私の祖父、鈴木正忠は私が生まれる3年前の昭和10年に68歳で死んだ。そのため私は祖父に会ったことも話したこともありません。祖父は越後の国、村上藩(新潟県、村上市)の下級武士の一族であった。豊臣政権下1958年に村上氏が当地に入った。1618年に改易になり、譜代、親藩の大名が次々と変わった。江戸時代に内藤家が5万石大名として入り以後9代の内藤家が継ぎ、戊辰戦争で村上藩は悲劇的結末をむかえた。家老の跡継ぎである鳥居三十郎は19歳で家老事務見習いとして江戸の村上藩邸に入っていた。戊辰戦争が始まると村上藩は幕府を助けるべき奧羽越列藩同盟に参加した。しかし新政府軍が接近してくると藩論は、抗戦か帰順かで統一できなかった。帰順派の藩主、内藤信民はこれを苦にして自害。村上藩は大混乱に陥る。この時鳥居三十郎は抗戦派藩士約200名を引き連れ村上を脱出、北の庄内藩に合流した。羽越の国境、鼠ケ関で政府軍との交戦中村上藩の両陣営が相戦う場面が発生している。
戊辰戦争終了後、三十郎は戦犯として東京に送られ、取り調べ後に死罪が言い渡された。やがて処刑のために身柄は村上に送られ、安泰寺に幽閉された。藩内では三十郎の処刑に同情が集まり、村上藩は斬首という政府の命令を無視して安泰寺に切腹の場をもうけ、抗戦派藩士として三十郎とともに戦った山口生四郎が介錯をつとめた。享年29歳。
私が参考文献で「中島欣也、武士道残照(鳥居三十郎と伴百悦の死)恒文社」を読んでいるとき、万が一にも私の曽祖父、鈴木越太郎、そして村上藩の名前を全国的にしてくれた皇太子殿下、雅子妃殿下の小和田家の名前が出てくれるのでないかと期待したが、ダメであった。定年後(平成14年)私は家内を連れて我が先祖の出身地、村上市を訪れた。市役所を訪れたとき、小和田家は剣道指南役の下級武士と書いてあった。
鳥居三十郎の辞世の和歌:
「淡雪と ともに我が身は、消ゆるとも、千代万代に 名をぞ残さ武」
述懐の歌:「去年の秋 去りにし君の あと追うて なかく彼の世に 事うまつらむ」
「五月雨 濡れる我が身は 惜しからず 御恩の深き 君を思えば」
三十郎が切腹したとき若干29歳。妻子、奥方(じゅん)と一人娘光(てる)5歳が残された。二人とも長生きして、母(じゅん)は昭和七年、86歳で、一人娘(てる)は84歳で昭和24年に没した。我が祖父、鈴木正忠は、昭和10年に68歳で死んでいるので、逆算すると三十郎が切腹した時が2歳。私の想像では明治時代以前なら身分制度が厳しくて一介の下級武士が家老の奥方やお嬢様には会うこと難しかったかもしれないが、明治に入って四民平等ということで昭和の時代には、祖父は娘のてるには会えたのではないかと私は想像しています。
鳥居家は家名断絶となったが、明治16年(1883)に家名は再興された。抗戦派の武士、鳥居三十郎だけが切腹し、全責任取ったので生存した抗戦派武士は全員助けられたから、鳥居家の再興は、大いに歓迎された。昭和43年(1963)7月20日には新潟県村上市安泰寺において鳥居三十郎先生100年忌法要が行われています。
ところで戊辰戦争中、政府軍と戦った多くの東北、北陸の武士たちやその子孫たちの多くが日本軍に入隊あるいは警察に入った。我が祖父、正忠は、若い時東京に行って警察官になった。そこで我が祖母、テイは神奈川県秦野市の歯医者の娘、日本赤十字社の看護婦になっていた。当時、東京の日本赤十字社の看護学校出身の看護婦は、看護婦のエリートと言われていた。二人は結婚し、長男、次男、三姉妹を設けた。その長女が私の母です。私が高校生の時、母から我が家は新潟県の村上藩の下級武士の出と初めて聞かされた。その時祖父の遺品、三つの書類が私に渡された。私たちは神奈川県の川崎市に住んでいた。私は4,5歳のころ父の実家の富山県に疎開していた。川崎では両親と私の妹と祖母の四人暮らしだった。祖母は昭和19年4月に59歳で死んだ。これが鈴木家にとって幸いだった。翌年の20年4月4日のB29による最初の空爆、4月15日には最大規模の大空爆を受け、実家と鈴木家の持つ数件の借家は完全に消失した。昭和19年祖母の死、昭和20年の川崎大空襲までおよそ一年間が川崎脱出期間をあたえたのだ。脱出先(群馬県草津市、父親の勤務先、日本鋼管の下請け工場寮)に両親は私の幼児妹一人を連れて逃げ出していた。その時祖父の遺品、書類三つを持ち出すことができたのだ。さもなければ大空襲で消失しまっていたのだ。その意味でこの書類は重要だったのだ。その三つの書類とは、
1.昭和天皇と香淳皇后との若夫婦の家族団らんの集まりの写真です。今上天皇が小学生で写っています。私より年配のかたは、集まった皇族家族全員の名前が言えるでしょう。
2. 大正5年4月22日発行の日本帝国海外旅券
祖父、正忠は46歳の時妻、テイ33歳、長男4歳、次男3歳を引き連れてソ連領、ウラジオストックに出張滞在しているのだ。このパスポートについては「渡韓紀行」の説明が終わった時点で詳細に説明します。
3.「渡韓紀行」
