「鉄の女」北条政子(2)

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1.尼将軍
暗殺される前、生存中の次男、実朝は体が弱く、結婚後十年以上たっても子供ができなかった。昔のことですから体力のなさが原因と考えたことでしょう。そのため実朝の跡継ぎが問題になってきました。そこで政子や幕府首脳陣が話し合った結果、誰の発案かわかりませんが京都から皇族の将軍を迎えようということに決まった。その交渉のため政子が京都にのぼった。交渉の結果、後鳥羽上皇の息子の六条宮か、冷泉(れいぜい)宮かのどちらかを将軍として鎌倉へ使わすという約束をとりつけて鎌倉に帰郷した。ところが実朝が暗殺されてしまったので、早速幕府側は、約束の履行を要求した。
ところが後鳥羽上皇は、源氏将軍家の断絶は、鎌倉幕府打倒の絶好の機会ととらえ政子との約束を反故にしようとした。後鳥羽上皇は、鎌倉幕府の荘園支配に不満を持っていた。上皇の収入に直結するからです。
それでも再交渉の結果、左大臣九条道家の子で、西園寺公経(きんつね)の孫、頼朝からいえば、妹の曾孫にあたる二歳の幼児、藤原頼経(よりつね)を将軍として鎌倉に向かえることで話が落ち着いた。二歳の幼児将軍頼経(よりつね)は、1219年7月19日鎌倉に到着した。
後見人は政子がなった。これによって政子は尼将軍と呼ばれるにようになった。夫、頼朝の死後、政子はすぐ出家して尼になっていましたが、今まではどちらかと言えば影の実力者のような存在でした。
ここで尼将軍と呼ばれ幼児将軍の後見人になり、政治面で弟の執権義時と同じように肩を並べたようになったのです。実朝が殺されたのが同じ年の1月12日ですから、悲しみに浸っているどころか、わずか半年で政治の矢面にたったというのは政子の並々ならぬ精神力がうかがえます。
2.承久(じょうきゅう)の乱
鎌倉幕府と後鳥羽上皇との関係は、幼児将軍、藤原頼経を鎌倉へくだすことで決着がついたわけではなかった。後鳥羽上皇は、実朝が死に源氏の跡継ぎが絶えたこの時期が鎌倉幕府を倒す好機と、北条氏に不満を持つ武士たち、京都の御家人たちを集めたりして倒幕の準備をしていた。
1221年5月19日京都から鎌倉まで4日で到達できるという超特急の飛脚が鎌倉に着いた。鎌倉から京都守護職に出向いている伊賀光季(みつすえ)からの飛脚でした。
「院ではしきりに兵を集めています。私の身辺もあぶないようです」
この時伊賀光季はすでに殺されていた。5月14日に後鳥羽上皇が召集をかけたのに京都にいた鎌倉の御家人たちで、光季ただ一人応じなかったからです。
5月19日の光季の最初の飛脚後、その日のうちに次々と飛脚が着いた。飛脚たちの報告で政子を初め幕府首脳陣は愕然とした。上皇の呼びかけに応じて北条氏に滅ぼされた比企氏や和田氏の一族の裏切りはしかたがないとしても、鎌倉御家人の有力者に裏切りが出ていること。上皇が義時追討の院宣を全国に配布したこと。
院宣とは上皇が出す公文書のことです。院宣の影響力は大きく枯れ木に花が咲くとまで言われてきました。すなわち鎌倉幕府が「朝敵」になってしまったのです。その日のうちに上皇の院宣を持った使者が鎌倉に到着しました。
幕府は滅びるかもしれない。鎌倉武士に動揺が広がりました。ぐずぐずしていると上皇軍の数がふくれあがるかもしれないとその日のうちに義時、時房の兄弟、義時の長男泰時、大江広元らがあわただしく政子の邸宅に集まった。同時に鎌倉中の御家人たちも招集された。
政子の邸宅、また庭のすみずみまでぎっしり集まった御家人たちを前に尼将軍政子は、一世一代の名演説をぶちあげた。
「みなさん、心を一つにして聞いてください。これは私の最後の言葉です。あなたたちには、昔は三年の大番(おおばん)(京都大番役のこと)というものがあった。大切な勤めゆえ、みなはりきって出かけていった。しかし三年ののちには力つきて、みすぼらしいみのかさ姿、足にははくものがないありさまで帰って来た。故殿(頼朝のこと)はそれをあわれんで、三年の勤めを六ヶ月にちぢめ、分に応じたわりあてをして、みなが助かるようにはかられたではないですか。
これほどの深いおなさけを忘れて、京がたへつこうとする者は、・・・いいえ、とどまって鎌倉がたへ奉公しようとする者も、さあ、ここで、はっきり、所存を申し述べて下さい」
政子は上皇の院宣の不当さをなじり、鎌倉には将軍四代の今までに、朝敵の汚名をきせられるようなあやまちは、露ちりほどもなかったと主張、さらに「わたしはなまじこの年まで生き延びて、三代将軍の墓所を、西国のやからの馬のひづめにかけられるのかと思うとくやしくてならない。これ以上生きて何になろう。京都がたにつきたいのなら、この尼を殺してからいくがいい」
切々と訴える政子の目には涙があふれ、聞いている御家人たちの目にも涙、政子の説得は功を奏し、御家人たちは一致団結した。防御に専心すりより一刻も早い攻撃と決定。
5月21日の夜、総指揮官、北条泰時は、主従わずか18騎で鎌倉をたった。時房と朝時(泰時の弟)がこれに続き、東国の武士たちが続々とあつまり、京都を攻め入る時は19万の大軍になり朝廷側に圧勝した。これを承久の年に起こったので承久の乱と言う。乱後の処分に政子も立ち会っています。
