日本史上初の武家政治が行われていた鎌倉時代、その末期にこれまた日本史上初の国家的危機に見舞われた。それは蒙古軍による二度の日本侵略攻撃でした。蒙古とは13世紀にジンギス・ハーンが建国したモンゴル帝国のことです。そのジンギス・ハーンの孫、フビライ・ハーンは、1271年国名に「元(げん)」という名前つけ、1279年に中国全土を完全に支配した。
フビライが国名を「元」にしたのはモンゴル帝国全体を「元」にしたのではありません。フビライ家の領有地を「元」にしたのです。ユーラシア大陸の各地にもジンギス・ハーン家の親族の国家がいくつかありました。キプチャク・ハン国、イル・ハン国、チャガタイ・ハン国、オゴタイ・ハン国がそうです。これらの国全体がモンゴル帝国だったのです。
フビライはその在世中にモンゴリア、満州、中国を中心とし、チベット、高麗(当時朝鮮は高麗王朝時代であった)を属国として元朝最大の領土を支配した。
そのフビライは1274年モンゴル軍15,000、高麗軍6,000、艦船900艘で日本侵略攻撃を開始した。壱岐、対馬といった島は完全に蒙古軍に攻略され、九州の博多湾付近から上陸を始めた。
迎え打つ日本軍は大苦戦を強いられ夜を迎えたのですが、優勢に戦いを進めてきた蒙古軍は、夜になるとどういうわけかほとんどの兵士を軍船に引揚げてしまったのです。これが蒙古軍の命取りになった。その夜台風にも似た大嵐になってしまったのです。翌朝沖をみれば、900艘と言われた蒙古の軍船がまるで一夜でかき消されたように見えなくなっていた。侵略攻撃は失敗に終わった。
フビライは、二度目の侵略攻撃を準備しました。そして1281年今度は最初の攻撃規模を上回る、元、高麗連合軍14万、艦船4400艘で日本侵略に撃って出たのです。ところが今度も博多湾付近で台風にあい、上陸作戦も敢行できずに壊滅的な打撃を受け侵略攻撃は失敗してしまったのです。
この二度の攻撃の時には、京都の朝廷は無論のこと、鎌倉幕府のある鎌倉各地の大きな神社やお寺では、蒙古軍を降伏させる祈祷、祈願の行事を何回とくりかえし行っています。祈祷、祈願は当時の朝廷、神社仏閣の大変重要な行事でもあった。それだけに当時の人たちは祈祷、祈願の効果を信じていたのでしょう。祈祷、祈願する時、祈願文を捧げるのですが、その祈願文の内容は、現代ですと恐らく日本軍がモンゴル軍を打ち負かすようにというような内容になるかと思うのですが、そのような内容のものではなかったのです。
当時の祈願分には、神の力で敵を降伏させてくれという、より妖術的な面が強調されていた。奈良西大寺(さいだいじ)の思円上人叡尊(しえんじょうにん・えいそん)のお祈りの言葉の一部があるので参考に紹介しましょう。
「異国来襲して貴賎男女すべて嘆き悲しんでおります。もはや神明もこの神国をほろぼし、仏陀も見捨てたもうたのでありましょうか。たとえ皇運は末になり正道の誠なくとも、他国よりはわが国、他人よりはわれらを神仏はどうして捨てさせたもうでしょうか、昔、八万台菩薩が、{天皇の勢い衰え人民の力がなくなったときこそ}と誓わせたもうたのも、実にいまこのときのためでありましょう。そもそも異国とわが国土とくらぶれば、蒙古は犬の子孫、日本は神の末裔、かれらはすでに他国の財宝を奪い、人民の寿命をほろぼす殺到非道の輩であります。
我が国が仏法を守り神祇(じんぎ)をうやまい、正理を好む国であるからには、かならずや仏陀も知見したまい、神々も照覧したもうはずであります」
