チェロキー族の「涙の道」(The Trail of Tears)
欧米白人がアメリカ大陸に進出以来、数多くのアメリカインディアン部族が武力抵抗を試みてきた。1890年(明治23年)12月29日サウス・ダコダ州のインディアン居留地、ウーンディッド・ニーで武装したスー族の一部が、アメリカ第七騎兵隊に包囲され、武装解除して降伏した。ところが、どこからともなく出た一発の銃声をきっかけに虐殺が始まったのだ。犠牲者約300人、そのうち女、子供は約200人。これが最後のアメリカとアメリカインディアンの武力衝突になった。これ以後アメリカインディアンの武力抵抗はなくなってしまった。アメリカ軍によって完全に武力制圧されたのです。アメリカという独立国ができてから115年後のことであった。アメリカインディアン各部族の悲劇の物語は色々な本に色々書かれていますが、私が一番胸を打たれるのはチェロキー族の悲劇です。
チェロキー族は、現在のジョージア州とアラバマ州を根城にする部族でした。チェロキー族も最初のうちはアメリカ人に武力抵抗をした。しかし決して勝つことのない戦いで広大な土地を失っていった。そこでチェロキー族は武力抵抗をやめ、アメリカ文明を学び、実践していったのです。
まず1820年前後にチェロキー国家、即ち独自の政府を設立したのだ。1820年代のチェロキー国の発展にすさまじいものがあります。セコイアという一人のチェロキー人がアルファベッドに似たチェロキー文字を作り出したのです。1825年新約聖書のチェロキー語訳完成。さらに1827年英語、チェロキー語を使用して成文化された憲法を制定、1828年には英語とチェロキー語を併載する週刊新聞「チェロキー・フェニックス」を発刊したのだ。その社説には次のような事が誇らかに述べられていた。
「わが国の法律、公文書及びチェロキー人民の福祉状況に関係ある事柄は、忠実に英語とチェロキー語両語で出版されるだろう。」
このチェロキー国の発展の影にモラビア教団の宣教師たちの活躍があったのです。しかしジョージア州当局はチェロキー国の発展を望まず、政府に働きかけてチェロキー族を一掃しようとします。また州当局はチェロキー族の土地の買収を企てます。チェロキー国は、個人の土地売買を禁止し、もし違反の場合死刑という法律を作って抵抗します。チェロキー一族の団結は固いとみた州当局は、いくつかの嫌がらせをするのですが、そのうちの一つが「チェロキーランド宝くじ」です。この宝くじの内容を簡単に言えば、私の住所が、かりに1-2-3としますと、この番号をひいた白人は私の住んでいる土地と家がその白人のものになるというのです。実にたちの悪いいやがらせです。
1892年ジャクソン大統領は、国会施政演説でジョージア、アラバマ州内のチェロキー族の独立国家を認めず、彼ら全部をミシシッピー川以西の地に移す法案を提出することを発表した。1830年にはジャクソン大統領提案の「インディアン強制移住法」が可決成立してしまった。そして運悪く1830年代にチェロキー国内で有望な金山が発見された。
そしてとうとう1838年5月23日が、チェロキー国、全国民のオクラホマ居留地移住の日と決められ、ジャクソン大統領の署名がなされた。その移住日にまにあわせるために合衆国政府は、急造の強制収容所を作りチェロキー族を押し込めた。ところが実際の本格的移住はその年の秋ごろになってしまった。すなわちおよそ半年間強制収容所に押し込まれた生活をよぎなくされた。合計およそ16、000人のチェロキー族をオクラホマ州に設置された居留地に強制移住させるには、膨大な費用がかかりますが、その費用はすべて政府が持ち、実際の運送は入札に参加した業者にやらせたのです。業者は政府からおりるお金をすこしでもピンハネするために毛布の枚数、食料の量、幌馬車の数など減らすことのできるものはあらゆるものが減らされた。オクラホマの居留地およそ1300キロ、道中は難渋をきわめた。食料不足による栄養失調、冬の寒さ、コレラや天然痘など伝染病などで次々病人や死者が出た。死者が出たところで埋葬のために行進は止まることはなかったのです。死者はその場で捨てられました。運送業者は、チェロキー族の死を歓迎した。一人でも死ねば、その分費用がうくからです。目的地に到着した時、正確な死者の数はわかりませんが4,000人と言われています。4人に一人が死んだのだ。このチェロキー族の強制移住を「涙の道」(The Trail of Tears)と呼ばれています。
