前回遅れをとった理由の一番目に「250年の平和」をあげました。今回はそのほかに考えられる理由をあげてみました。
(1)250年の平和
(2)鎖国政策
武器取締り強化が国内を平和に保つための国内政策なら、鎖国は宣教師の密入国を防ぐことや、外国とのもめごとに関わるのを阻止するための外交政策といえます。 キリシタン弾圧は16世紀からありましたが、島原の乱にこりた江戸幕府は、乱後は徹底したキリシタン弾圧をとりました。 貿易と布教を同時に行うポルトガル人やスペイン人を追放してしまいました。イギリス人も貿易の利があがらず日本を撤退しています。残ったのはオランダだけになったのです。オランダは貿易するだけで布教活動をしないという条件で日本との貿易を独占することになったのです。貿易する場所は、長崎だけ、またオランダ人が住める場所は長崎の出島だけ、毎年一回オランダ商館長は江戸に上って、将軍に拝謁し、日本との貿易を許されているお礼のため献上物をさしあげることなどオランダは同意したのです。
その他に貿易を許されたのは、中国、朝鮮、琉球です。オランダをいれたこの四カ国だけが日本との貿易取引が長崎港だけで行われた。そして幕府は、日本人の外国行きも禁止、外国から帰国したものは死罪にしてしまいました。 鎖国といっても完全に閉ざしたわけではありませんが、外国船が入港できるのは長崎だけですし、海外情報が入ってきても伝わるのは一部の特権階級だけですから、どうしても海外情報不足なるし、海外からの刺激を受ける機会が少なくなってしまうことは否定できません。この鎖国政策が、日本国内の技術発展の妨げなった一因であることはまちがいありません。
そのせいか鎖国政策を非難する歴史家もおりますが、その点では私も同意します。しかし政府の重要な仕事の一つは、国民に平和な安定した生活を与え続けることですから、その点で言えば鎖国政策は正しい政策だったと言えるのではないでしょうか。 鎖国政策というと、なんとなく後ろ向きな、消極的なイメイジを与えてしまいますが、決してそうではありません。江戸幕府は、日本国内に平和が続く事を目的にしていたのです。なぜならそれが徳川家の安泰につながるからです。その目的達成のために鎖国政策といわれる日本独自の外交を世界に示したのです。
だから鎖国政策は、日本の積極外交の表れなのです。そしてヨーロッパ諸国は不承不承ながらもその鎖国政策に従ったのです。なぜ従ったのか。鎖国政策が次々とうちだされたのは、1630年代です。その頃の日本の軍事力は、ほぼ対等だったからです。 また例え日本の軍事力が多少劣っていても、ヨーロッパ諸国は、その頃戦争ばかりしていたし、日本の外交政策が気に食わないと言って日本に攻め入るような力はなかったのです。その国の外交政策を外国に認めてもらうには、それなりの軍事力がないとできません。
鎖国政策からおよそ200年後、鎖国政策は欧米諸国に認めてもらえなかったのです。認めさすには軍事力に差があり過ぎたからです。ここで鎖国政策にたいする当時の外国人のコメントを紹介しましょう。
オランダ東インド会社の医師として1690年に来日し、出島の商館に二年間在勤したドイツ生まれのエンゲルベルト・ケンペルは、帰国後 700頁にわたる大著「日本誌」を著しましたが、その中で鎖国を次のような理由で是認しています。
「日本は他の大陸より隔絶している島国で、自然の恩恵は豊かである。人口は稠密で、しかも国民は勤勉であり、優秀な工芸品を作っているから自給自足が可能である。 法律が厳しく、国内の統治はうまくいっている。不平や内乱をおこしやすいのは諸国民(欧州)の傾向であるが、日本の現在の事態はきわめて落ち着いており、国内にそのような企てのおこる懸念はない。だから国内に動乱や面倒を引き起こすおそれのある外部からの原因を断ち切ることは、極めて当を得たことと考える」
この鎖国政策には、功罪があります。罪の方は、なんといっても科学技術の遅れの一因になったことではないでしょうか。
(3)身分制度の固定
