大東亜戦争終結時、私は小学校一年。私の世代の人たちは、大東亜戦争敗戦後の社会で育った。だから同じ貧乏でも共通点が非常に多かった。戦場で父を亡くし、空襲などで母を亡くし、戦後孤児になって浮浪児と呼ばれ、国支援の民間の施設、あるいは国の施設で育てられた。厚生省昭和23年2月の発表によると、親戚の人にも引き取られずに施設に預けられた浮浪児たちは、1歳から18歳まで全国で123,511人です。この人達の中で現在80歳以上になり元気で会話をかわせる人がおれば、筆者に連絡して頂けませんか。私は自費でその人の所へ伺い、その人の伝記を無料で書きたいと思っています。興味があれば「えんだんじのブログ」にご連絡ください。
浮浪児に次いで苦労していると思われる人達は、私の中学卒業時、即ち昭和29年4月青森発上野行き夜行列車、これが最初の就職列車で大都会に働きに出る地方の中卒の方々です。この大都会向け就職列車は昭和50年の4月まで21年間続いたのです。私が中卒の時から21年間就職列車が続いたということは、現在60歳以上から80歳までの多くの男女の最終学歴が中卒のままでいることを意味しています。すなわちこの年代が最終学歴中卒の人たちが多いいのです。私はその方々より少し条件が良かった。私はもし公立高校に入学できれば、その高校に入学し、入学できなければ就職と決めて受験したら合格したからです。合格しても、学費以外は全部払うつもりがない。修学旅行はどこにも参加せず、運動部などクラブ活動はどこへも入らず、アルバイトで資金かせぎ。以来定年まで孤独な生活が続いた。私の自伝的小説「えんだんじ・戦後昭和の一匹狼」(文芸社、1600円)を読んでいただければ、私の孤軍奮闘ぶりを読むことができます。私は自分の貧乏ぶりを歎いていたが、日本社会への不満は少しも感じなかった。多くの人達が自分以上の貧乏人も多かったからだ。私が鎌倉市の県立高校を卒業した時、鎌倉市は当時から裕福な家庭が多かったから、県立高校卒業時、男はほとんど全員大学進学です。卒業時学校の先生から、「鈴木、就職どうする?」と聞かれたから、「職安(職業安定所)で見つけますよ。」と少し反抗的に答えていた。男子生徒たった一人のための就職の世話など面倒だったのでしょう。工業高校卒とか商業高校卒なら、大体働き先が決められるが普通高校卒では働き先は自分できめるほかはない。私が高校卒業後、高校の同窓会に参加したのが、高卒46年後の64歳の時です。元気で快調に過ごしているところ見せてやれと思ったからです。高卒後5,6年ぐらいのうちに長く勤められる勤め先を決めた。外資系5社渡り歩いた貿易関係の仕事です。貿易関係の仕事が好きだったわけではありません。長く勤めていられそうだと思ったからです。私には自分の仕事にたいする誇り、愛着、愛社精神など何もありません。一番気になったのが給料の高さだけです。自分の仕事に対する、役付き、名誉、体裁など一切関係なし。関係あるのは給料の高さだけ。こうして外資系5社渡りあるいて定年。今になって考えれば、こうした徹底した考え方が良かったのでしょう。また私は自分の主義、主張をはっきり、堂々と主張してきた。どういうわけか日本人は自分の主張をはっきりさせず、ぼかし気に主張するのが多い。そのお蔭かどうか知らぬが定年後働くことなしに、どういう私の人生の風の吹き回しか、執筆活動に専念することができたのだ。贅沢はできないが、働くこともなく執筆活動ができるなんてうれしくてしょうがなかった。そのためこの20年間は幸せだった。私が中学卒業時、地方の片田舎から就職列車で大都会に働きに出ていたら、定年後働くこともなく執筆活動に専念できなかったでしょう。自宅から東京、横浜の大都会に通勤で通えることがどんなに有利だったのかを身を以て体験したのだ。
