秀吉の描いた大帝国

信長の死後(1582年)、秀吉が後を継ぐのですが、欧米人には、この秀吉の名前も覚えてもらいたいものです。なにしろこの秀吉は、当時の超大国、スペインのフィリップ二世に堂々と挑発をしかけているからです。 秀吉は水のみ百姓の子として生まれ、剣術などなにひとつ知らない彼が戦いにあけくれて天下をとったのですから、日本史上最高の出世頭と言えるでしょう。この秀吉はスペインのフィリップ二世と同世代なのです。
欧米人は西洋史にくわしいはずですから、一般の人でもスペインのフィリップ二世の名前は知っていると思います。なにしろフィリップ二世は、スペインが動けば、世界が震えるといわれたスペイン全盛期の王であり、レパントの海戦でオスマントルコを破って地中海を制覇した王であり、その全盛期のスペインの誇る無敵艦隊がイギリス海軍に負けた時の王であり、さらに悪名高いスペインの宗教裁判の主役を演じた人だからです。
フィリップ二世の玉座の前には壮麗な火刑場をしつらえ、廷臣、騎士、枢機卿、美しい宮廷社交界の貴婦人たちの臨席する場で、セヴィリア全市のおびただしい数にのぼる住民の前で、神の栄光の名において、そのつど百人もの異端者たちが一度に焼き殺されるというケースがあったくらいです。
そのフィリップ二世が在世中東洋の日本に豊臣秀吉という男が存在していたことなど一般の欧米人は知らないでしょう。ましてやその秀吉が、日本国内のキリシタンを大弾圧したことも、またフィリップ二世に当時スペインの植民地、フィリピンを、秀吉に武力で征服される前に日本にゆずりわたせと脅しの手紙を書いていたなど知るよしもないのではないでしょうか。
秀吉の行動で今でもなぞと言われているのが彼の晩年の行動、すなわち明(中国)征服の企てです。秀吉の軍隊は、天下統一まで続いた国内の戦争で疲れきっていたことは確かです。それなのになぜ急いで秀吉は明を征服しようとしたのでしょうか。 秀吉は誇大妄想狂になってしまった、彼の個人的征服欲、秀吉本人をカリスマ的人間と思わせるためのカリスマ的演出、彼の部下の領土的要求を満たすためとか色々言われています。その理由はなぞでした。 しかし最近になって当時日本に滞在していた宣教師たちの本国への報告が明かになり、秀吉の明征服行動要因をかなり具体的に推測できるようになったのです。
秀吉が活躍していた時代、東アジアや日本に滞在していたスペインやポルトガルの宣教師たちは、明(中国)をキリスト教国にするためには武力を使うのをためらうなと、彼らは何度も本国に提言していたのです。 彼らはまた明征服はスペインが中南米で征服したアステカ王国やインカ王国と同様に容易だと繰り返しています。 宣教師たちは、明の武力征服にあたって、日本と同盟するのが有利だとして、具体的に協力すべき武将として小西行長の名前をあげているのです。また秀吉への言及もあり、秀吉が日本平定後、中国を征服する際には、ポルトガル船(この時期スペイン王はポルトガル王を兼ねていた)を提供して支援すべきだと書かれているのです。
インドのゴアにいたイェズス会の巡察使、アレッサンドロ・バリニャーノは、1582年12月フィリピン総督(当時フィリピンはスペインの植民地)へ次のような手紙を送っています。
「尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象として不向きである。なぜなら、日本は私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛且つ貧しい故、求めるべき物は何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練をつんでいるので、征服が可能でないからである。
しかしながら明において陛下が行いたいと思っていることのために、日本は時とともに、非常に益することになるであろう。それ故日本の地を極めて重視する必要がある」
この文で陛下が行いたいと思っているというのは、明征服のことです。
もう一つ例をあげましょう。日本のキリシタン大名が四人の少年使節をローマに派遣しましたが、その少年使節がローマから日本に帰るとき一緒に来日したのが司祭ペドロ・デ・ラ・クルスです。 そのデ・ラ・クルスは「明征服の企ては、ポルトガルとスペインに日本が連合してこそ成就できる」と言う意味のことを何度も言っているのです。
このようにポルトガル、スペインの宣教師たちが本国に明を征服するように説得していること、そのためには日本と組むのが良いということを本国に伝えているいのを、秀吉は宣教師を通して知っていたと思われます。知っていたからこそ1586年に秀吉は日本イェズス会副管区長、ガスパル・コエリュに次のような要求をつきつけたのでしょう。
コエリュの報告によると、秀吉の発言内容は次のとおりです。
「下賎より身を起こして最高の地位に到達したのであるゆえ、その権威あるいは名を後世に残す以外には、もはや諸国をとろうとも、あくほど持っている金銀をさらにふやそうとも思うてはいない。
日本の国内を無事安穏に治めたいと考えている。そして国内を鎮定したうえは、これを弟の秀長にゆずって、私自身は朝鮮と明との征服にもっぱら心をもちいるつもりであり、従ってその用意に大軍を渡海せしめる二千艘の軍船を造るための木材を伐採させている。
