私はあと一月ほどで満71歳になります。満61歳の誕生月に定年になっていますから、定年からちょうど10年たったことになります。この10年間に四冊の本を出版、そのうちの一冊は大作です。現在、毎週日曜日にブログを更新して8ヶ月目。要するに定年後の生活は、執筆活動を中心にしておくっているわけです。このような執筆活動中心の生活をおくるなど現役時代に予想するどころか夢想すらしなかった生活です。私自身、自分で自分の現在の姿を全く信じられない気持ちで眺めています。
なぜなら私は高校卒業まで作文が好きだったわけでもなく、ましてや自分の作文が先生にほめられたことなどありません。高校卒業後すぐ社会人として働きだしたわけですが、それから定年直前まで日本語の文章などほとんど書いたことがないのです。日記すら生まれてから現在まで書いたことがありません。ガールフレンドに手紙ぐらい書いているのでしょうが全く記憶にありません。忘れてしまっているのでしょう。それくらい文章など書いたことがない男なのです。
私が21、2歳の時、ひょんなことで外資系の会社に就職、以来外資系五社をわたり歩いてほぼ40年です。色々な仕事につきましたが、営業畑が多かった。営業報告書、出張報告書、取引先と重要な会議をやればその議事録など、いわゆるビジネスレポートを書く必要があります。外資系のためそれらビジネスレポートは全部英文で書くことが当時絶対条件でした。
従って日本文を書くどころか何十年間にわたって英文のレポートばかり出していたから、漢字の綴りを忘れるのがはげしくて悩んでいたくらいです。なにしろ漢字を書くのは、年末の年賀状書きだけぐらいという状態でした。現在のようにパソコンでもあれば日本語の文章をネット上にちょくちょく書くという経験もするでしょう。しかし私の若い時代にはパソコンなんかありません、本当に仕事で日本語の文章を書く機会がなかった。新聞や雑誌へ投書もしたことがありません。
西尾幹二先生にこのことを話すと、「若い時から沢山書いていたから、文章が上手に書けるようになった人もいるし、若い時いくら沢山書いても上手にならない人もいる。全然書いたこと無くても書き出したらすばらしい文章を書く人いる。文章力というのはそういうものだ」
沢山読書しているからと言って立派な文章が書けるわけでもないことから言っても、立派な文章を書くにはなにか得体のしれない感性が必要なのかもしれません。私自身は、自分には文才などなにもないと思っていたし、またそれだからこそ新聞や雑誌に投稿しようとする意志すらなかったのでしょう。
そういう私がなぜ定年後に書き出したか。その理由は私の怒りです。社会的怒りとか社会的義憤と言ってもいいかもしれません。私は怒りを人一倍感じる方です。だから正義感が人一倍強い。若い時は、目の前で不埒なことをしていると黙って見ていられない。そのためたまに外で他人とケンカ腰になります。私は腕には自信がありません。しかし足が速いのが自慢です。いざけんかとなったら先に男の急所を蹴り上げて逃げる。これを絶えず頭にぶちこんでいれば、自然と体が反応して相手の急所を先に蹴り上げるはずだ。そう自分にいいきかせていました。だから不埒な男に文句を言う時は、「先に急所を蹴り上げる」を自分の頭に呼び起こしておいて、相手を脅かすために、いきなり相手を威圧する言葉を切り出していました。幸い大喧嘩になることはありませんでした。
私は定年間際になにに怒りを感じて本を書き出したか。それは「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の前書きにも書きましたが、定年間際、定年後は何をしようかと考えあぐねている時に、当時東京教育大学名誉教授、家永三郎が書いた「太平洋戦争」を読んだからです。家永はこのころかなりの有名人になっていました。長年にわたって文部省と裁判沙汰を起こし、「教科書裁判」と呼ばれていました。長期にわたって裁判争いできたのは、日教組の資金援助があったからです。朝日新聞は家永を権力に挑戦する英雄のように扱っていました。
家永の「太平洋戦争」を読んで驚愕しました。これが日本で著名な歴史家が書いた大東亜戦争か。戦争するには相手国が必要だ。その国との外交的関わりがあります。それにもかかわらず徹底した日本批判です。家永が戦前は、自虐史観とは全く別の皇国史観を生徒に教えていたのです。家永の教科書の弱点や人間性の欠陥は、秦郁彦氏の著「現代史の争点」で指摘されています。家永は日本の歴史家の中でも外国で最も知られている歴史家です。彼の「太平洋戦争」が英語に翻訳されているし、文部省相手に長年裁判で戦っていることが海外にも伝わっているからです。家永は、ノーベル平和賞の候補の一人に推薦されていました。
家永は、勝利国の人たちを満足させる太平洋戦争史観を書いただけなのです。こんな歴史家を英雄のように扱ってたまるかという怒りがわいたのです。一介の定年サラリーマンが家永のような著名な歴史家の歴史観に挑戦するのも悪くないだろうと考えて書き出したのです。その時期私は自分史「ある凡人の自叙伝」を自費出版していました。それだからと言って自分に文才などあるなどとは思っていませんでした。内容は自分の思い出を書くだけだし、第一自分史を書いた人などくさるほどいるからです。
自分の大東亜戦争史を書き出して、自分には手におえないものとわかれば書くのを辞めればいいだけです。確かに書いている途中、自分の能力以上のものに手をだしているのではないかと思ったこともありました。また途中自律神経失調症にもなりました。夜中に二度、三度とパジャマがびっしょりなるくらい寝汗を書くのです。心配になって病院で色々検査しても異常なし。医者がなにかストレスがかかっているものないかと聞くから、本を書いていますと答えました。多少ゆきづまっている箇所もある、それがストレスになっているかもしれないとも言いました。医者はそれだ。ストレスが原因だと言いました。ストレスとわかったらあっさり直ってしまいました。結局、本完成までに6年かかりました。