現在の貧困原因は何か。主に家庭崩壊でしょう。最初から結婚もせずに子供を産む人、結婚して子供二、三人持って離婚した母子家庭、あるいは父子家庭、これで収入不足で貧困に陥る。さらに親が病気になると片親だけに悲惨な家庭状況におちいる。一例をあげると、離婚した父が二人の子供(小学生)を引き取ったのはいいが病気になり、6畳一間に住み、食卓に使う御膳がそのまま勉強机になり、子供が栄養失調になりそうだ。こういう貧乏所帯でも、私の子供時代と比べて決定的に違う点が四つあります。
1.政府から生活保護費が出る。この生活保護費は、全国一律同じでなく、地方自治体によって多少違う、また同じ地方自治体でも住む場所によっても違うところもあるが、生活保護費は必ず出る。
2.最近、主に貧困者の子供たちに食事を提供する「子供食堂」がある。2016年で少なくとも全国で139ヵ所、およそ2年後には全国で2286ヵ所、利用者がのべ100万人を超えた。
3.学童保育
昼間保護者が家庭にいない小学児童。学童保育所の統一的な名前はない。全国各地で適当に呼ばれています。2013年5月1日現在、全国の設置施設数21、482ヵ所、登録児童数889,205名(全国の小学生総数6、676,920名)。
4.冷蔵庫、洗濯機等いわゆる家庭電化製品の大発展で私の子供の時の家事手伝いとは天国と地獄の差。
私は小学校1年から中学校卒業するまで9年間横須賀の山奥に住んでいた。飲み水は水道でなく、井戸水。6,70メートルぐらい歩いて、つるべ落としで飲み水をくみ、運ぶのが私の仕事だった。電気製品はラジオだけ、アイロンは、アイロンの中に火鉢の中の炭(スミ)を入れていた。自宅のトイレの汲み取りも私の仕事だった。要するに家事の仕事が極端に楽になったのだ。
極端な言い方をすれば、上記(1)から(4)のおかげで戦後の貧困より現在の貧困のほうが、はるかに楽で暮らしやすくなったのだ。この事実を誰も否定することはできません。ところが私の子供時代にも、現役で働いている時でも、全然なかった驚くべき不思議な現象が起こり出したのだ。過労死です。労働者に長時間労働を休みなしの勤務をさせ、病気になったり、或は自殺に追い込まれて死んでしまうことです。この過労死は先進国の中では日本だけが特出して多く、日本社会の特異な現象になっています。2017年だけで労災が過労死(自殺を含む)と認定した死者190人です。やっと横ばいになったと言われているくらいです。産経新聞(平成30・9・6)「平成30年史」、過労死の年代順を拾ってみると、
1.昭和63年4月
全国で大阪府に初めて「過労死110番」という名称で電話相談の受付を始めた。
2.平成3年11月―「全国過労死を考える家族の会」が結成。
3.平成14年―「過労死(karoshi)」が英語の辞書に記載。
4.平成25年5月―国連が過労死・過労自殺の防止を日本政府に勧告。
5.平成26年6月―「過労死防止対策推進法」が成立。
6.平成28円10月―初の「過労死白書」を公表。
これによると、全国の過労死は、全体で年間200人前後で極端な上がり下がりはないが、過労死が出始めのころは、過労死は病気による死が上回っていたが、平成26年頃から過労死は病気で死ぬより過労自殺で死ぬ方が多くなった。
私は過労死に怯える労働者の気持ちが全く理解できません。労働者は仕事がきつ過ぎて、病気になったり、自殺するくらいなら、その仕事を辞めればいいではないですか。就職難どころか今は人手不足の時代でしょ。昔に比べて生活水準があがったくらいで、こうも人間の闘争心が衰えるものなのでしょうか。自己主張能力が下がるものなのでしょうか。現在日本民族の民度の劣化がよくいわれますが、この過労死の続出、相変わらず続く幼児の虐待、子供の自殺の多さ、平気で日本を貶める日本人の多さなどとは、全く同じで民度の劣化の典型的な例と私はみなしています。こういう情けない日本人が何故多く出てくるのでしょうか?その原因は日本の教育制度の欠陥です。戦後、GHQは戦前の日本の教育制度をほとんどすべて悪とし、下記の四つの項目に関する指令を日本政府に提出。
