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アイヌ民族とアメリカインディアン
アメリカという国は、インディアンから土地を奪い、彼らを 僻地に押し込め、黒人を奴隷にしてできあがった国だけに、多少うしろめたい気持ちがあるのでしょう。アメリカは他国の少数民族や原住民族の人権には敏感なところがあります。
数年前アメリカの週刊誌、タイムにオーストラリアの原住民族アボリジンの記事が出ていて、その中でアメリカ人はアメリカインディアンと条約を結んだが、オーストラリア人はアボリジンと何一つ条約を結ばなかったとオーストラリア人を批判していました。
確かにアメリカ人は、インディアンと条約を結びました。結んだ条約の数は400から600と言われています。ところが条約違反が出るのはいつも白人側からであった。その理由はたいがい次の三つが原因でした。
(1)入植者が増えてもっと土地が必要になった時。
(2)インディアンを押し込めた居留地が思ったほど不毛の土地でなく、農地、鉱山その他の確保に欲しくなってインディアンが邪魔になった時。 特に居留地から金や石油がでたらたちまち条約はほごになってしまった。
(3)決められた居留地に大陸横断鉄道が通過することになった時。
だからタイムの記者がアメリカ人は インディアンと条約を結んだなどと自慢げに語ることはできないのです。 多分学校ではインディアンと結んだ条約がその後どうなったのか教えなかったのでしょう。
これも数年前のタイムの記事ですが、アイヌの人々がいかに日本人に差別されてきたか、そしていまなお差別されているかくわしく取り上げ、その中で日本人の観光客が、アイヌ記念博物館に訪れたとき、博物館内を説明するアイヌ人が靴をはき日本語を話すのを聞いてびっくりしていたと書いてありました。
いまどきの日本人は、日本にいるアイヌの人が靴をはき、日本語を話すのはあたりまえと思っています。それを驚くというのは日本人ではないと断言できるくらいです。タイムのアイヌ差別記事は、言外にアメリカ人がインディアンにしたようなことを日本人もアイヌの人にしているではないかという意味が含まれていました。
日本人とアイヌ人、アメリカ人とインディアンは、決して同列に扱えません。一番大きな理由は、日本人とアイヌ人との接触の古さです。日本民族とアイヌ民族は、いつ、どこで最初に接触したのか古すぎて誰も正確なことはわかりません。
古くは4世紀前半ごろ在位したとみられる景行天皇の息子がアイヌ討伐に遠征したという伝承があります。この頃日本はまだ文字があまり普及していなかったと考えられています。 実在のはっきりした天皇でアイヌ征伐に遠征軍を派遣したのは斉明天皇です。西暦658年の時です。いまからおよそ1350年前のことです。
この頃の日本は文字が充分に普及していました。なぜここで文字のことを振れるかというとアイヌは、アメリカインディアンと同じ文字を持たない民族だからです。
日本民族とアイヌ民族の最大の戦争が8世紀末から9世紀初めにかけて行われました。第一回目の日本軍が788年に現在の岩手県を根城にしているアイヌ民族を征伐するために派遣された。 アイヌ軍の総大将ともいうべきアテルイにゲリラ戦に持ち込まれ大敗を喫してすごすごと京都に引き返しています。
第二回目は794年に十万という大遠征軍が派遣されました。この時有名な坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)は副将軍として参加しています。 今度は負け戦ではなかったもののアイヌ軍を降伏させることができなかった。日本政府はすぐに三回目の派遣準備にとりかかり、797年に坂上田村麻呂を征夷大将軍に抜擢しました。
801年彼は天皇により節刀を授与され派遣されました。節刀とは、古代、天皇が出征する将軍に全権を委任するしるしとした刀のことです。 802年ついにアイヌ軍を降伏させることができたのです。彼はアイヌ軍の総大将アテルイを捕虜にして京都に凱旋した。