応仁の乱(1467年)から秀吉の全国平定(1590年)までのおよそ120年間を戦国時代と呼んでいますが、まさに激動の時代ですから身分の低い者にとって出世するには最高の機会でした。反面公家や僧侶などは大変苦しい生活を強いられました。 天皇家でさえ一時は大変な生活苦を陥っています。
この激動の時代を味方につけてのしあがってきたのが豊臣秀吉です。信長、家康にも困難な時代はありましたが、二人には忠節を尽す家臣団がいました。しかし秀吉にはそんな人物は誰もいません。
百姓の子ですから武芸すら教わったことさえないのです。その秀吉が天下を取ったのですから、その凄さがわかろうというものです。 秀吉の才能もさることながら、時代が徹底して彼に味方したことも確かです。秀吉ほどの出世でなくとも、素性のわからない男が一国一城の主になった大名もいます。こういう時代から江戸時代には一転して身分制度が固定してしまったのです。
俗に士農工商といって、武士、農民、職人、商人の四身分制度です。農民は百姓と言われ、漁民もきこりも猟師もみな百姓という身分に統一され、職人や商人は町人と呼ばれていました。 武士の身分は、役職によって細かく分かれ階層秩序は非常に厳密でした。役職は世襲制で、長男が継ぐことになっていました。 秀吉のように農民の子が武士になるようなことは、なくなってしまったのです。それどころか例え武士でも、例外はありますが、他人を大きく乗り越えて出世するようなこともまれになってしまったのですその結果身分相応な生活をすることに慣れてしまいました。 江戸幕府が長く政権を維持できたのもこの身分制度の固定が大きな理由の一つなっていたと思います。
がんじがらめに固定された身分制度では、どうしても人々の自由が制限されてしまいます。その結果人々にチャレンジ精神を発揮する機会を奪ってしまったと言えます。この固定された身分制度も科学技術の発展を遅らせた一つの要因です。
1790年から1860年にかけてと言えば、江戸時代中期から後期にかけてです。この70年間にアメリカの特許局は、総計3万6千件の特許を承認しているのです。1860年以降の70年間では、150万件の特許を認可しています。 もしかりにアメリカ人が、発明の才能が豊かであったとしても、同じ時期江戸時代のような身分制度の固定した社会に住んでいたら、発明の才能を発揮できたでしょうか。
(4)富に対する執着心が薄い
いままであげた三つの原因は江戸時代の特性です。四つ目の原因は、江戸時代までの日本人の特性です。江戸時代以前から大東亜戦争までは、日本特有の文化であった「恥」の文化がありました。
16世紀、キリスト教布教のために日本に最初にやってきた宣教師、フランシスコ・ザヴィエルの日本報報告書の中でこう書いています。
「日本人は大概貧乏である。だが武士たると平民とを問わず貧乏を恥と思っている者は一人もいない。 江戸時代の武士も、将軍のような特権階級をのぞいてほとんど貧乏でした。ちょっとした町人の方が暮らし向きがよかったのです。それでも武士であり続けたのは、武士としての誇りでした。
「武士は食わねど高楊枝」、「武士に二言なし」という言葉があるくらいです。 貧乏なくせに武士には、あまり賄賂が通用しなかったのです。それでいて自分の主君のためには、命を投げ出す覚悟でいるし、自分の名誉のために切腹もします。このため武士は一般庶民からある種の尊敬をえていたと思います。一般庶民は「お武家様はえらいなあ」ぐらいの感情も得ていたとも思います。
それが証拠に明治時代になって武士の身分が廃止され、皆平民になりました。誰とでも結婚できるようになったのです。前町人だった商人たちは、こぞって自分の娘を今は平民だけど前は貧乏武士のところへ嫁がせることに夢中になったのです。 前貧乏武士だったところへ嫁にやったところで、自分の地位があがるわけではないのです。武士ならば信頼がおけるとか信用ができると言った評価があったからです。支配階級である武士が、一般庶民からは、少なくとも嫌われてはいなかったという証明です。
