保守の皆さん、憲法改正はいけません。(1)

このブログの転載、拡散をよろしくお願いいたします。
大東亜戦争敗戦後、1947年(昭和20)9月からアメリカ占領軍(GHQ)が日本統治を始めた。現行憲法は昭和22年5月3日に施行された。GHQの日本占領機関は約7年あまり、その間は日本人の生殺与奪の件はGHQに握られた。日本人がGHQのまな板のこいになってしまったのだ。日本の長い歴史の中で日本人が外国人のまな板のこいになった大きな三つの事件がある。ソ連抑留所の日本人捕虜、アメリカの日系人強制収容所、GHQの日本統治。憲法改正の話の前に、これらの三つのケースがどんな状況であったか、お知らせしましょう。
一。スターリンへの感謝状
終戦の翌日、昭和20年8月16日に大本営は、関東軍に武器を置く命令を出した。一方ソ連軍は、日本降伏を知りながらも15日以降も攻撃を続け、8月末頃には満州全土、北朝鮮、樺太及び千島列島を占領してしまった。対日参戦二週間後の8月23日、スターリンは、極東ソ連軍司令官ワシレフスキー元帥に日本軍捕虜のシベリア移送を命じる極秘指令を発した。
(1)極東シベリアでの労働に肉体的に耐えられる日本軍捕虜を約50万人選別すること。
(2)捕虜をソ連邦に移送する前に千人ずつの建設大隊を組織すること。大隊と中隊の長として、特に日本軍工兵部隊の若い将校、下士官の軍人捕虜を指揮官に命ずること。
この指令の下に、ソ連軍は、ソ連占領地域(満州、北朝鮮、樺太、千島など)の日本軍人、一部の民間人合わせて約60万人(厚生省発表によれば57万4千530人、ソ連側発表によれば60万9千176人)を強制連行し、シベリア(47万2千)を初めとして、外蒙古(1万3千)、中央アジア(6万5千)、ヨーロッパ・ロシア(2万6千)などを捕虜強制労働収容所(ラーゲリ)約1200ヵ所、監獄その他特殊収容所約百カ所に分散収容した。
収容された日本人捕虜は、粗食と厳寒の下に重労働を課せられ、それによって命を落とした者、推定で6万人から7万人と言われています。これは明らかにソ連の国際法違反です。

昭和24年の春に「スターリンに対する感謝状署名運動」を起きた。「シベリア捕虜収容所」上下巻の著者、若槻泰雄氏によると、感謝状署名運動は、ソ連側の意向であると主張しています。その理由は、
(1)ナホトカ港乗船の際、署名に拒否した一部の捕虜に対し、ソ連官憲が「サインをしなければ帰さぬ」と言明している。
(2)従来も色々大会や会議あるいは政治学校の卒業式に際しては、ソ指示によって感謝文が決議されている。
その結果、感謝文を提出することになったが、次のような大げさな感謝状になった。
この感謝状は1万6千語にのぼる長文のもので、数十メートルに達する奉書紙に達筆の者が筆をふるい、それをきれいに表装し、刺繍を施し、20メートル以上の美しい巻物として桐の箱におさめられた。この感謝状の他に、「感謝アルバム」と題した61枚からなる画集があります。一枚一枚は収容所の生活を巧みな筆で描いたものに細かな説明文が書き込まれています。収容所生活がすばらしかったことを絵で説明し、スターリン大元帥への感謝状、6万3千人以上の人からの署名アルバム、そして61枚の絵からなる感謝アルバムをおさめる奉納庫はすばらしく精巧に作られています。これだけでも、彼らを奴隷のように扱った総責任者のスターリンに対して過剰なまでの媚びです。それでは感謝状の内容はどんな文章だったのでしょうか。
昭和63年6月に全国抑留者協議会の斎藤六郎氏が、スターリン感謝状の現物をロシアから借り受け東京で展示したが、展示後その感謝状はソ連に返されてしまった。そのため感謝状にどんな文章が書かれていたのか全然わからなかった。自民党群馬県議会議員、中村紀雄 氏は、かねてからシベリア抑留問題に興味を示していました。平成16年を7月19日、中村氏は二人の抑留体験者と一緒に新潟空港からハバロスクに向かい、ハバロスクの国立古文書館に訪れ、女性館長から幸運にも全文34頁からなる「スターリン大元帥への感謝状」のコピーを手にいれることができた。中村氏は、自分のホームページで、感謝状の一部を原文のまま、残りはその概要を公表していますが、ここに中村氏のコメント付きの公開文章を発表します。
引用開始、
「この感謝状は、昭和24年5月から8月にわたりハバロスク、沿岸両地方の日本人捕虜大集会で審議採択されたもので6万4千434名が署名したと添え書きされている。以下はこの文の主要部を紹介する。
文の表題は、「ソヴィエト諸民族の偉大なる指導者・全世界勤労者の師父にして日本人民の最良の友、スターリン大元帥へ」となっており、書き出しは、「敬愛するイシオフ・ヴィサリオーノヴィッチ」で始まる。スターリンというのは、通称であり、鉄の男を意味する。イシオフ(又はヨシフ)・ヴィッサリオーノヴィッチ・ジュガシヴィリが「大元帥」の正式な名前である。次は冒頭の全文である。
『旧日本軍捕虜である私たちは、人類最大の天才、全世界勤労者の導きの星であるあなたに、そしてあなたと通じソヴィエト政府ならびにソヴィエト人民に、偉大なるソヴィエトの国が私たちに与えられた光と歓びに対し私たちの心からの感謝とあつき感激をこめてこの手紙を送ります。あなたの配慮のもとに、そしてあなたの教え子、あなたの愛児であるソヴィエト市民、ソヴィエト軍将兵のもとに、ソヴィエトの地におくった4か年の生活こそ、私たちにとって偉大なる民主主義の学校となったのでありました。それは私たちにとって終生忘れ得ぬ感銘として残るでありましょう』

