80歳代の両親に寄宿して暮らす子供たちが世間的な問題を越したり、或いは親が自分たちの死後を心配して問題を起こしそうな自分の子供を先に殺したりする。親が80代で子供が50代の人は多いいので略して「80-50問題」と呼ばれている。80代と言えば、私がちょうど80歳だ。この8月になれば81歳、子供3人いるから上の娘二人は、二人とも50歳を超えた。一番下の長男は、50歳直前です。私は結婚式をあげた時、妻は妊娠3,4カ月だった。仲人をしてくれた上司は、ささやかな費用でいいから結婚式を挙げた方がいいと言ってくれたので自分で貯めた少ないお金を使って新宿の公民館であげた。二人の娘が生まれ、三番目に長男が生まれた。私は最初から三人産むつもりだった。当時は結婚した夫婦は、皆一人か二人だった。猫も杓子も子供は一人か二人だった。私はそれがいやだった。三番目の長男が小学校2,3年の時私たち夫婦は離婚した。離婚した時、女房は二人の娘を引き取り、私が買ったマンションに住み、私は息子を引き取り、私と息子は両親と一緒に住んだ。その理由は女房が息子の勉強のできが悪いので、こんなバカな子はいないと息子の前で堂々と言い、上の娘二人とあからさまな差別をしていたからだ。さすがに息子と私が、マンションを出るころには息子に対して急にねこなで声になり急にやさしくなった。息子は、母親のあからさまの変化には少しは動揺していたのだろう。私と息子が私の両親がいる藤沢にもどると、両親は私に直ぐ言った。息子は私が家にいる時は、私の言うことを素直に聞くが、私が会社に行っているときは、両親の言うことをなかなか素直に聞いいてくれない。おやじは、「あれはひょっとすると問題児になるぞ」と言って私を脅した。藤沢への小学校の転向手続きをとり、藤沢の小学校に通い始めたころ、突然息子が我が家から消えた。別れた女房に電話すると息子がいた。息子は、これからはママと一緒に暮らそうと言うから、僕もそうするというのだ。
私は、女房が一時的気まぐれでそういう方法を選んだのを知っていたが、息子には説明するのが難しかった。そこで「お前がママと一緒に住みたいなら、一緒に住みなさい。ただし自分が何処にすみたいのか、決めたら、次々と自分の住むところを変えるようなことはするな。小学校を転向するには必ず手続き必要だからな。」と電話を切った。
私はいずれ、ママから息子にもうお前はパパと一緒に住めと言われるだとうと思っていた。あれから二、三週間たったのか、一、二カ月経ったのか忘れてしまったが、夜中に息子から電話がかかってきた。息子は泣きながら、ママがもうパパのところへ戻れと言われたと言うのだ。その時、私の母は病気で入院するところだった。
私は一瞬、ちゅうちょなく次のことを言った。そのことが結果的に良かったのかどうかわからない。
「いいか、なお(直、息子の名前)、この前これからはママと一緒に住むと言っただろう。お前がそういうからパパはそう決めたのだ。今度はパパと一緒に住みたいという。そんな弱い精神状態でどうするのだ。男が自分で決めたことを、ママの都合であきらめるとは何事だ。
男が一旦口に出したことを、そう簡単に諦めてどうするのだ。」息子の返事を待たずに私は電話をきった。
後になって考えたのは、あの時息子の返事を待たずに電話をきったのはまずかったのではないか?母が入院でも息子を暖かく迎え入れるべきではなかったのではないか?一緒に暮らすべきではなかったのではないか?色々迷い悩んだが、これで息子がぐれたら、親の俺の責任とも思っていた。別れた女房は、息子とは、いつも喧嘩状態で仲が悪かったが、娘二人とは、仲が良かったわけではなく、息子とのけんかのように深刻にはならなかった。そのうちに女房は、息子より一歳年下の男の子の連れ子がある男性と再婚し、私が与えたマンションに同居し始めた。再婚者のいる前で、女房が息子のとこと激しく責めることが少し減ったのではないかと思った。彼女は自分が産んでもいない、他人の子を自分の子のようにやさしく育てることができないからすぐ別れるよと三人の子供の前ではっきり言ってやった。しかし二人目の父親になった彼氏を実の親のように仲良く接しろとは言えなかった。ただし連れ子とは実の兄弟のように接しろと言うのが精いっぱいだった。しかし、いつの間にか彼氏とその連れ子は、マンションを去っていった。こういうことは、いずれ起きるだろうと誰もが想像できたので、誰にも驚きはなかった。