1838年12月、まだチェロキー族の飢えと寒さと疲労の長い嗚咽の列がオクラホマに向かっている時、ワシントンの国会では大統領、ヴァン・ビューレンが白々しい報告を行っていた。
「私はここに国会に対し、チェロキー・ネイションの、ミシシッピーの西の彼らの新しい土地への移住の完了を報告することに、心から喜びを感ずるものであります。さきに国会において承認決定されました諸方策は、もっともな幸福な結果をもたらしました。現地の米軍司令官とチェロキーとの間の了解に基づいて、移住はもっぱら彼ら自身の指導のもとに行われ、チェロキー達はいささかのためらいを示すこともなく移住をいたしました。」
これはアメリカの大統領は、議会でもうそ、でたらめを平気で語ることの証明です。
アメリカ政府は、およそ20,000人にも満たない小国すら認めようとしなかったのです。チョロキー族は、自分たちの文字を作り、英語を学び、アメリカ政府と協調するためにあらゆる努力をしたがむくわれることはなかったのです。なぜか?それはインディアンが有色人種であり異教徒だからです。アメリカ政府が有色人種であり異教徒である人たちを対等に扱いはじめたのは1960年代に入ってからです。
このチェロキー族の悲劇「涙の道」(The Trail of Tears)の物語は、一般のアメリカ人の間では常識にはなっていません、しかし大東亜戦争時の「バターン死の行進」は、日本軍の残虐行為としてアメリカ人の常識のように知られています。「バターン死の行進」とは、フイリピンのバターン半島の戦場でアメリカ兵とフイリピン兵、合計7万6千人が捕虜となり、鉄道のあるサンフェルナンドまで90キロを夏の炎天下に歩かされたので多数の死者が出た事件のことです。1970年制作のアメリカ映画に「フラップ」という作品があります。この映画は1971年に日本で「最後のインディアン」で上映されています。私の年代ならおそらく誰もが知っているメキシコ系アメリカ人俳優、アンソニー・クィンがアメリカ兵として第二次大戦従軍の経験があるアメリカインディアン役を演じています。その映画のセリフのなかで彼がこう語っている場面がある。
「(チェロキー族の)「涙の道」に比べりゃ、バターン死の行進なんざぁ、そんじょそこらのピクニックみてぇなもんだ。」
それそうでしょう。夏の炎天下に歩かされた距離がおよそ90キロ、捕虜の米比兵は
手ぶらで歩き、護衛する日本兵は、20キロの完全装備で歩くのだから日本兵は苦しい行軍をしいられ、日本兵にも犠牲者も出たほどだ。当時日本軍にとってトラックは貴重品で捕虜何万人も載せるトラックなどなかったのだ。それがチェロキー族にいたってはオクラホマ州居留地まで健常者は1300キロも歩かされているのだ。まさしく90キロの「バターン死の行進」がピクニックに見えるわけです。
このチェロキーの「涙の道」(The Trail of Tears)は、拙著「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の第六章アメリカの侵略主義、第一節インディアンとの戦争(136頁)からの抜粋です。この本が出版されたのが2004年ですが、当時「フラップ」というアメリカ映画で、アメリカインディアン役のアンソニー・クィンの台詞は承知していたのですが、日本でどういう題名で上映されたのか、全くわからなかった。現在では「最後のインディアン」という題名で上映されたのもわかるし、映画の内容も知ることもできます。10年以上前とはネットのウイキペディアもずっと進歩しているのですね。