日本民族とアイヌ民族は、お互い文字を持たない時代から日本列島で接触していたと考えられているのに、なぜこの時代で両民族の大差ができてしまったのか。 その原因は一言で言えば、文明の発達の差です。日本は先の三回の遠征軍で見せたように10万の大軍を派遣できる経済的余力もあれば、その大軍を動かす政治力も組織力もあった。
これは完成された国家があってはじめてできることです。ところがアイヌは、まだ部族どうしばらばらで国家といえる体制ではなかったと言われています。それではなぜ同じ日本列島に存在する両民族に文明度の発達に差が出たのでしょうか。
日本民族は昔から新しい文明に対する進取の気性に富むのに対し、アイヌ民族は、自分たちの生き方にこだわるあまり文明に背を向けたと考えられます。 日本民族は漢字が中国から輸入されると、その漢字を使いこなし、ひらがな、カタカナを作り出していきました。6,7,8世紀は中国の隋、唐の国家の時代です。その当時両国の文化は、日本より圧倒的に高かった。そのため日本政府は莫大な費用をかけて遣隋使と遣唐使を派遣しました。
役人、留学生、僧侶たちが両国の文化、文明を学ぶために派遣されていきました。遣唐使など十数回、総勢500人は派遣されたと言われます。当時の造船技術では、いくら近いとはいえ命がけの面がありました。当時の日本人の気概が伝わってきます。
これに反しアイヌ民族は、彼らと同じように文字を使用しなかった日本民族が文字を使い出し、日本の文明がどんどん発達していくのを横目に身ながらほとんど日本からなにも学ばなかったのではないでしょうか。 それでも先の三回の戦いで善戦できたのも、その時まだ文明にそれほど大きな差がなかったからだと想像できます。
しかしそれ以後は、文明の差どんどん大きくなっていったと思われます。明治の時代になって日本政府は、明治2年(1869)蝦夷地を北海道という名前に変え、本格的に北海道開発にのりだしたのですが、この時代になってもアイヌ民族は、文字を使用していません。
5世紀には日本政府は完全に文字を使いこなしていたと考えられていますから、19世紀に蝦夷地が北海道という名前になるまでおよそ1400年間、アイヌ民族は、文明発達の基礎になる文字の使用ということを日本民族から学びとろうとしなかったのです。 これは全く理解できない不思議な現象で、日本列島という小さな島だけにアイヌ民族の怠慢と言っていいのではないでしょうか。
アイヌ民族は、同じ日本列島に住み、彼らより文明水準の高い日本からほとんど何も学ぶことなく、民族全体で文明の発達に背を向けて1400年間も暮らし続けてきたのではないでしょうか。 そのためアイヌ民族は、結果として自ら滅びる道を選び自然淘汰に近い形で民族の末路を迎えてしまったといえます
この狭い日本列島で大昔にらみあった二つの民族は、一方は貪欲なまでに新しい文明を吸収し、片方は文明の発達をほとんど無視してきたということが、現在の日本人とアイヌ人の差になっていると言えます。
明治の初めに日本政府が北海道開発に乗り出した時、政府は生存するアイヌの人たちを日本人にするための同化策をとりました。 同化策の中には開墾するアイヌ人には住居や農具を支給するから、死者が出た時には家を焼き払って転居しないこと、これからうまれる女の子には入れ墨をしないこと、男子は耳輪をしないこと、日本語を学ぶのはむろん文字も学ぶこと、アイヌの人口の多いい所ではアイヌ人専用の小学校が作られたことなど色々あります。
現在は少数民族の人権が強調される時代ですから、時流に乗り遅れるなとばかりに、この同化策そのものを批判する日本人が多いいのです。 確かに同化策の細部には批判されてもしかたのない面もあります。 例えば開墾地を支給する場合日本人に与える土地の方が広いということなどです。
しかし同化策そのものを私は明治政府を批判する気にはなりません。まず考えなければならないのは、その頃の日本経済です。明治時代全体で言えることは日本の貧しさです。特に明治の初めは、近代国家が出来たばかり明治時代のなかでも特に貧しいと言っていいでしょう。
ましてや未開地の北海道のことです。特に内地からやってきた日本人開拓民など極貧状態のようなものです。 そういうところで少数民族をほったらかしにしておくと多数民族の餌食になってしまうのです。これは北海道だけの話でなく世界共通のことです。だからアイヌ人を保護するために政府の力が必要なのです。