貧乏武士の話になってしまいましたが、江戸時代は、支配階級の武士ですら貧乏が多く、それが恥でもなんでもないわけですから、庶民が貧乏だろうとどうということはなかったのです。 これが貧乏であれば、社会的差別を受け、大変みじめな生活を強いられるようでしたら、富に対する執着心がもっと強くなっていたと思います。幸い日本の社会ではそうではなかったのです。 私たちは、観光であるいはテレビで、ヨーロッパ諸国の王朝の宮殿を目にしますが、その豪華絢爛さ、まさに富にたいする執着心のなせるわざです。 科学技術の発達は、富の追及と表裏一体の面があります。特許制度ができたのはヨーロッパでは、早くも13世紀にできたといわれていますし、アメリカでは独立後まもなくしてできています。この制度は富の追求から必然的に生まれてくるものです。
1881年(明治14)の4月9日付けのイギリスの新聞(ジャパン・ヘラルド)が、日本の将来のことをこう予告しています。
「日本が富を手にするとはとても思えない。自然に恵まれ、怠け好き、自己満足している日本人には、無理な話である。日本人は多くを求めない幸せな人種であり、あまり発展することはないだろう」
私はイギリスの新聞が、日本の将来をこのように予測したのは、当然のような気がします。国民が非常に貧乏なのに平和に暮らしているのを見れば、誰だってその国民は怠け好きで自己満足していて、富への執着心がうすいのではないかと思うでしょう。その結果日本は発展しないだろうと予測したのです。
同時にこの新聞記事は、言外に富の追求が国を発展させるのであるという意味のことを語っています。そのとおりで欧米諸国の発展の原因は、飽くなき富への追求の結果であると言えるでしょう。そして現在では、世界中が飽くことなき富への追求に夢中なのです。 江戸時代に何故日本は、科学技術で遅れをとったのか、主な理由を四つあげましたが、それでは当時の日本の技術レベルはどの程度だったのでしょうか。 1859年(江戸後期)に来日したイギリスの初代駐日公私オールコックは、「日本の文明は、高度の物質文明であり、すべての産業技術は、 蒸気の力や機会の助けによらずに到達することができる完成度をみせている。ほとんど無限に得られる安価な労働力と原料が、蒸気の力や機械を補う多くの利点を与えているように思われる」
このように日本の産業レベルが高かったからこそ、明治に入って短期間に追いつくことができたのです。これを欧米は日本の奇跡と呼んでいますが、奇跡でもなんでもないのです。欧米の技術レベルがまだ日本にとって追いつけるレベルの範囲以内だったのです。 アフリカの未開の大地にコンピューターを持ってきたところで、奇跡どころかなにも起こりません。
このイギリスの初代公私が日本にやってくる5年前にペリーが浦賀にやってきます。帰国後彼は「遠征記」を著します。その中でペリーは、日本についてものすごい予言をしています。
「実用的ならびに機械的分野の諸技術において、日本人は素晴らしい手先の器用さを備えている。彼らの使う道具の粗末さや、機械に関する不十分な知識を考慮に入れるならば、日本人の持つ手作業の完全さは驚異的なものと思われる。
日本の職人は、世界のどの国にも引けをとらない腕前を持っており、彼らの発明的能力がもっと自由に発揮させるならば、世界の最も進んだ製造業国と肩を並べる日も遠くない事であろう。 他国民の物質的進歩の成果を学びとろうとする旺盛な好奇心と、それらをすぐに自分たちの用途に同化させようとする進取性からしても、彼らを他国との交流から隔離している政府の方針が緩められるならば、日本人の技術はすぐに世界の最も恵まれた国々と並ぶレベルに到達すれであろう。
そして、ひとたび文明世界の過去から現在に至る技術を吸収した暁には、将来の技術進歩の競争をめぐり、日本は強力な競争相手として出現することになるであろう」
このペリーの予言どおり日本は、欧米諸国の競争相手なっていったとき、その時世界は、白人にほとんど支配されていた。そしてその時代は、激しい人種差別の時代で、日本は徹底して嫌われていたのです。そのため欧米諸国は、日本を潰しにかかったのです。 これが大東亜戦争の遠因になっていたのです。 大東亜戦争日本悪玉論で片付けられ戦争ではありません。 大東亜戦争日本悪玉論を主張する日本人歴史家や日本人知識人よ、私にとってあなたがたは、軽蔑の対象以外のなにものでもありません。