以下は引用すると長くなりますので中村氏のコメントは除いて彼が公開してくれた手紙の全文だけを引用します。
引用開始
「私たちのいくシベリアは、荒涼たる氷雪以外何ものもなくおそるべき「酷使」と「死」が待つと言われたが、実際は並々ならぬ寛大さと人道主義によって迎えられ、あらゆるサービスが完備し夢のようだった。厳正な8時間労働、十分なカロリー計算のもと一点の汚れもない調理場で日本料理風の料理がつくられ食前をにぎわす。温かい寝具と被服、立派な宿舎が保証されたあらゆる日用品と嗜好品が販売され、食事、菓子、飲料をもそなえたレストランも開設され、下着もまた毎週、清潔なものと交換され、立派な施設をもった入浴場、洗濯場が設けられている。医療に至っては日本では夢にも見られないもので、幾多の高価な薬品や医療機械が備えられ完治するまでよく見てもらえる。その他文化教養を高めるための施設や配慮が行き届き毎週ソヴィエト映画を楽しむことができる等々」
引用終了

引用開始
「私たち四年前の自分たちを振り返るとき、自らの巨大な変化に打たれる。私たちは、日本では到底学び得なかった巨大なものを学びとり身につけた。だから、社会主義の国で過ごした四か年は幸福であり、誇りである。日本軍兵士の時は奴隷であったが、ソヴィエトで解放され、初めて自由を得た。以下略」
引用終了