本のタイトルは、「大東亜戦争は、アメリカが悪い」と決めました。出版して一年ぐらい経った頃には、一面識もない人から手紙や葉書で絶賛、友人や知人からの絶賛もありました。改めて自分で自分の大作の本を眺め、「よくこんな大作が書けたものだと」自分でびっくりしていると同時に「俺にも文才が少しはあるのだ」と初めて自分の文才というものを意識しました。それから立て続けに二冊の本を出版しました。ここで初めて、私の文才がすばらしいものか、あるいはたいしたものではないかもしれないが、とにかく私には文才があると認識したのです。
ところが先週のブログに書いた坦々塾の会合の時、西尾幹二先生は私にこう言ったのです。
「あなたのこれまでの本は、他人の書いた本や史料を読み漁ってまとめたものでしょう。これから自分の世界を書きなさい。ノンフイクションでもなんでもいいから自分の世界を書きなさい。そうすれば、あなたの筆力にはすばらしいものがあるから、すぐに何か賞が取れますよ。なにか賞一つでもとれば文筆業もやりやすくなりますよ」
西尾先生は子どもの時から日記を書いています。そして大変な数の著作があります。その西尾先生が、「あなたの筆力はすばらし、あなたの世界を書きなさい」と言ってくださるのだ。ふりかえれば私は自分にはなにも才能などというものはない、ただ「負けてたまるか」というすさまじいばかりのハングリー精神だけを頼りに生きてきただけです。外資系五社渡り歩いたせいもあるのでしょう、私には愛社精神のつめの垢ほどもない、仕事など誇りに思ったこともなければ、生きがいに感じたこともありません。ただ与えられた仕事ができただけ、高給さえとれればそれでよかったのだ。ただただ家族を養う生活のための仕事だったのです。それが定年数年後になって初めて自分にも得意とする分野の仕事があったのだと悟ったのです。
私の同僚にはこういう例がありました。私が48歳の時、勤めていた外資系会社が希望退職を募った。私はそれに応じて退職した。私の同僚の女性、その時彼女は私より一回り下の36歳だった。彼女の仕事は、外人ボスの秘書。英文速記をとれるから英語には強かったし、仕事ぶりもすばらしかった。彼女は、しばらく子育てに専念すると言って希望退職に応じて退職した。その後40歳過ぎてから職探ししたが、自分の希望する仕事が見つからず、だからと言って就職しないわけにもいかず、こんな仕事でもできるだろうと思って就職した会社が保険会社。生命保険を売る仕事をしたのです。
生命保険のセールスが彼女に最適の仕事だったのだ。彼女もこんな仕事が自分に適しているなんて夢にも思わなかった、とにかく秘書だった時よりはるかにやりがいがあると言うのです。その後彼女は数年にして営業セールスレデイーの最高責任者になっていました。
彼女は秘書という仕事に満足していて、自分に適した仕事だと思っていたのです。ところが希望退職に応じて、転職したところ彼女は、秘書以上に生きがいのある仕事を見つけたのです。
私は定年後。自分に文才のあるのを発見したことになります。しかしよく考えてみると実に恐い話です。定年間際に家永三郎の書いた「太平洋戦争」を読まなかったら、私は本を書く決意をしたでしょうか、あるいはこの本をもっと若い時、例えば50歳ぐらいの時に読んでいたら、定年になったら書いてやろうと思ったでしょうか。たまたまタイミングよく定年後に何をしようか悩んでいた時に読んだからこそ本を書く気になったのだ。要するに私は、自分に文才があるのを気づかずに老いて死んでいく可能性も非常に高かったわけです。それだから恐い話だというのです。こう考えると昔のことを思いだしてしまいます。
私は若い時、女性にもてた。(年寄りの自慢話として理解してください)私の40歳前後は、仕事の延長で銀座、赤坂、六本木のクラブやスナックを出入りしていました。普段もてる男が、ホステスさんたちの常連客になったのです。そのもてぶりを想像してみてください。ある年バレンタインデイがやってくるとあちこちのホステスから義理チョコが沢山送られてきて会社の評判になったことがあった。チョコレートの包みをあけると彼女たちからの、短い手紙、長い手紙、きれいなメモ用紙に書いた簡潔だが意味深なメモ、こういう手紙類を読むのは楽しいものだ。すべて本音が書いてあると思うほどうぶではなかったが、なにしろ気分を害することなどなにも書いていないのだ、気分が悪くなるわけがない。
この頃私はどんなにホステスと仲良くなっても一線を越えてはならないと堅く決心していました。彼女たちと遊ぶと大変なお金がかかる事も知っていたし、自分は貧乏人の出だ、さいわい貯金も少しできてきた。高給もとっていた。しかしここでお金を浪費しては、いままでの苦労が水の泡になる。この頃の私の自己管理能力は抜群でした。私があまり酒を飲めなかったのも幸いした。酒が原因の失敗談がなかった。「据え膳食わぬは男の恥」というが、恥をしのんで逃げ出したこともあった。あの時私が自分用の特別の彼女を作って遊んでいたらいまの生活はない。定年前に借金をすべて返済できず、定年になっても働く先をみつけねばなりません。自費出版どころか執筆活動もできず、私は自分に文才のあることも知らずに年老いて死んでいったかもしれないのだ。人生とはわからないものだ。
西尾先生が語ってくれた「あなたの世界を書きなさい、あなたの筆力にはすばらしいものがある」、この言葉は本当にうれしいかぎりです。71歳にしてまだ夢が描け、それにむけて邁進できるのだ。いずれそのうちに書くテーマを決め私の世界を書こう。「俺はやってやる」