「蒙古は犬の子孫、日本は神の末裔」と主張しています。当時、犬が嫌われていたことがわかります。「犬畜生」という言葉がありますが、言葉の由来は相当ふるいのかもしれません。とにかく当時の人々は、神国日本が蒙古に征服されてしまうという恐れで必死の思いで祈祷、祈願したのです。その結果二度も台風が吹いて、蒙古軍の軍船を壊滅させてしまったのですから、祈祷、祈願が成功したことになりました。
これを当時の人々が神が吹かせた風、「神風」と呼んだのも当然だと思います。こうして『神風が吹く』という縁起の良い言葉が後世まで残りました。大東亜戦争末期、特攻隊にこの縁起の良い「神風」の名前つけて神風特攻隊と称したのです。神風がふくどころか日本の大敗でした。しかし神風特攻隊は、アメリカ兵に強烈な印象をあたえたのでしょう、戦後神風は英語になり、kamikazeとして英語の辞書に載っています。
いまさらこんなことを言うと、当時の人々には、気の毒なのですが、蒙古軍に一時的にも日本列島が征服され、日本国民が痛い目に会う経験をしていたら、日本国民は日本列島の防衛に関してもっと敏感な民族になっていることにはまちがいないでしょう。
ところでフビライは、なぜ日本を侵略しようとしたのでしょうか。それはフビライ本人に聞かないとはっきりした理由がわからないとされています。しかしその理由が想像できる古い本があります。それはマルコ・ポーロが書いた「東方見聞録」です。この本は、日本という国をヨーロッパ人に初めて紹介したことで有名です。
マルコ・ポーロはヴェネツィア生まれのイタリア人商人で父と叔父と共に1271年陸路中国へ旅立ちした。1275年にフビライに謁見することができたのです。ちょうどこの時は、フビライの最初の日本攻撃が失敗した翌年でした。マルコ・ポーロは、フビライに気に入られたのでしょう。彼は元朝の宮廷に仕え優遇された。そして中国に滞在すること17年、帰国の時にはインド沿岸の船旅を重ねて1295年にヴェネツィアに帰国した。帰国後彼の著書「東方見聞録」は、初めて極東の事情を西欧に伝えたものとして有名になりました。その中で日本をジパングと呼んでこのように紹介しています。
「ジパングはマンジ(中国の中南部をさす)から東方1500マイルはなれた太平洋のなかの島で、はなはだ大きな島である。住民は色が白く、開化していて顔立ちもすぐれている。彼らは偶像崇拝者で、かつ誰にも従属していない。
彼らのもつ黄金は無限であると言えるが、それは自分らで金を産し、国王がその輸出を許可しないからである。のみならず大陸から大変遠いためこの国に訪れる商人もほとんどなく、かくて彼らの金の保有量ははかりしれないほどである。
私は諸君に、その島の宮殿について驚くべき事実をお話したいと思う。島主は壮大な宮殿を持っているが、その屋根はすべて純金であって、あたかも我々の教会の屋根が鉛で葺かれていると同様で、その価値はいくらともはかりしれないものがある。
そのうえ宮殿の舗装や各室の床はすべて金で、板石のように敷かれており、それも指二本の厚さはじゅうぶんある。窓もまた金でできており、したがってこの宮殿の富はとても信じられぬほどのものである。
彼らはまた豊富な真珠を持っている。その色はバラ色で、しかも立派で大きくまるく、白色真珠と同じくらい高価なものである。この島では死者は埋葬もしくは火葬にするが、火葬の場合にはこういう真珠一粒を死者の口の中にふくませる風習がある。その他に他の宝石類もすこぶる豊富である」
この記事に続いてマルコ・ポーロは、いまの大ハーンのフビライがジパングのこのすばらしい富を入手する計画を立てて軍勢を送ったが、嵐にあって失敗したことを述べています。
当時日本は確かに比較的産金量が多かったのは事実ですが、この日本に関する記述は、ほとんど伝聞の寄せ集めのような感じがする。従ってフビライが日本の財宝を手に入れるために軍隊を派遣したというのは、とても信頼できないとされています。