引用開始  
「私たち日本人捕虜の帰国も最終段階に入ったが、私たちは断じて祖国なつかしとのみ帰国するのではない。私たちの人生における最大の感銘に満ちた四年間を、我が再生の宝とし、その懐かしい想い出を変えることもなく抱き続け、私たちの聖なる誓いを固く守り、わが人民解放の闘いに必要とあらば、わが生命を掲げようとする確固たる決意に燃えて進撃するために帰国するのだ。私たちは戦争の間に諮りしえない罪悪をソヴィエト市民にかけた。このことについては限りない自己嫌悪の念に耐えない。
私たちは、今こそわが日本に帰国したその時は、日本海の波濤遠く、レーニン、スターリンの国を仰ぎ見つつ、ソヴィエトの国の偉大な模範に無限の勇気をくみ取りつつ日本人民の利益のために、全世界勤労者の自由と幸福のために、果敢に、献身的に闘うでありましょう。社会主義ソヴィエトの国に過ごした4か年の思い出は、終生私たちの心を、大なる喜びと感激をもって充たすでありましょう。そして偉大なる人民、建設者となる人民、真のヒューマニストたる人民についての思い出は、永久に日本勤労者の心のうちに生きるでありましょう。この感謝状は、最後に改めて、大元帥に対して宣誓する。
『敬愛するイシオフ・ヴィッサリオーノヴィッチ
私たちは、全世界勤労者の愛する天才的教師たるあなたの前に、そして偉大なる社会主義者ソヴィエト同盟の人民の前に、いまここに厳粛なる決意にもえて宣誓せんとするものであります。
(1)ソヴィエト人民と日本人民とのゆるぎなき友誼のために献身的に闘う。そして、私たちがこの目で見、かつ学んだソヴィエトの国の真実を日本のすみずみまで、全日本にひびきわたらせる。
(2)アメリカ帝国主義、日本帝国主義のやからどもが、私たちを再び犯罪的奴隷兵士と化することを断じて許さない。そして、解放軍たるソヴィエト軍に対し、たとえ大地がはりさけるとも二度と武器をとらない。もし再び帝国主義どもが、日本を、ソヴィエトに対する
戦争の舞台にしようとするなら、私たちは死をも恐れず決起し帝国主義者と戦う。
(3)私たちは、社会主義の事業と平和の事業に、あくまでも忠誠を守り抜く。
(4)私たちは、この聖なる誓いを、わが瞳のごとく、わが魂のごとく守り抜き断固としてそれを果たし抜く。
全世界勤労者の命であるあなたがますます健康に、限りなき長寿を保たれんことを、
日本共産党万歳!
ソヴィエト同盟に栄光あれ!
ソヴィエト軍に栄光あれ!
万国勤労者の師父、敬愛するイシオフ・ヴィッサリオーノヴィッチ万歳』

ついでにこの感謝状に署名した人たちの感激のことばを当時の現地の捕虜収容所の新聞、「日本新聞」に載せていますのでいくつかを紹介します。
「我々の小さな名を記す瞬間、なぜか手が震え五体がしびれ胸が高鳴り涙が耀き」
「輝く眼、美しい顔、清々した姿、湧き上がる決意、それが署名の瞬間だった。」
「手をきよめ、心しずめて握る筆、署名こそ我らの雄々しい姿」
「やむにやまれぬ謝恩の発露、われらのスターリン大元帥万歳を心の中で叫びました」

読者の皆さん、この感謝状の内容といい、署名者の興奮した言葉といい、どう思いますか。どんなに感情を表さない読者でも、少なくとも驚くことは間違いないでしょう。感謝状の内容を紹介してくれた中村紀雄氏は、非常に冷静に淡々と筆を進めていますが、読んでいる私は、これが日本人なのかという落胆と同時にどうしようもない怒りを感じてきます。その理由を箇条書きにします。
(1)シベリア抑留による死者の数は、合計で5万から7万です。この感謝状が書かれたときは、抑留4年後です。その時すでに万を超す何万人もの日本兵捕虜が死んでいるのです。それはすべて日本兵を抑留せよという指令を発したスターリンの責任なのです。そんなことは日本人捕虜は充分に知っていて、これほど徹底して媚びた感謝状を書いているのです。この感謝状は、収容所で死んでいった同胞への裏切りであり、祖国日本への裏切りです。祖国を裏切っておいて、彼らは心底帰国したがっていたのです。
(2)生存しておられる抑留体験者の中には、また読者の中にも、感謝状の内容は、うそも方便の一つに過ぎないと軽く考える人がいるかもしれませんが、それはあまりにも甘い考えです。6万人以上が署名した感謝状は、重要な証拠として扱われます。ソ連政府には、日本政府への反撃材料として使える貴重な史料になるのです。
(3)日本人捕虜のほとんどが軍人です、当時の日本軍人にとって「天皇陛下」は絶対的な存在であったはずです。それがどうですか。地獄のような厳しい捕虜生活を強いられ、同僚の多くが死んでゆき、自分も死ぬか生きるかの分かれ道にさしかかったとき、彼らにとって絶対的存在だった「天皇陛下」からあっさり「スターリン陛下」変わってしまったのです。
そしていままで同じ境遇で生活し、そして共産主義に転向しない同僚の捕虜を反動扱いしにしていじめぬいたのです。これが日本軍人の姿なのです。「民主運動」の狂態、感謝状の内容、どれも軍人精神を問われるだけでなく、個人としての誇りや尊厳も問われています。
さらに驚くことは、帰国したいためのみせかけの共産主義者だけでなく、多くの軍人が本当の共産主義者になってしまい、彼らの帰国時、祖国に上陸するのに、「天皇島に適前上陸」と叫んで迎えきている家族との面会もそこそこに、故郷に帰るよりもまず第一に実行したのが、東京の日本共産党本部への直行し、日本共産党員になることだった。そして帰国後半年もたって少し身が落ち着くと、日本共産党を脱党したり、熱心な活動的な共産党員でなくなってしまったのです。

