保守言論界の大御所ともいうべき西尾幹二氏が主宰する会に坦々塾という勉強会があります。この会には錚錚たるメンバーが多く、現在大活躍されている評論家、宮崎正弘氏、「新しい歴史教科書を作る会」副会長で高知大学名誉教授の福地惇氏を初め現役の大学教授や元大学教授、元大使や、元自衛官幹部など高級官僚、すばらしい経歴を持つ現役者や定年退職者、若い人では現役の大学院生など非常に幅ひろい分野の人々がこの坦々塾を構成しています。私はこの会の文字通り末席を汚しております。坦々塾の勉強会は、三ヶ月ごとに開かれ、先々週の土曜日(6月6日)に第14回の坦々塾の勉強会が開かれました。
その日私は、塾長の西尾幹二先生、ゲスト講演者の石平先生に混じって講演をいたしました。三人合計の講演時間4時間半。勿論講演の前座は私が勤めました。私の演題は、私が昨年三月に出版した「逆境に生きた日本人」です。坦々塾が開かれる前に会の事務局から西尾先生の手紙がメールで各会員に転送されてきます。その手紙の中で「逆境に生きた日本人」について西尾先生は、こう書いてくれました。
「坦々塾のメンバーのお一人である鈴木敏明氏の「逆境に生きた日本人」は大変な力作で、かねて感服して拝読してきました。日本人の社会集団特有の政治権力に対する弱さ、曖昧さ、卑怯な自己変更がテーマです。
鈴木氏は日本の戦後の屈服、アメリカにおける日本人強制収容所の二世のアイデンティーの危機、シベリア捕虜強制収容所内の日本人の自我の弱さからくる悲喜劇、そしていわゆる「自虐史観」は日本民族の資質が生んだ生得の欠陥である所以を説いておられます。
鈴木氏の労作は日本人が見たくない苦い真実を次々と暴いていきます。もういい、これ以上知りたくないと思うくらいリアルな心の現実を見せつけてくれます。日本人というものをどう考えたらよいかという哲学的な反省をわれわれに迫る書です。今回はこの本のテーマに触れ私も思うところを語ってみたいと考えています。
加えてもとよりのこと、鈴木氏ご自身にも同主題について一席のご講和を寄せていただきたいと願っております。」
私の講演後、西尾先生が私の講演内容を引き継ぐ形で、演題「複眼の必要――日本人への絶望に踏まえて」を基に講演、最後に当日のゲスト講演者は、石平先生が演題「中国の崩壊と日本の備え」を基に講演をいたしました。三者の講演の概略に関しては、坦々塾の名の下にブログを開きますと、会員参加者の感想文が記載されておりますので、それを参照していただければと思っております。
講演会後は懇親会、懇親会後は二次会でカラオケでした。西尾先生の歌の特徴は、高音です。年寄りなら誰でも知っている「イヨマンテの夜」を声量たっぷり歌いこんでいました。先生は私より三歳上の先輩です。年をとると声量が弱くなるのですが、あの声量を聞くとまだまだ西尾先生は元気です。石平先生もジェスチャーたっぷりの歌いぶり、歌好きであることは間違いない。
この坦々塾のメンバーは、全員で60名ぐらいです。この会の特徴は、会員の紹介で会員になった人はほとんどいません。西尾先生がなんらかの関係で自ら引っ張ってきて会員にさせているからです。皆さんそれを光栄に思って入会してくるだけに熱心な西尾幹二ファンであり熱心な西尾幹二支持者です。私が坦々塾に入会するきっかけになったのが、私の大作、「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の縁です。
私はこの大作を自費出版したのは5年前の平成16年7月でした。驚いたことに出版3ヶ月後の10月に千葉県のある保守の団体が私に講演依頼してきたのです。その他いままで一面識もない方からの手紙や葉書の投稿をいただきました。皆さん絶賛してくれたのです。初めて私は自分の本の内容に自信を持ちました。それ以来本の宣伝のために西村慎吾氏のような政治家や著名な知識人には機会がある度に贈呈してきました。
西尾先生は、「新しい歴史教科書を作る会」の創立者の一人であり会長でした。私が「新しい歴史教科書を作る会」に入会した時には、西尾先生は会長職を退かれていました。私は「作る会」の総会に出席しました。総会後に懇親会が開かれます。西尾先生が参加されているのを知りました。なんとか名刺交換してから本を贈呈したいと思っていました。しかし西尾先生は保守言論界では超有名人、いつも誰かと話していて話かけるチャンスがありませんでした。次の年にも総会に出席し、西尾先生のお顔を見ることができましたが、話しかけるチャンスがありませんでした。