宣教師らにたいしては、そのために、じゅうぶん艤装した欧船二艘を依頼いたしたく、船の代価はもちろん、必要品のすべてに対して望みどおり支払いをなすはずである。ついてはまた、練達なる航海士の供給もうけたく、これに禄をあたえ、報酬金を交付するつもりである」
ところが翌年、1587年、当時九州征伐で博多に滞在していた秀吉はコエリュに会ったのですが、彼の要求がなんら具体化されていないことを知ったのです。これには秀吉は激怒したと思われます。なぜならその年のうちに宣教師たちにとっては、全くの寝耳に水のキリシタン禁止令が発令され、宣教師たちは国外退去を命じられたからです。
ところで何故コエリュは、秀吉の要求に応えなかったのでしょうか。秀吉の要求に応えてしまうと、明征服が日本主導のもとで行われてしまうからでしょう。スペインは日本の協力を仰いでもスペイン主導のもとで征服したかったのでしょう、あるいはスペイン単独の明征服計画が煮詰まっていたのかもしれません。
一方秀吉は、スペイン単独で明を征服されてしまうと、日本はスペインの脅威にさらされてしまうと考えたのでしょう。その考えは当然すぎるほど当然です。当時は情報の少ない時代です。海外情報を一番よく知っている人間は、秀吉だけです。そこで秀吉は日本単独で明征服をする決心をし、ついでに宣教師の力を借りようとしたのでしょう。
ところが宣教師の力を借りれないと知った秀吉は激怒したのです。もともと気にいらなかったキリシタンを弾圧、宣教師を国外追放、彼は文字通り単独で明を征服しようとしたのです。 秀吉はその年のうちに明征服の通り道になる朝鮮との外交を開始し、朝鮮国王の来日を要求する強圧外交にでました。翌年の1588年には、秀吉は琉球に入貢を促し日本に服属することを要求しています。
さらに1591年には秀吉は次のような書状をフィリピン総督に送っています。
「わが国は百余年にわたって群雄が争っていたが、予が生まれたときから、これをことごとく統一すべき使命を与えられ、ついに十年余りでこれを成就した。いま、さらに明にたいして征討の軍を送らんとしているから、即刻降伏せよ、さもなければ征服してしまう」
朝鮮との外交交渉がなかなか合意に達せず、いわゆる「仮途入明」(かとにゅうみん)といって明に入るために朝鮮の道を借りたいとの要求も朝鮮側の拒否にあい、ついに1592年3月朝鮮との戦争が始まりました。秀吉の軍勢は合計15万8千7百人の大軍です。緒戦の大勝利に気をよくした秀吉は、秀吉の甥でのちに養子になる秀次に次のような書状を送っています。
「大唐の都北京(ぺきん)に後陽成天皇(ごようぜい)を移す。明後年には天皇の居をお移しし、都の周辺の国々十か国を進上する。そして秀次を大唐国の関白として据え、都周辺の百カ国を渡す。日本国内の天皇には、皇太子良仁(よしひと)親王か弟帝の智仁(ともひと)親王かのいずれかどちらでもよい。日本の関白には、豊臣秀保か宇喜多秀家をおき、九州は羽柴秀俊。そして秀吉自ら北京に入り、その後寧波(にんぽう)に居をさだめる。そこから諸侯各位、予が命令せずともインドを好き勝手に切り取らせるようにする」
翌年の1593年には、台湾に入貢をうながし服属を要求しています。 1594年には秀吉はさらなる脅しの手紙をフィリピン総督に送り届けています。その手紙の内容は、
「予が誕生の時、太陽が予の胸に(光)を与えたが、これは奇跡であり、これによって予が東西にわたって君主となるべき人物であり、諸国ことごとく予に服し、予の門に来たって屈服すべきであることが判る。 これを為さぬ者は戦いによってことごとく殺戮するであろう。 予は既に日本全国及び朝鮮国を手に入れ、数多の武将がマニラを攻略に行く許可を求めている。これを知って原田(喜右衛門)と(長谷川) 法眼は予に『彼我の地の間には緒船の往来があり、それによって(マニラ)が敵であると思えない』と言った。
この道理によって予は(マニラ)へ軍勢を派遣することを思い留まったのである。朝鮮の人々に対してその言葉を守らなかったので戦を始め、 その首都まで獲得し、その後予の部下は彼らの救援に明(中国)からきた無数の明人や数多の貴人を殺害した。(中略)彼らはかの地において(明からの)使節を待っている。もし彼ら(明人)がその言葉を守らねば、彼らと戦うために予自ら出陣するであろう。こうして明に至ればフィリピンがすぐ近く予の指下にある。 予は我ら(日本とフィリピン)が永久に交友を保つことを希望する。これをカスティリア王に書きおくられよ。遠隔の地を理由にカスティリア国王が予の言葉を軽んずることがないようにせよ」
カスティリア王とは、スペイン王フィリップ二世のことです。この時期 秀吉は、日本、朝鮮、中国、琉球、台湾、フィリピン、インドを含む大帝国の支配者になろうと考えていたのではないでしょうか。 それでは実際の戦場である朝鮮の戦いはどうなったかと言えば、確かに緒戦は大勝利でしたが、その後は朝鮮民族の激しい抵抗、朝鮮水軍の活躍、明軍の支援、朝鮮国内の大飢饉などで、秀吉軍の進撃がおもうようにはかどらなくなってしまったのです。