シベリア抑留を体験した人は、私の批判にたいして、「実際に地獄を体験したことない人間が偉そうなこと言うな」と私を非難するでしょう。スターリンの感謝状に署名せず、自分の息子が帰国できず死ぬことになったらどうするのだ、留守家族にとってどんなことをしてもいいから帰国してほしいのだと私を批判するでしょう。しかし私が日本人捕虜を批判するのは、同じような環境の下で暮らした外国人捕虜と比べると、日本人捕虜(主にほとんど元日本軍人)があまりにも無様な姿を見せつけるからです。「日本新聞」の編集長、イワン・コワレンコ中佐は、「ドイツ人捕虜は日本人よりもっと厳しい条件で労働させられた」と語っていますが、当然だと思います。ドイツは独ソ不可侵条約を破ってソ連領に侵入したからです。ソ連領土内では、沢山のソ連軍人や民間人の死傷者を出しているからです。独ソ戦のスターリングラードの攻防戦はあまりにも有名です。ソ連によるドイツ兵捕虜315万5千人、死亡者は109万4千250人で全捕虜の3分の1が死んでいます。日本の死者10パーセントに対しドイツはその3倍です。ドイツ兵捕虜の悲惨さは、日本兵捕虜以上だったことがわかります。それでもドイツ兵捕虜の間では、「民主運動」のような狂態を演じてドイツ兵捕虜が同胞であるドイツ兵捕虜をいためつけることもなく、ましてはスターリン感謝状など提出していません。彼らにとって、全く想像を絶するような行為でしょう。
「シベリア捕虜収容所」を書いた若槻泰雄氏によれば、その収容所の場所によっては日本兵捕虜とドイツ兵捕虜と一緒になる。日本兵捕虜は、一致してドイツ兵の堂々たる捕虜ぶりを称賛しています。全員ドイツ兵捕虜は卑屈になるどころかソ連兵を徹底して軽蔑していた。

ソ連によって抑留された軍人は、日本軍とドイツ軍だけではありません。ヨーロッパ諸国の軍人が多数抑留されています。イタリアは、ソ連遠征軍総数22万のうち約4万6千名がソ連によって抑留され、3万5千名が死亡、残り1万名のうちソ連側によって死亡が確認されているのが472名です。その他フランス、オーストリア、ルクセンブルグ等、特にハンガリーでは、同国の捕虜35万人が消息を絶っていると言われています。その他の東欧諸国、ブルガリア、チェコ、ポーランドなど多数の捕虜がソ連で抑留されたのです。それでも日本以外、どこの国も「民主運動」という狂態を演じたり、「スターリンへの感謝状」を書いたりしていません。