ここで私は、特に現在の日本の歴史家に苦言を呈したい。歴史を学ぶあるいは語るとは、現代の目で過去をみることではありません。大東亜戦争を批判する歴史家や知識人は、ほとんどが現代の目で判断して日本を批判しているのです。歴史とは、例えば64年前の大東亜戦争を当時の人たちがどう見ていたか学ぶことなのです。
「東方見聞録」は「ほとんど伝聞の寄せ集め」と言っていますが、それは現在の知識から判断した場合で、当時では真実と受け止められたことは充分予測できます。コロンブスは、マルコ・ポーロの「東方見聞録」を頼りに大西洋回りでインドへ向かい、インドから日本へ向かうはずだったのです。ところがアメリカ大陸海域の島々に到着しインドに到着したと勘違いしていたことでも、「東方見聞録」が真実と思われていた証拠でしょう。
ところでマルコ・ポーロは、日本の情報をどこで手にいれたでしょうか。マルコはフビライに優遇され元の宮廷に仕えていたから、元朝の役人から得ていたことは充分に想像できます。マルコが元の到着する前年にフビライは第一回目の日本侵略攻撃に失敗しています。その話は当然元朝の役人から聞いているでしょうし、あるいはフビライ本人から直接聞いているかもしれません。
「日本の財宝を手にいれるために軍隊を派遣した」と書いていますから、元朝の役人も、フビライも日本についてはあの程度の智識しかもちあわせていなかったのでしょう。またモンゴル軍(遊牧民族)の戦争文化は、略奪です。まさにフビライは日本の財宝を手に入れるために日本を侵略しようとしたのだと思います。
ところでここ数十年、朝鮮(韓国と北朝鮮)は、日本が朝鮮を植民地にしたと日本批判にあけくれています。ところが朝鮮は蒙古軍によって国土は数十年にわたって蹂躙され、特に1254年から6年間にわたる蒙古軍の侵略はすさまじいものがありました。
「高麗史」は、「この年蒙古兵の捕虜になった者、男女およそ20万6千8百人、殺された者あまり数が多すぎて数えることができず。蒙古兵の通る所すべて灰儘に帰す。蒙古兵が侵略して以来、この時ほど悲惨な目にあったことはない」と記しているほどです。あげくのはてに高麗王朝は、元の属国になってしまい、高麗王朝の王は、王妃に元(げん)の皇帝の娘を迎えねばならなくなったのです。実に屈辱意的なことです。それが5代も続いたのです。
もし蒙古軍が台風に襲われなかったら、当時の日本の皇室も高麗王朝と同じ運命が待ち構えていたでしょう。いずれ現在の皇室は、中国から難問を突きつけられるでしょう。話はとんでもない方向に飛びますが、民主党政権が誕生し、長期政権ともなれば、間違いなく日本政府の中国傾斜が深まります。このまま中国の崩壊もなく、日本の憲法も改正もされず、自衛隊が軍隊に変わることもなければ、いずれ日本は、中国の属国になるでしょう。その時の日本の政権担当者は日本共産党になっているでしょう。中国は日本に皇室の廃止をせまるでしょう。その理由は、二つあります。
1.共産主義と皇室とは相容れない。
2.日本人が天皇の下に一致団結するのを恐れる。
日本国民は、必死の願いで皇室維持を訴えます。その時中国政府は、天皇陛下のお妃に中国人国籍の女性をめとることを要求するでしょう。あの中国民族なら必ず要求するとみています。
その時日本民族は、二つの意見に別れます。中国人女性をめとって天皇制維持派、日本の皇室に御妃として中国人女性が入り込むのは絶対反対、そのため天皇家をアメリカに亡命させる。皆さんはどちらを選びますか。ちょっと真剣に考えてみてください。現在の日本の情勢を考えると、こんな事態がおこらないことを願うばかりですが、絶対に起こりえないとは言えなくなっているのです。