和平交渉が始まるとほとんど休戦状態になってしまいました。長い和平交渉は決裂し、1597年に秀吉は朝鮮の再征を決めた。その再征も失敗、1598年に秀吉の死を秘して朝鮮から撤兵した。 秀吉は国内平定前に明征服をコエリュにうちあけているのですが、国内をほぼ平定後すぐに朝鮮出兵を命じているのです。なぜそれほど急ぐ必要があったのかなぞなのですが、考えられる理由は二つあります。
一つは、秀吉が明征服のため二艘の船と熟練の船員の手配をコエリュに要求したのに、事実上拒否された形になっています。その時秀吉は、ひょっとしてスペインが単独で明を征服するつもりではないのかと考えたのではないでしょうか。それなら先に日本が征服してしまわなければという理屈になります。
二つ目は、再征出兵後の翌年秀吉は、あっけなく死んでいるので、秀吉は自分の体力の急激な衰え、あるいは病気で、自分はもう長く生きられないと悟ったのではないでしょうか。こういう時はえてして人は、結論を急ぎたがるものです。あるいはこの二つの理由が一緒になっていたかもしれません。
もし息子の秀頼が、もっと早く生まれていて、一人前の武将になっておれば、後は秀頼に後事を託す心の余裕も生まれていたことでしょう。 日本国内の秀吉の脅しの手紙は、効き目があったと思います。それが外国にも通じると思って脅しの手紙を連発する秀吉のおそまつな外交は、現代の日本人は笑うことはできません。
秀吉の明征服に関して私は、近所の図書館でわざわざ四種類の歴史書を読みました。それはある予想をしていたからです。大東亜戦争日本悪玉論が主流をなす現在、なにかといえば戦前の日本を批判する時勢です。 明を征服しようとして朝鮮征伐までした秀吉は、恐らく徹底して批判されているのではないかと想像したからです。
想像どおり四種類の本とも秀吉をはげしく批判していました。明征服については、誇大妄想だの、ひょっとして秀吉は気が狂ったのではないかと書いてあるのもありました。私はあらためて時勢、時流に盲従する歴史学者を見た思いでした。 秀吉批判もけっこうですけど、世界情勢の中での秀吉をなぜ見ようとしないのでしょうか。秀吉の時代は、スペインが動けば、世界が震えると言われたスペイン帝国が存在していました。
南ヨーロッパを支配し、イスラム勢力を駆逐し、中南米大陸を征服し、フィリピンのマニラを根拠地としてアジア全体の支配を狙っていたスペインに対して異を唱えることができたのはヨーロッパを除いて秀吉のいた日本だけです。宣教師たちも日本を征服できない国とか、明を征服する時は日本の協力が必要とか言って日本という国の存在感を認めているのです。
秀吉はスペインに自分の意思をはっきり見せ付けたのがキリシタン禁止令であり、六人の外国人宣教師を含む26人のキリシタンの処刑です。 これに対してスペインは報復できなかったのです。国内平定後秀吉は、スペインの向こうを張って東アジアに大帝国を築こうとして明征服を実行にうつしたのです。
秀吉のフィリピンを日本によこせという脅しの手紙の効果のほどはわかりませんが、少なくとも日本にいる宣教師たちは秀吉の動性を不安げに見ていたことは確かです。
処刑のため長崎に護送される途中、フランシスコ会の宣教師マルチン・デ・ラ・アッセンシオンは1597年一月にマニラ総督にあてて 「この国王はサン・フェリペ号から没収した貨物によっていっそうの欲望をつのらせた。うわさによれば、彼は元来は朝鮮との事件に忙殺されていて、いまは企てないが、来年はマニラにおもむくとのことである。 この目的を達するため、彼は琉球列島および台湾島の占領を計画し、同島をへて軍隊をカガヤンに送り、さらにマニラに殺到する由である」と報じています。
処刑される寸前までマニラのことを心配して情報を送っているのです。秀吉の軍隊を強敵とみている証拠でしょう。結局秀吉の計画は失敗に終わりました。失敗したからといって秀吉を批判するにはおよびません。 現職の天皇の住居を中国の北京に移し、自分は上海のすぐ南にある寧波 (にんぽう、当時日中貿易の拠点)に居をかまえようと計画した時、秀吉の頭には、ジンギス・ハーンやフビライ・ハーンの大帝国や、当時の大帝国スペインが描かれていたはずです。
隣国の領土だろうが、遠い国の領土だろうが、切り取り自由の時代に日本の外に飛び出して世界的な大帝国を築こうと計画し、実行に移したのは、日本史上秀吉しかおりません。貧農の出と言われる秀吉が、一生の間に日本国内平定だけでなく、世界的大帝国を築こうとしたのです。
まさしく秀吉は我々日本人が誇るべき英雄の一人なのです。
ナポレオンに対してどんなに近隣諸国から文句が出ようがナポレオンは、フランス人の誇る英雄です。近隣諸国を蹂躙して大帝国を築いたジンギス・ハーンはモンゴル人の誇る英雄です。 ところがどうですか、日本の歴史学者は、秀吉の時代まで現在の価値観で秀吉を裁き、批判しているしまつです。皆さんはどちらの歴史観を支持するのでしょうか。
このブログをひょっとして韓国人が読んでいるかもしれません。私は、韓国人にはっきり主張しておきます。韓国人が秀吉のことを何と言おうと、秀吉は日本の英雄です。 秀吉が元気でもっと長生きして朝鮮や明を征服してくれたら良かったのにと思っています。