信念を貫いた人たち
ソ連は日本兵捕虜を粗食の下に厳寒の中、重労働を課すばかりでなく、日本兵を共産党員にするべく勉強させ、あるいはソ連のスパイにすべく教育をした。その中で共産党員にもならず、スパイにもならず最後まで信念を貫いた人たちが何人かいた。史料不足のため、私の独断と偏見で三人を選びました。草地禎吾大佐、近衛文隆、赤羽文子。草地大佐は、軍人間では有名です。ソ連当局の拷問にも耐え、民主運動の嵐にも耐え、信念を貫いた将校は草地以下十数名いたと言われています。近衛文隆は文麿の長男、甥が細川護熙元首相です。文隆が共産党員なれ、スパイになれと要求に断固と拒否続けることができたのは、細川家は天皇家に次ぐ古さの家系の重みからです。帰国できず、ついにモスクワで死去。赤羽文子は最高にすばらしい日本女性だ。彼女は軍隊教育を一切受けていない。ソ連軍に捕まった時、大連市の市長の秘書をしていて彼女が36歳の時だった。ソ連当局は、彼女が市長の秘書の前にソ連領事館でソ連人スタッフに日本語を教えていたのを知っていた。奉天から列車で17日間もかかるシベリアのチタの女囚監獄に入れられた。日本人女性は彼女一人。以来ソ連のスパイになれと説得されたが拒否し続け、シベリア滞在10年、その間故国への通信は一切拒絶された。そのうえリューマチを患い、病院での治療と早い帰国をえさにスパイ勧誘は続いたが、彼女は極北地での死を覚悟をした。そしてついに帰国の機会が訪れたのだ。

二。日系アメリカ人強制収容
昭和16年12月8日、大東亜戦争が勃発した。その日の夕刻、アメリカ国内における日系二世団体「日系市民協会」の指導者たちは会議を開いた。城戸三郎会長は、「我々はアメリカ市民として義務を果たすものである。米日開戦は最も不幸な出来事であるが、いまこそ我々の忠誠心を示すときである。戦場に送られるといえども、我々忠誠心は不変である。我々の父母は、法律の下ではアメリカ市民になることは許されていない。しかし、アメリカ市民である我々の父母として、善良なる住民として、どこまでも我々とともに進むことを信じて疑わないものである」という趣旨の電報をルーズベルト大統領に送った。
戦争開始後二か月後の昭和17年2月19日、ルーズベルト大統領は、大統領行政令9066号に署名、軍が国防上必要である場合に強制的に外国人を隔離することを承認した。大統領行政令はすべての「敵性外国人」に向けたものでしたが、実際に適用されたのは日系人だけでした。日本だけでなくドイツもイタリアもアメリカと戦争状態になっていたが、ドイツ系、イタリア系は適正外国人にはならなかった。こうして、アメリカ国内において日本人の血が16分の1以上混じっている日系アメリカ人は、制限期日の4月2日までに逮捕、拘束され収容所に送られることとなったのである。アメリカ国内に10ヵ所の強制収容所がつくられ合計12万人が強制収容された。その他に中南米13ヶ国の日系人、2264名をアメリカを脅かす「敵性外国人」としてアメリカ国内の抑留所に強制連行した。

