。
それにしても、「ルーズベルトニ与フル書」は、誰が読んでも感動する手紙ですね!これを読んで心に響かない人間は日本人にあらずですよ。アメリカ人でさえ感動して絶賛しているのですから実に凄い手紙であったということです!