一方この本の出版社、碧天社が平成18年3月に破産してしまいました。在庫400冊あまり自分で引き取りました。それでも機会あるごとに知識人にこの本を贈呈してきました。
例えば、講演を聴きに行き、講演後名刺を交換、後で本を郵送したりしていました。
一昨年の「新しい歴史教科書を作る会」の総会にも私は参加しました。総会に連続参加して三回目だったと思います。この時も西尾先生は懇親会に参加していました。立食パーティーの宴もたけなわの頃、料理が並べてあるテーブルには誰もいません。そこへ西尾先生が料理を取りに一人でのこのこ近づいて行くのを見た私は、この時とばかり挨拶を交わしました。「私は西尾先生の読書ファンで先生の本を沢山読んでいます。自分かってに先生は私の師であると思っています。実は、私はこういう本を書いたのです」と言って名刺を見せました。すると先生は自分の名刺を取り出して、「それでは私の所へ郵送してください」と言ってくれたのです。
それから三ヶ月ぐらい経っていたと思います。西尾先生から電話があったのです。西尾先生に自分の本を贈呈したのをほとんど忘れかけていましたから私はほんとうにびっくりしました。「あなたはすばらしい本を書かれましたね。あなたは、私の読んでない本まで読んでおられるので私は勉強させてもらっています。」先生が発したこの最初の言葉だけははっきり覚えています。私はどう返事したのかまったく覚えていません。電話の最後の方で「実は私は坦々塾という勉強会を開いているが、よかったら参加しませんか」という話があり、喜んで受けさせていただいたわけです。
電話が終わった後、私は「やったー」と叫びました。私は沢山の著名人に本を贈呈してきました。代議士の西村慎悟氏のように葉書で礼状をくれた方はまだいい方です。ほとんどの人がうんともすんとも音沙汰なしです。西尾先生だけが、私の大作を読み、評価してくれたのです。その上私が先生に直接言ったように、先生の本の愛読者であり、大学教育を受けていない私には、先生は私の師である思っていましたから、その先生からの評価ですから、喜びが二重になったのは理解していただけるかと思います。なぜ「我が師」なのか、その理由は、先生の本の話しになり長くなるのでここでは省かせていただきます。
西尾先生の若い頃を少し紹介しましょう。先生は東大時代、大江健三郎と同級生です。先生は東大文学部の独文科、大江は東大文学部の仏文科、二人とも大変な秀才だったと聞いています。私の年代で若い時の最大ニュースは、昭和35年(1960)の日米安保条約改定の大反対運動でしょう。大学生、大学の先生、労働組合、日教組、マスコミなどが反米親ソの左翼の集団と化した。30万人のデモが国会議事堂周辺に集まったのだ。私はその時22歳で働いていました。先生は25歳、東大大学院を卒業しているかいないかの頃でしょう。
現在、保守の論陣を張る知識人の多くは、この時左翼化していたり、デモに積極的に参加していた人は多いい。名著「ローマ人の物語」を書いた塩野七生。彼女はなにがなんだかよくわからなかったけど夢中になってデモに参加していたと言う。彼女の正直な気持ちでしょう。学生たちは、よく理解もできずに、ムードに乗って参加していたのではないでしょうか。
西部すすむ(漢字変換ならず)氏は、悪名高き全学連の執行役員でした。新しい歴史教科書を作る会の会長、藤岡信勝は共産党員だった。
この時期、西尾先生が属する東大自身が左翼の巣靴となり、学生も先生たちも西尾先生の同僚も左翼化、その中で保守の孤高を貫くのは大変だったと思います。皆に軽蔑されたり、からかわれたりいやな目にあっているでしょう。西尾先生は最後まで保守の孤高をつらぬき、左翼の考えや行動を批判してきた。
昨年の坦々塾の会合の時、先生は、先生が29歳の時、ある雑誌に載せて新人賞を受賞した論文のコピーを会員一人ひとりにくばりました。論文のタイトルは、「私の『戦後』観」。現在私が読んでも納得のいく論文内容です。しかし先生は言った、「私はこの論文で東大文学部教授への道を棒に振った」。東大と先生では歴史観が違うのです。
上記の二つの件でわかるように西尾先生は、時流や時勢に媚びず、権威にも媚びず自分の信念を押し通す人だと理解できるでしょう。実はこういうタイプの知識人は、日本では非常に少ない。それどころか日本の知識人は、自ら率先して時勢、時流、権威、権力に媚びるのです。(私のブログ記事「日本の知識人は、バカやアホが多いい」を参照)