ここで一つ読者に注意していただきたいのは、ハワイ在住の日系人は、一部の日系人指導者を除いて殆どの日系人が強制収容されなかったことです。理由は開戦当時のハワイ日系人の人口が15万8千人で、ハワイ全人口の35パーセントを占め現地の経済的影響力が大きかったため、ハワイ州当局が強制収容を拒否した結果です。このためハワイの日系人のほとんどが例外的に財産を失わず済んだ。
日露戦争以来、日系人は法的にも社会的にも徹底して差別され、大変な苦労を味わってきた。
日米開戦とほとんど同時に強制的に財産をほとんど失わされ、強制的に収容所にぶちこまれた。それにもかかわらず、私が驚くのは、日系市民協会の指導者たちは、おとなしく強制収容に応じ、アメリカ政府に対して抗議声明一つださず、それどころか軍隊に志願させるように要求していることです。アメリカ政府は、日米開戦以来、日系二世の徴兵、志願を凍結していたが、日系市民協会の軍隊志願の要求に応じるかたちで、昭和18年1月のその政策を変更し、「アメリカに忠誠を尽くす」と意思表示した日系二世の兵役を認めることにした。
ここで私は読者の皆さんに質問があります。
あなたが「忠誠登録」にイエスと答えたところで、あなたの両親、兄弟姉妹が強制収容所から釈放されるとか、両親が失った財産のほとんど戻ってくるとか、両親に市民権が与えられるとか、あるいはあなたが戦死したらアメリカ政府は、金銭的にあなたの両親の面倒をみてくれるとか、一切の好条件は示されませんでした。それでもあなたは、「忠誠登録」にイエスと答えてアメリカ軍に入隊しますか。
カリフォルニア州北部のツールレイク収容所では忠誠登録を強制されたことに反感をもった二世35人はデモ行進し「徴兵局に登録する意思はまったくない、しかし、日本への送還にはいつでも署名する」という抗議文を手渡した。この35人は、全員銃を突き付けられ他州の抑留所にほうりこまれてしまった。この忠誠登録によって収容所の日本人間に亀裂が深まり対立になって殺人事件にまで発展していった例も出たのも当然でしょう。
「忠誠登録」にイエスと答えて全米10カ所の収容所から志願した日系二世は、全部で1181人(その後数はずっと増えます)です。この数を多いと見るか少ないと見るかは見解の相違になるでしょう。私はとてつもない多い数字だと解釈しています。なぜなら志願者日系二世は、ほとんど全員が両親健在の年代です。私の考えでは、人生で一番見るに忍びない事とは何かと問われれば、血のにじむような努力を何十年と続けながら、その努力がなにも報われることなく一生を終わることではないでしょうか。もし自分が戦死でもすれば、両親の悲劇はますます深まるのだ。
それでも志願者数、1181人という数字は、権力に弱い、権力にすり寄って生きる日本人資質のあらわれのような気がしてなりません。ここでまた読者に問いたいのです。
人間は死を覚悟すれば、なんでもできると言われています。事実その通りでしょう。忠誠登録に「イエス」と答えて入隊した日系二世は、戦場での死を覚悟したに違いありません。死を覚悟したなら、自分たちを不当に扱ったアメリカ政府への抗議の態度ぐらいとれるはずです。それにもかかわらず多くの日系二世が入隊していったのはなぜでしょう。その理由は二つ考えられます。
(1)日本人は、権力に非常に弱い。権力者にすりよっては生きるのが得意なのだ。日系二世の入隊組は、徹底してアメリがカ政府に媚びて言ったとして言い過ぎではないでしょう。
(2)人の好い日本人が陥りやすい最大の欠陥、すなわち自分勝手な善意の思い込みです。この自分勝手な善意の思い込みが、日本の外交がどれほど損なわれているか計り知れません。韓国やシナに謝罪し、多額の経済援助をすれば、両国と友好関係が築けるだろうという善意の思い込み、ロシアに経済援助や技術援助したのも、そうすれば北方四島返還交渉に有利に作用するだろうという善意の思い込みがあったのでしょう。入隊組の日系二世は、アメリカのために入隊して戦場で死んだら、いくらなんでもアメリカ政府は、自分の家族は冷遇しないだろうという自分勝手な善意の思い込みあったのではないでしょうか。
こうしてアメリカ本土の日系二世は、入隊組と入隊拒否組との間に亀裂が入り対立関係になってしまった。
アメリカ本土と事情が違うハワイでは、忠誠登録は行われていません。アメリカ政府は、日系二世だけの部隊編成を考え、ハワイの徴兵目標を1500人としたところ、全部で1万人近く日系人が応募しています。