事件の張本人、後鳥羽上皇は出家の上、隠岐の島(島根県)へ、後鳥羽上皇の皇子の順徳上皇は佐渡島(新潟県)へ配流ときまった。同じく後鳥羽上皇の皇子、土御門(つちみかど)上皇は、事件に関係がなかったけれど、自ら進んで土佐(高知県)にひっこんでしまった。
3.政子の弟、義時の急死
承久の乱からまる3年後の1224年、執権北条義時が急死した。義時は持病の脚気を病んでいたところへ発作をおこし、いまでいう脚気衝心で死んだというのが公式発表でした。ところが義時は毒殺されたというのです。首謀者は義時の後妻伊賀の方(かた)とその兄伊賀光宗。伊賀の方には義時との間に一男一女がいた。
娘の方が、参議右中将一条実雅(さねまさ)に嫁いでいて、当時20歳の政村(まさむら)という息子がいた。伊賀の方と、兄光宗は、この一条実雅を将軍に、政村(まさむら)を執権にし、幕府の権力を伊賀氏の手中におさめようという野望を抱いていた。
これはまさにかっての政子の父、時政の後妻牧氏の陰謀の再生版です。伊賀の方と兄光宗は、幕府の最有力者、三浦義村(よしむら)を抱き込みにかかった。それを察知した政子は、一人で三浦邸に乗り込み義村を談判、説得し陰謀を未然に防いだ。そして首謀者、伊賀の方と兄光宗を流罪に処した。
この事件解決後、政子は病に倒れた。執権北条泰時を初め鎌倉じゅう大変熱のこもった治癒祈願がおこなわれたという。ついに69歳の生涯をとじた。政子にとってやっと得た安息の日は、死だったのではないでしょうか。
しかもあの世では、夫頼朝に「政子、お前は本当によくがんばってくれた」と涙を流して喜び、しっかりと政子を抱きしめたことでしょう。政子のお墓は、現在鎌倉の源氏山のふもと、寿福寺の岩窟に実朝のお墓と並んでいる。
4.政子陰謀家への反論
政子は鎌倉幕府の実権を政子の実家、北条家ににぎらせるために数々の陰謀を行ったという陰謀家説があります。小説家が、政子を陰謀家と描くのは勝手ですが、歴史家や知識人が政子を陰謀家のように扱うのはいただけないと思います。
史実的には、政子が陰謀家だったということを肯定する史料もなければ否定する史料もないからです。(もっとも私の知る限りではという条件はつきますが)
私は政子を非常に好意的にとらえるのは、承久の乱の時の政子の存在感の大きさです。承久の乱の時、鎌倉幕府の最高責任者は、政子の弟、執権北条義時です。頼朝生存中は、父時政とともに戦場を駆け巡っていますから経歴も文句なし。そして将軍はまだ4歳になったばかりです。
そのことを考えると執権義時が、自邸に首脳陣や御家人たちを集め、義時が皆の前で演説して当然だと思うのです。それが義時自ら首脳陣を引き連れて政子の邸宅に行き、そこで鎌倉中の御家人たちを呼び集め、政子に演説させているのです。いかに政子の鎌倉幕府での存在感が大きかったかの証拠でしょう。政子はそれだけのカリスマ性を備えていたのです。ここでカリスマ性を分かり易く説明するために全く関係のない人物をとりあげてみます。
「経営の神様」と言われた松下幸之助です。ご存知のように幸之助は、戦後直後に一町工場としてスタートしてから一代で世界的なメーカー育てあげた経営者です。幸之助は、ちょっとやそっとでつぶれそうもない大きさの会社にするまでに、恐らく数えきれないほどの艱難辛苦を乗り越えてきたことでしょう。
幸之助と一緒に働く従業員は、苦悩し奮闘する幸之助を実際に見聞きし、幸之助への絶大の信頼を寄せるようになったと思います。そのようにして幸之助はカリスマ性を備えていったと私は解釈しています。
要するにその人のカリスマ性というものは、数多くの試練を乗り越えることによって自然と身につくものだと考えています。
話を元に戻して、政子のことですが、政子も前に振れたように数多くの試練を乗り越えてきました。それもこれも夫頼朝の残した鎌倉幕府安泰のため乗り越えてきたということ、そこには政子の私利私欲なかったことを鎌倉御家人たちが実際に見聞きして知っていたからこそ、政子はカリスマ性を身につけることができたのではないでしょうか。
もし政子が陰謀家だったら、陰謀事件にはかならずうわさがつきまといます。「人の口には戸はたてられない」という言葉があります。御家人たちの政子に対する信頼性が必ず薄らぎます。承久の乱、すなわち朝敵と名指しされ鎌倉幕府存亡の危機に直面したとき、鎌倉中の御家人たちは、政子の演説のもとに一致団結した行動がとれたでしょうか。
このように私は、北条政子という女性を非常に高く評価しているのですが、世間ではあまり知られていません。政子は、男女同権だとか男女平等の考えがなかった800年も前にこれだけの活躍をしているにもかかわらず、現在の女性にも全く感心を持たれていません。なぜか、歴史観が影響しているからです。そのことについては次回のブログに書くことにします。読者の皆さん、北条政子の生き様どう思われますか、私が映画監督なら、北条政子を主演にした映画を絶対に作ります。

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1 Comment »

東埼玉人 より:
2016年7月3日 7:21 AM
えんだんじさんの政子評価に大賛成、感激です。
上皇の院宣であっても間違いは間違い。この中世史のポイント、政子一世一代の大演説の簡潔な要約に敬服します。
この政子にして名執権泰時があり、鎌倉幕府の正統・安泰が確立したと考えます。

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