アイヌ人を保護するための政策といったら二つしかありません。一つはアメリカインディアンのように居留地を設けそこに押し込めてしまうことです。二つ目が同化策です。同化政策そのものを人権無視と主張する人は、明治の初めごろ北海道の状況を考えてアイヌ民族を保護するにはどんな現実的な政策があったか提言してもらいたいものです。
現在のような人権意識が過剰とも言える現在の価値観で、人権意識がほとんどなかった明治時代を批判し、裁くことは、現在の価値観で大東亜戦争を裁いているのと全く同じ現象です。日本の左翼の知識人にはこういうバカが多すぎます。
現存するアイヌの人たちには酷な言い方であることを充分承知のうえで、私は言いたいのです。アイヌ民族の祖先の人たちは、すぐれた文明を吸収する努力を完全に怠ってきた。これではアイヌ民族みずから自滅の道をたどる原因を作ったと言えるのではないでしょうか。
アイヌ民族が日本民族と同じようにすぐれた文明をどんよくなまでに吸収していたら、それこそ日本列島の支配権をめぐって熾烈な戦いが続いたでしょうし、ひょっとしたら日本列島は南北二つの国にわかれる可能性すらあったのではないでしょうか。
アイヌ民族は自ら身を滅ぼす原因を作ってしまったと考えられるのに対しアメリカインディアンやオーストラリアのアボリジンは、他の大陸からやってきた白人によって強制的に民族絶滅の危機にさらされ、オーストラリアのタスマニア島のタスマニア人は、皆殺しにあい絶滅されてしまっています。
アメリカ人やオーストラリア人に、アイヌ民族について日本を批判する資格など全然ないのです。
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上記の文章は、今から8年前の2009年3月1日付けの「えんだんじのブログ」に載せた「アイヌ民族とアメリカインディアン」の全文の引用です。えんだんじのブログの左側コラムに年月がずらりと並んでいますが、その中の2009年3月をクリックしてください。そうすると2009年3月1日に「アイヌ民族とアメリカインディアン」が出てきます。ついでにcomments 11をお読みください。ついで2009年3月10日のブログには「アイヌ末裔ふたりのコメント(1)」が出てきます。そのcomments 4 もお読みください。2009年3月18日には「アイヌの末裔二人のコメント(2)」が出てきます。そのcomments 5 もお読みください。
私が「えんだんじのブログ」を書き始めたのはアイヌのブログを書いた前年の2008年10月です。従って当時私のブログの一般読者は非常に少ないはずです。にもかかわらずそれなりのコメントの応答があるのは、私はその時からミクシーの会員だからです。当時ミクシーは、当時日本最大のSNSで、とくに若い会員(20代、30代、40代前半)が非常に多かった。そのためオフ会と称してミクシーの仲間同士が集まる会合がよくありました。私もオフ会をもうけ、私の呼びかけでも4.5人は集まるだろうと予想していました。ところが応募してきたのが14,5人でした。これでは名札が必要だと思い、自分で名札を買って名前を書き込んだのを覚えています。場所は横浜駅西口のルミネのレストラン街にあるレストランに東京、横浜方面から14,5名集合してくれました。会合を開いたのはこの一回だけですが、懐かしい想い出です。集まった14,5名、今ではほとんど全員が、ミクシーを抜けフエイスブックの会員となっています。私は今でもミクシーの会員ですが、フエイスブックに乗っ取られた感じで、今ではミクシーは、過疎地のような感じでさびしい思いをしています。
なぜ私が8年も前のブログをここにもちだしたかというと、「つくる会」の季刊誌、「史」の「つくる会」創立20周年記念号(1月号)の24頁に工芸家、砂澤陣氏が「日本を確実に蝕んでいる、アイヌ政策とアイヌ史」を書いております。また砂澤氏は「北海道が危ない!」という本を育鵬社から出版されています。私の8年も前のブログですが「アイヌ末裔二人のコメント(1)、(2)」と、そのcommentsも参照できますので参考になるかと思い記載させていただきました。