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8 comments »

屋根の上のミケ より:
2009年6月14日 10:22 AM
秀吉がフェリペ2世と対抗する世界の英雄だったとは、目からウロコの新鮮な驚きでした。これからも、よろしくお願い致します。傑作 ランクリです ミケ

えんだんじ より:
2009年6月14日 8:19 PM
屋根の上のミケ様
コメントありがとうございます。
こちらこそ、これからもよろしく御願いします。

陽山 より:
2009年6月15日 6:55 AM
『それでは実際の戦場である朝鮮の戦いはどうなったかと言えば、確かに緒戦は大勝利でしたが、その後は朝鮮民族の激しい抵抗、朝鮮水軍の活躍、明軍の支援、朝鮮国内の大飢饉などで、秀吉軍の進撃がおもうようにはかどらなくなってしまったのです。』 と記述されていますが、『朝鮮民族の激しい抵抗』は、金日成のパルチザンと同じ論法に思えてなりません。日本軍の進撃膠着は明軍との戦闘に理由があると思えますが、如何でしょか。証拠はありませんが。

えんだんじ より:
2009年6月15日 3:22 PM
陽山様
コメントありがとうございます。
「激しい抵抗」と言っても主観的でどの程度を持って「激しい」かは人さまざまなのでやっかいな問題です。
私も陽山さんが言われるように明軍との戦闘が大きな障壁になったような気がします。

猪 より:
2009年6月16日 10:27 AM
戦時中に頂いた綽名「猪」を大将がなく成られましたので捨て「70代の青年」などと気障な事をしたら死亡した大将が怒ったのでしょう。風を引き「唸って」居りました。ようやく床上げフラフラしておりますが、大将の呉れた「猪」に帰らせて頂きます。現状思考力半減取り合えすご挨拶まで~~

えんだんじ より:
2009年6月16日 1:23 PM
猪様
コメントありがとうございます。
無理をなさらずお体を大事にしてください。
猪復帰に大将殿も喜んでおられるでしょう。

猪 より:
2009年6月17日 11:50 AM
私も関西の出ですから豊臣秀吉は少年時代からの英雄でした。徳川家康は汚いので嫌い。と言って関東に来てからは変人に見られました。
子供の頃は子分の猿飛佐助に成り山川を駆けずり回って居りました。年をとると全快だろうと思うのですが今日も未だボヤ~としています。

えんだんじ より:
2009年6月17日 5:08 PM
猪様
コメントありがとうございます。同じ日本人でも関西人は、秀吉への思いいれが深いみたいですね。
養生が大切。大事にしてください。

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