「称賛すべきは入隊拒否した日系人」
戦後、日系二世部隊のヨーロッパ戦線での大活躍はマスコミなどで知られています。私が一番気になったのは「忠誠登録」に「ノー」と答えて兵役拒否をした日系二世は、そのごどうしているのかでした。かれらの戦後の様子など知らされることがなかったのではないでしょうか。
平成14年5月14日、読売新聞の国際ニュース面で、「日系徴兵拒否者に謝罪」、「日系人団体 大戦後、長年『仲間外れ』」と言う見出しが出ていましたのでその記事の全文を引用します。
引用開始
「第二次大戦中、米国で強制収容に抗議して徴兵拒否した約三百人の日系人に対し、日系人団体が長年にわたる「仲間はずれ」を初めて公式に謝罪する式典が11日、サンフランシスコで開かれた。大戦で従軍して米国への忠誠心をしめした日系二世は賞賛の対象となったが、兵役拒否者は、日本人社会から長年卑怯者呼ばわりされてきた。謝罪までに要した約60年もの歳月からは、戦争によって引き裂かれた日本人社会の悲劇が浮かび上がってくる。真珠湾攻撃後、米政府は約十二万人の日本人を強制収容所の送りこみ、軍隊からも排除した。
だが、一九四三年に日系人の従軍が認められるようになると、約三万三千人の日系二世が従軍し、多数の死傷者を出しながらも勇敢な戦いぶりを見せ、日系人の名誉回復に大きく貢献した。これに対し三百二十五人の日系人が徴兵を頑として拒んだ。
『自分や両親が強制収容され権利を奪われているというのに、どうして民主主義のために戦えると言うのか』こう語るのは徴兵拒否者の一人、ミツ・コシヤマさん(77)だ。「選抜徴兵法」違反で懲役三年の判決を受けたコシヤマさんはじめ、二百五十六人が投獄された。だがもっともつらかったのは、日系人社会で受けた公然の非難だった。
全米最大の日系人団体『日系市民協会』は四十四年三月『徴兵拒否者は煽動罪に問われるべきだ』と声明。徴兵拒否者は『反逆者』『卑怯者』とののしられた。戦後の四十七年、トルーマン大統領はいち早く徴兵拒否者に謝罪し、特赦を与えたが、日系社会のわだかまり消えず、『いまでも新聞などに徴兵拒否者を批判する投書がよせられる』(コシヤマさん)
しかし日系人が二世から三世、四世へと世代交代し、徴兵拒否は正当な憲法上の権利の行使だったという理解が徐々に広がった。「日系市民協会は2000年、ようやく徴兵拒否を『理解する』という決議を採択。日系退役軍人らを説得し、11日、コシヤマなどの懲兵拒否者や家族22人を招く式典の開催にこぎつけた。
式典ではフロイド・モリ(日系市民協会会長)が『苦痛をぬぐいさることはできない』と謝罪した上で、『過去に起こった過ちを水に流そう』と呼びかけた。他にも徴兵拒否の道を選んだ人々の勇気をたたえる発言が相次いだ。式典に参加した徴兵拒否者のケン・ヨシダさん(78)は『本当は謝罪はいらない。ただ私たちは徴兵から逃げたのではなく、政府に抗議したのだということは、これからの世代に知ってほしい』と語った。(森田清司)」

日系人強制収容についてインターネットで色々調べていたところ2006年2月6日のインターネット上で2005年4月1日付けのニューヨークIPS(Inter Press Service)のニュースが、IPSジャパンの浅霧勝浩氏に翻訳されていた。
「日系人強制収容所の不当性を訴えた闘士86歳で逝去」の見出しのもとに、次のような記事が載せられていました。
「フレッド・コレマツは、第二次大戦期のローザ・パークス(米国公民権運動の母)と称される人物だが、40年間正義を待ち続けたこの日系アメリカ人は、水曜日(3月30日)北カリフォルニアのカークスブルで86年の生涯を閉じた。コレマツの40年に及ぶ(第二次大戦中の日系人強制収容所の不当性を訴えた)闘争は、カリフォルニア州オークランド刑務所の檻の中から始まった。彼の訴えは敗訴を重ねた末に米最高裁で否決され有罪が確定した(1944年)。ところが一転して犯罪歴は抹消され、しかも米国民間人最高の栄誉とされる「大統領自由勲章」が授与された」

コレマツがたどった軌跡は、米国公民権史に名を残す言語道断な事件の中でも最も醜いもの一つである。真珠湾攻撃から間もなくルーズベルト大統領はアメリカ国内に住む日系人、12万人を市民権の有無にかかわらず各地の強制収容所に送り込んだ。フレッド・コレマツの両親も収容所にぶちこまれたが、フレッド・コレマツ自身は収容所入りを拒否したため、逮捕、起訴され、刑務所に収監された。以来コレマツ氏の法廷闘争がつづいた。1944年、日系人収容処置は解除され、コレマツ氏はサンフランシスコに戻ってきた。彼は製図工として働き家族を養ったが、「前科者」が災いして大企業や公的な職につけなかった。それから約40年後1981年彼の有罪判決が偽証のせいと判明。其の後裁判所が特赦を申し出たが、コレマツ氏はこれを拒否、再審を要求した。まもなく連邦裁判所は、コレマツ氏は不確かな証拠に基づいて裁かれたとして彼の当時の有罪判決を無効とし、コレマツ氏の犯罪歴は抹消された。こうしてコレマツ氏は(40年の闘争の末)米国法史の暗黒部分に終止符をうった。
五年後、ジェラルド・フォード元大統領は、日系人強制収容処置を「国家的な過ち」と非難した。五年後、当時のドナルド・レーガン大統領は、日系人強制収容処置「深刻な不法行為」であるとし、コレマツ氏を含む数千人の生存中の元収容者に対し、一人当たり二万ドルの賠償金を支払うことを決定した、そして1999年、当時にビル・クリントン大統領は、コレマツ氏に対して、米民間人最高の栄誉とされる「大統領自由勲章」を授与した。
「我が国の正義を希求する長い歴史の中で、多くの魂のために闘った市民の名が輝いています。・・・・プレッシー、ブラウン、パークス・・・・」。クリントン大統領は有名な公民権関連の事例を挙げながら続けた。『その栄光の人々の列に、今日、フレッド・コレマツという名が新たに刻まれたのです。』(以下略)