1.日本教育制度に対する管理政策に関する指令。
2.教育及び教育関係者の調査、除外、認可に関する指令
3.国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに広布の廃止。
4.修身、日本歴史及び地理の停止。
さらにGHQは本国アメリカから教育使節団を日本に派遣、報告書を作成。
日本政府は上記四つの指令書とアメリカ教育使節団の報告書に基づいて日本の戦後の教育方針をきめた。すなわちGHQは、日本の教育方針を決めたのです。日本は歴史の古い国だ。教育方針にも古い歴史がある。なにも独立して間もない歴史が極端に浅いアメリカに学ぶ必要ないと突っ張れば良いものを、敗戦のためGHQに積極的に迎合していったのだ。
日本が独立を回復した時、日本の教育界では、日本の戦前の教育の長所、短所、戦後アメリカ教育の長所、短所などが話あわれたことなど何もありません。日本が独立を回復したとき、現行憲法を無効にして新憲法を作るべきだったし、同時に日本の教育制度を徹底的に改めるべきところ、ほとんど何もしなかったのだ。「新しい歴史教科書をつくる会」を設立したが、日本の教育制度を改める、例えば日教組を潰さない限り、「つくる会」の教科書が全国的に採用されることもなく、日本の復活もあり得ません。新憲法作成、日本の教育制度の大改革、どれも強力な政治力が必要です。現在の日本の政治家は戦後七十年以上経つが政治家はファミリービジネス、家系政治産業界出身者ばかりが多くなってしまった。一人一人数えたわけではないが、いつの間に150人ぐらいになっているらしい。現在の政治家には、魅力的な政治家はほとんど皆無になってしまった。保守層の間では安倍総理は人気だが、私も安陪さんを強力な支持者だった。安倍氏が無冠の帝王のような状態のとき、彼は公言するほど「つくる会」の強力な支持者だったからだ。その頃私はミクシーの友達と一緒に安倍氏と面会し、私は安倍氏と「つくる会」の話もした。一緒にいた親友の元プロカメラマンが私と安倍氏の二人だけの写真をA4の大きさで撮ってくれた。私は今でも記念に持っています。ところが安倍氏は首相になると「つくる会」を平然と裏切り八木秀次(育鵬社)を支持した。今では安倍氏に対して「自分が惚れた女性に裏切られた感情」と同じような感情を持っています。安倍総理は、やはり二世議員、「機を見る敏はある」が「信念に欠ける」のだ。日本には現在、有望な政治家はいません。自民党総裁候補も安倍氏と石破氏です。石破と言えば私には思い出すことがあります。私は平成18に「原爆正当化のアメリアカと従軍慰安婦謝罪の日本」(展転社)を出版した。日本テレビのあるディレクターがこの本に注目しテレビ出演の依頼を受けた。テレビ番組のタイトルは確か「太田総理に秘書田中」だったと思います。本の宣伝になると思って出演することにした。その出演者のなかに石破がいた。石破は元防衛庁長官で出演していた。テレビ番組の収録のとき、私は初めて石破の歴史観を聴いた。これが元防衛長官の歴史観かと唖然とし怒りがわいた。私は石破を罵倒した。テレビ番組の収録だから皆言いたい意見を言う。翌日私はミクシーの日記にこの番組のケチと石破のケチを書いた。早速日本テレビのディレクターから、「鈴木さん、この番組の公開後の意見だったら、何を書いてもかまわないが、公開前だから鈴木さん日記を削除してくれとの依頼を受けそれに従いました。その石破が安倍氏の競争相手というのだから、日本にはもう政治的活力は生まれてこないのでしょう。私はもう日本の行く末には希望は持っていません。安倍氏に関しては、皆さんには、もう一度拙著「保守知識人を断罪す。(つくる会)苦闘の歴史」総和社、1500円)を読んで見てほしいです。