この書類は和紙でできた便箋で一行の間に細い毛筆の崩し字で二行が書かれて非常に読みにくく、母に渡された時は、高校生だったので全然読めませんでした。成人してからたまに取り出してよんでも、全然読めず、タイトルの「渡韓紀行」という字すら読むことができなかった。誰か専門家に解読してもらわなければだめと机の奥深くにしまいこんでいた。ただこの書類の最後の文章は40年3月吉日とかいてあるのは読めた。明治40年3月のことでしょう。この書類のタイトルが「渡韓紀行」と解読してもらったのが、私の定年後です。神奈川県庁を定年退職した人が古文を読む勉強していたので解読してもらったのです。解読分全部もらっていますが、同時に解読者が書いてくれた「解読を終わって」のコメントをくれましたので、その全文を先に紹介します。
「解読を終わって」
引用開始
「明治時代に権力と公安情報を司る地位にいた人の書いた「紀行」であることに、非常な興味と期待をもって解読した。一通り通読をすまして概要を知った私はノメリ込んでしまって、正月の楽しみよりこの解読に熱中して、暮れから朝から夜まで取り掛かり、明けて平静16年1月3日に解読出来た。専門家でないので、完全な解読は不可能でしたが、楷書でなく昔の書体(この人は右肩上がりで丸字)と漢字が不鮮明で崩し字の字画が何画か不明で、辞書で検索出来ないものがありその部分は削除した。100年前の筆記で字が薄くなっているので拡大鏡を使って解決したところもある。相当に学識の高い人の文で、語彙が豊富で、センテンスは文学的で高度な表現力があり驚いた。一般の警察官だったらこのような記録は残すことが出来なかったと思った。旧漢字、旧かな使い、そして官命であったため役人的な高圧な意見も時に表現されているので、そのような部分は安易に解読して読みやすくした。
明治時代公安情報の収集に従事していた国家機関では、最も著名なものは内務省保局で、結社、集会、言論の統制が主であったが、これらの業務は保安課が担当するようになる。明治26年以降新聞、雑誌等の検閲は新設の図書課に移されている。この警察権力のことについて、紀行にも書かれているが神戸市の警察は親切丁寧と言っていて保安警察になっていると復命し、上司から欄外に赤字で「関西と東方とは違う」と書かれている。警官の態度についても「他山の一石」と欄外に書かれている。
原文にそって補足する。
明治39年12月10日から明治40年3月までの約4カ月間の紀行で、出発する12月は寒い季節なので、着る物も合わせ着で身体を保温して出かけたようだ。神戸に着いてから本番の具体的に復命が始まっている。
漢文調と旧漢字と自作の漢字
(例)音に名高い → 昔から有名な
観覧 → 観光 状境 → 状況 陰混 → 混雑 周壁 → 壁
欠喚 → 欠陥 紀裂 → 亀裂 軒打堤 → 提灯 保度 → 保護
意気傷沈 → 意気消沈 懇談 → 相談または話し合い
醜業婦 → 淫売婦 寒国 → 韓国 須丁明石 → 周防明石
翠巒 → 青青とした山の峰 熨(のし)のような → 布をのばしたような
等、明治調の語句が多くみられた。
嗚呼という語の後は、必ず本人自身の率直な意見として、苦言、苦情、悔しさ、または褒め言葉が一節に纏めている。石井氏、後藤氏、橋詰氏と本人の4人が親友で共に苦楽を経験して、忘れることの出来ない旅行をした (荒れ狂うアラシの中で、一時は生死の世界をさまよった)ことを、後の子供に語り伝えるための「貴重な思い出の記」であったと思う。
平静16年1月4日 千葉昭」引用終了
私が高校生の時母から渡された祖父の原稿のタイトルが、平静16年にして「渡韓紀行」であることが初めてわかったのです。千葉氏が解読分を提出してくれた時、私は「えんだんじのブログ」を作成していませんでした。3,4年前に千葉氏が癌で亡くなられました。この時千葉氏の解読分を思い出し、私のブログに書こうとしましたが、大事な書類で机の奥にしまったまま忘れてしまいました。今年の夏、私は80歳になり、大事な忘れ物をしていないか机の奥を調べたらこの書類が出てきました。すっかり公開するのが遅れてしまいましたが、そのぶん新潟県村上市のことをよく知ることができました、定年後私は家内を連れて我が先祖の墓参りをしました。万福寺です。母も叔母(妹ふたり)実に立派なお寺だと言っていましたが。文字どおり素晴らしいお寺で特に庭が大変立派でした。下級武士の先祖のお墓として立派すぎるのではと言うのが私の見解です。祖父はこのお墓を小田原市に移したのですが、新幹線や飛行機のない時代、村上市で仏の供養するのが大変だったからと思います。
「武士道残照」という小説も私が元々知っていた本ではなく偶然ネットで知ったのです。出版は1990年8月で私のために出版してくれたような本で、このブログのために利用させてもらいました。
この文章のタイトル、最初から「渡韓紀行」と書いてあるのですが、細筆のくずし字で書いてあるので、誰も読めなかったのです。文章も崩し字で内容が何を書いてあるのか推測もつ
きませんでした。ただ最後のページでこの文章を書いた日付が「40年3月」と最初から読めましたので「渡韓紀行」の背景が浮かび上がってきたのです。日本政府は明治43年に韓国を併合、韓国の国号を朝鮮にあらためました。韓国併合といえば、朝鮮半島全体に日本人警察官を配置しなければなりません。文章ではそのことにも当然触れています。「渡韓紀行」は、明治40年当時の神奈川県県警の一警察官、鈴木正忠(私の祖父)が実際韓国に渡って書いた紀行文です。原稿は、冒頭右はしの上に大きな赤っぽい、橙色字で大きく「知事」と書かれており、右側左下には「石田」、「細川」ら数人の同僚の三文判が押されています。次回のえんだんじのブログでは、解読文全文を公開しますのでぜひ読んで見てください。