このブログを書くために拙著「逆境に生きた日本人」(展転社、平成20年2月出版)を抜粋して書いています。この本の原稿を書いていたのが平成19年ごろです。ここに書いたコレマツの記事は、その当時コレマツ氏についてインターネットで調べられるすべてでした。コレマツ氏の名前の漢字を調べましたが、見つけることができませんでした。ところがこのブログを書くに当たってつい最近ネットで調べたらコレマツ氏についてのウイキペディアでは、詳しい経歴やその他いろいろな情報が手に入りびっくりしました。以下のコレマツ氏の情報は、つい最近のインターネット調べによるものです。
フレッド・コレマツの正式の名前は、フレッド・トヨサブロウ・コレマツ、漢字では是松豊三郎。2005年5年3月30日、86歳で死亡。2010年9月30日カリフォルニア州政府は、コレマツの誕生日1月30日を「フレッド・コレマツの日」と制定、州法に守られた市民の自由の重要性を再認識する日にした。2017年4月25日、NHKテレビで番組「NHK先人たちの低力」でフレッド・コレマツの人生の特集を放映した。私はあのNHKがコレマツ氏について放映をしたことについて非常に驚きました。私がNHKの支払い拒否を続けて13年目です。私はNHKの歴史検証番組など絶対に見ません。偏っているからです。あのNHKがコレマツ氏を取り上げたのには何か理由があるのだろうと想像をした。私の想像は、このことだろうと思う事件があった。2017年1月30日、すなわちカリフォルニア州の「フレッド・コレマツの日」にあわせてGoogleのアメリカ合衆国版のフロント画面にコレマツのイラストを掲載、併せて「間違いだと思うなら、声を上げることを恐れてはならない」(If you have the feeling that something is wrong,don’t be afraid to speak up.)とこうコレマツ氏の言葉を紹介しています。グーグル社は、大統領選ではトランプ氏に大口献金をしています、いわゆるトランプ大統領の人種差別といわれる大統領令には、反対なのでしょう。そのためカリフォルニア州のフレッド・コレマツの日、1月30日 に合わせてコレマツの記事をのせたのではないかといわれています。グーグルがこれだけ派手にコレマツ氏を載せると、NHKは黙視するにはいかなかったのでしょう。クリントン大統領の時、コレマツ氏に大統領自由賞が授けられた。その時日本国内で反響を呼んだのでしょうか。記憶している人おられますか。多くの日本人が偉大なコレマツ氏の存在を知ったのはつい最近ではないでしょうか?

日系人強制収容の時、12万人強制収容されました。日系人はアメリカ政府に抗議デモもするでもなく、講義の手紙を出すでもなく、従順に黙々と強制収容所に入った。入所したら、
アメリカ軍に入隊させてくれと自ら頼み込んでいるのだ。いざ入隊許可になれば、入隊拒否者が500人ばかりしでた。日系人全体で入隊拒否者を村八分にしてしまった。強制収容所そのものに入所することを拒んだたった一人の日系人がコレマツ氏だけだったのだ。日本人は、信念と突き通す人には冷淡なのだ。このブログは長くなりましたのでこの辺で辞めておきます。次回は終戦後の占領軍の統治と最重要問題の憲法改正について書きます。

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