今度息子が問題になったのは、高校入学の時だった。中学生になった時、女房は息子の勉強には一切関与しなかった。中学校三年になった時、私は初めて息子の中学校に行き、息子の受け持ちの先生と息子と一緒に面会した。中学卒業したらどうすると息子にきいたら、「俺は自衛隊に入りたい、二、三年、或いは三,四年、自衛隊に所属し、その後フランスの外人部隊の入ると言ったので、その通り中学校の先生に言ってやった。姉二人のよると弟は、自衛隊関係に夢中になっていて、体を鍛えるのに夢中になっていた。真冬でもジャンパー一枚着て、その下は半そでシャツ一枚だそうだ。さらに自ら中3から自主的にランニングしていた。中学校の先生は、学校の名誉のため、学校名は書かないが、一番最低の県立高校の名前を教えてくれた。ここを合格しなければ、私立の高校しかなかった。息子はこの最低の高校に入学した。その高校は全入学者が高校卒業時は三分の二ぐらいに減ってしまう最低の高校だった。そんな高校は入学式の時は、どんな入学式をやるのか、逆の意味で私は興味がわき、その入学式に参加した。入学式に参加する男女学生を見ると、まるで愚連隊がそろって学校に来ているみたいだ。もうとっくに入学式が始まっているのに、悪びれた様子もなく、急いでいる様子もなく、平気の平左で席に着く。それを見ていた私は、一瞬のうちに怒りが爆発し、大声をあげて怒鳴った。「お前ら、もう入学式は始まっているのだぞ、もたもたせず、さっさと自分の席順を探しだし席に就け、もさもさしていると俺が殴りつけるぞ。」
この時学校の校長や先生が私の怒鳴り声を注意するなら私は怒鳴り返すつもりでいた。「これが正常な入学式と言えるのか。幸い私を制しようする先生はいなかった。後で私が考えたことだが、この時私が興奮して怒りの声を上げてよかったと思っています。私は男として真面目に生き、力強く生きている姿を息子に見せつけることが出来たと思っている。
私は息子に、自衛隊員になるためにも入社試験で決めるのだ。少しは勉強しておいた方がいいぞと言っておいた。息子は私の発言をまじめに聞いて勉強したらしい。後で「俺、試験勉強して損しちゃった。答案用紙に名前を書けば誰でも合格したのだ。これだけは絶対守れと約束させたことがある。お前は学校に出席しても、授業が全然わからなくても、また先生に怒られても、出席だけはしろ、休むことは絶対にするな、成績は最低でもいい、絶対に卒業しろ。自衛隊新隊員は、当時3カ月間の訓練を富士山の裾野で基礎訓練をした。基礎訓練後に航空自衛隊、海上自衛隊、陸上自衛隊、のどこに所属するか自分で決めるのだ。息子は陸上自衛隊、北海道、名寄基地を選んだ。当時ソ連が健在で、ソ連軍が北海道に上陸してきたら、名寄基地が総力をあげて基地を守ることになっていた。そのため基地には最新式の兵器が置かれ、兵士は最強の部隊がついた。息子は自衛隊に入りたく入隊したのだ。基礎訓練など積極的に受け、全参加し、隊員の体力テストは全部一級だった。私は名寄の自衛隊基地に入所以来、息子と姉妹三人が二十歳になるまで毎月手紙を書き続けた。三人から返事をもらったことはないが,とにかく二十歳になるまで書き続けた。息子は名寄に入隊してから現在迄ほぼ35年間、母親と長女には一度も会ったことはない。息子の結婚式には、母親や姉を招待しないし、私と私が再婚した妻と長女の妹、その他の肉親だけが参加した。
息子は名寄基地で趣味としてトライアスロンをはじめた。彼はトライアスロンに夢中になり、練習をやりすぎて自分の腰を痛めてしまった。きちんと治りきらないうちに激しい練習を再開たりするから、全く腰を痛めて自衛隊の仕事にも支障がきたした。仕事をせず徹底的に治癒することに専念した。腰が回復し、完全に治癒した。その整体師の技術を直接見ていたから自ら整体技術を先生から学んだ。学び終わってから名寄基地から藤沢までオールヒッチハイクで帰ってきた。それから何年後かに、息子は整体院を開業した。名前は健遼施術院。ここを拠点として、今では世田谷、川崎、上野に適当な名前を付けて全部で4件の整体院を経営し、子供も二人の小学生の娘を持ち、経営も今のところ順調だ。
私には三人の50代の子供たちがいるが、何十年間も閉じこもりは誰もいません。だいたい現在の80代は、子供のころ貧乏だったのだ。私が中学校卒業する前のとし昭和29年(1954)4月5日、15時33分青森駅発上野行きの臨時夜行列車が運行されたのだ。これがこの時から始まった就職列車だった。昭和29年の4月から全国の地方から大都市に勤務する中卒生を呼び入れる就職列車が運行されたのだ。以来20年間就職列車が運行された。現在の79歳から99歳までの人は、最終学歴中卒の日本人が一番多いいのです。
私も昭和30年、県立高校受験の時、もし合格できなければ、就職するはずだったのだ。ところが高校に入学できたので高卒で就職できたのだ。私の時代の若者は、中卒あるいは高卒で社会に出て働く人、あとは大学を卒業して社会に出て働く人の三種類。この三種類のうち大学を出て働き家庭を持った子供が五十を過ぎても引きこもりなっている人がいる。何故か。次回のブログ「80-50問題」は共産党のせい(その2)で説明します。