実は私はしがない一定年サラリーマンですが、私も信念を貫いて生きてきたと自負していますので西尾先生とは共通したところがあると自分では思っています。
最後にいままで私は自分のブログに私の著書を、(著書と言ってもわずか四冊ですが)宣伝したことありません。そこで本日は私の著書の宣伝をさせていただきます。
1.「ある凡人の自叙伝」 自費出版図書館編集室 平成11年出版
私は定年サラリーマンでも非常に波乱万丈の人生をおくってきました。功成りとげた定年サラリーマンの自分史は、自慢話が多くてまったくおもしろくありません。私の赤裸々な波乱万丈の人生の話なら面白いだろうと書いて見ました。定年直前の私は、窓際族みたいなもの、定年前から会社内のパソコンを利用して書いていました。平成11年の8月末に定年になりましたが、その年の12月には出版していました。100部の限定出版。友人、知人、身内に配りました。大好評でした。
出版から8年後の平成19年に出版社、飛鳥新社から電話がかかってきました。飛鳥新社で出版している中高年男性用の月刊誌、「dankai パンチ」12月号(週刊誌サイズ)に特集で「自分史の書き方」を出す。参考に自分史三冊をとりあげて記事にする。その一冊に私の「ある凡人の自叙伝」が選ばれた。だから出版社に来てインタビュイーと写真を撮らせてくれとの要求でした。
「ある凡人の自叙伝」は自費出版図書館編集室から出版されています。館長の伊藤氏は、自費出版図書館を経営し、その図書館には全国で自費出版された本、二万冊の蔵書があります。その伊藤氏が出版社、飛鳥新社に面白そうな本を数冊推薦したそうです。その中の一冊に私の「ある凡人の自叙伝」が含まれていたのです。私はなんとか90歳まで生きて、定年後の30年間の生き様を加えて「ある凡人の自叙伝」を完結するつもりでいます。
2.「大東亜戦争は、アメリカが悪い」 碧天社 平成16年出版
私の定年後の人生の進路を決定づけた本になりました。大型サイズA5版 735頁の大作です。碧天社と自費出版契約を結びました。契約の要点は次の三つです。
(1) 初版千部出版、その出版費用250万円、著者全額負担。
(2) 初版千部以上、5万部売れようが100万部売れようが出版費用はすべて出版社負担。
(3) 印税は定価の8パーセント。本代は一冊1500円。
本屋の店頭に置いてもらうため私は、東京、神奈川の首都圏の大型書店に飛び込みセールを始ました。この本、予想外に売れました。初版千部半年で売り切れ、次の千部も半年で売り切れ、三版目の千部を出版後まもなく破産。在庫400部あまり全部私が引き取りました。現在横浜の有隣堂と著者との直接販売(直版取引)をしております。
3.「原爆正当化のアメリカと『従軍慰安婦』謝罪の日本」 展転社 平成18年出版
アメリカ政府の原爆投下正当化は、史実に基づかない全くのうそ。国益を守り抜くためにアメリカ政府は徹底してうそを押し通してきます。一方「従軍慰安婦」事件は史実ではありません。ところが日本政府は、韓国との外交交渉で一時的妥結をはかるために「従軍慰安婦」事件を公認し、謝罪し、お金まで払うバカバカしさ。日本政府自ら国家の名誉と誇りを平然と傷つけた。所謂、河野談話の責任者の河野洋平は、衆議院議員議長に栄転。日本国民全体が怒りを示さないこの異常さ。日本という国の末期現象の一つです。本代は、2000円です。
4.「逆境に生きた日本人」 展転社 平成20年出版
私は大東亜戦争を徹底的に調べ上げて「大東亜戦争は、アメリカが悪い」を6年間かけて書きました。それだけになぜ自虐史観がいまだに主流なのか全く腑に落ちません。アメリカ占領軍が日本に駐留していた七年あまりはしょうがないとしても、独立を回復してもう半世紀以上経っているのです。それでも自虐史観が主流ということは、日本民族の資質に関係があるのではないかと考え調査しました。その結果、自虐史観とは、日本民族の資質が生んだ歴史観という結論に達したのです。本の帯には西尾先生の推薦文を印刷して売っております。本代は2000円です。
「逆境に生きた日本人」と「原爆正当化のアメリカと『従軍慰安婦』謝罪の日本」は、本屋さんに置いてなくても本屋さんに注文していただければ全国どこの本屋さんでも手にはいります。「大東亜戦争は、アメリカが悪い」は、まだ在庫がありますので、住所を教えていただければ実費1500円郵送代込で送ります。本到着後指定の銀行に1500円をお振込みください。