保守の皆さん、憲法改正はいけません。(2)

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三。アメリカ占領軍(GHQ)の日本統治
昭和20年(1945)8月15日、日本は降伏した。8月28日アメリカ占領軍の先遣隊が厚木飛行場に到着、8月30日アメリカ占領軍最高司令官、マッカーサー元帥が厚木に到着した。ところがなんと驚いたことに、日本敗戦から1か月後、マッカーサーが到着してから二週間後の9月15日に小川菊松という出版人が「日米会話手帳」、サブタイトルに英語で「Anglo・・Japanese Conversation Manual」と書かれた本を出版した。この本は32頁の小冊子で、日常の挨拶から始まって、道を聞かれた際の教え方、数の数え方など極めて簡単な会話79例を載せていた。敗戦後わずか1か月でこういう本が売り出されたこと自体が驚きなのに、なんとその年の年末までの3カ月半の間に360万部も売れるという大ベストセラーになったのです。終戦時(昭和20)日本の人口は約7千2百万、まだ海外派遣されていた兵士や民間人全員日本本土に戻っていません。実際の人口は7千万ぐらいでしょう。それに子供、老人は読みませんから、まさに空前のベストセラーでしょう。短期間にこれだけの部数が売れた本が、その後出版されたのでしょうか。終戦直前までは、アメリカ軍の本土上陸に備えて竹やりの訓練さえしていたのです。それが竹槍を投げ捨て本屋さんに殺到したのだ。
この本が売り出される前のわずか半年間の間に三月の東京大空襲、前後して大都市空襲、4月からおよそ一か月にわたる沖縄戦の熾烈な戦い、8月に広島、9月長崎の原爆で、犠牲者を合計すれば少なくとも死者50万人以上を出しているのです。それにもかかわらずこういう本が空前のベストセラーになったということは、マッカーサーの日本到着時点で、すでに日本人のほとんどが今後の生活の心配が先立ちアメリカ軍に対する敵意や憎悪をなくしてしまっている証拠です。
マッカーサーは日本到着後すぐに日本統治を始めますが、最初の五年間にどのくらいの手紙がマッカーサーに寄せられたか記録があります。昭和21年9月から昭和26年5月まで約5年間にアメリカ占領軍(GHQ)翻訳通訳班が44万1千161通の手紙と葉書を読み、処理した公式に記録されています。アメリカのマサチューセッツ工科大学教授、ジョン・ダワーは1999年に「敗北を抱きしめて」(原題、Embracing Defeat, Japan in the wake of World WarⅡ)を著し、ピューリッツアー賞を受賞した。その本の中でマッカーサーに送られた手紙や贈り物の内容について書いています。しばらくその文章を引用します。
引用開始
「これらの手紙は最高司令官に向けられ検閲されていたこともあって、マッカーサーの虚栄心を満たしたことは間違いない。そこには、マッカーサーに対する尊敬の念や、彼の限りない寛大さにたいする惜しみない感謝の言葉が述べられていたからである。手紙を書いた人々は、マッカーサーの「神の如き尊き御慈悲」を讃え、彼を「生きたる救い主の神」と呼んだ。ある青森県の老人は「昔は朝な夕なに天皇陛下の御真影を神様のようにあがめ奉ったものですが、いまはマッカーサー元帥のお姿に向かってそういたしております」と書いている。神戸のある団体は、基督山上垂訓図を日本画風に描かせ、マッカーサーに贈呈し、元帥のご指導は、まさにこの絵に描かれ崇に高さを思わしめるものがありますと賛美の手紙を添えている。マッカーサーは釈迦のような慈悲の持ち主と讃えられ、孔子の「論語」に登場する「遠来の友」にも例えられた。また、日本の悪夢の如き戦争から救ったとして崇められ、外国人による占領という未知の状態におびえていた日本人に、希望と幸福をあたえたと感謝された。市井の男女が、自分たちがかって軍国主義者であったと言う罪をまるで聖職者にたいするようにマッカーサーに告白し、精神科医に対するかのように心の奥底の恐怖や希望を打ち明けたのである。こうした人々にとってマッカーサーは、この時代の偉大な愛の化身であった。彼らは手紙のなかで、まるでお守りのように平和と民主主義という言葉を繰り返し語っていた。マッカーサー最高司令官は、その犯しがたい権力のゆえ天皇のような存在であったが、彼の方が天皇より近づきやすく、より直接的に関係を持つことが出来る存在と思われていたことも明らかであった。民主主義を約束する権威主義な支配という逆説に満ちた試みが、ここに始ったのである。
マッカーサーには沢山の贈り物が届いたが、ほとんどの場合、彼はそれを受け取った。日本では自分より上位の者や恩人に贈り物をすることは伝統的習慣であったが、この外国の大君主への貢ぎ物の数は、過去の日本の軍高官に対する贈り物をはるかに超えていた。(中略)
このうえないほど格式が高く、手のこんだ贈り物は手織りの着物と帯であった。これを織り上げた人物は、1946年11月から京都の下賀茂神社にこもり、丸3年かけて作り上げたのである。彼は毎日お祈りをし、ついには7千万刺しを持って自らの最高傑作を織り上げ、神道の祈祷文とともに「わが国民7千万人の清き心のしるしとして」マッカーサー元帥に献上した。明らかにこの織物の一刺し一刺しが日本人一人一人を意味していたのである。
つつましやかな躍る鮎と豪奢な錦織の間を驚くべき数の贈り物や招待状が最高司令官に向けて滝のように降り注いできた。人形、ランプ、陶器、漆器、竹細工、封建時代の書、書籍、盆栽、盆景、動物の毛皮、鎧、刀、絵画、彫刻にいたるまで、さまざまな物をマッカーサーは受け取った。それらの中にはマッカーサー自身が描いたものもあった。(中略)
引用終了
贈り物に関するページはまだ続きますが、この辺で終わりにして、一般市民からの手紙に関して、さらにこう書いています。

引用開始
「GHQの直接送られた手紙のなかでそれほど多くは占めてはいなかったものの、注目すべきものとしては、特定の個人を戦争犯罪人として逮捕・追放し、裁判にかけるべきだとして、名指しで告発するものもあった。また戦争中に権力を笠にきて威圧的な言動をしていた役人を、地域の住人が告発する手紙もあった。高校生や大学生たちは、軍国主義に加担した教員を指摘した。旧帝国軍人のなかには、戦争中に連合軍の捕虜に虐待をおこなった日本人兵士の名前を告発する者もいた。(中略)
又「反アメリカ的」の感情をもったり、「反民主主義的」な考えをいだいていた人々も告発された。このような情け容赦ない告発文書がマッカーサーやGHQのもとに送られてきたのである。こうした事実だけを見るかぎり、きのうまで愛国主義者だった日本人は、一夜にして占領軍への密告者、或は情報提供者に変貌してしまったようにみえる。その他にも、日本はアメリカの属国になるか、あるいは永久にアメリカの植民地になるべきだと主張するような、驚くべき手紙も存在した。その一方で男女を問わず、占領政策への批判やアドバイスをすることもためらわなかった。」
引用終了

占領軍で手紙の翻訳にかかわった沖縄出身の日系アメリカ人は、このような告発の手紙を読んでいるうちに、自分は日本人を軽蔑するようになってしまったと言っていますが当然でしょう。占領軍や占領軍司令官にたいするまさに度を越した媚態です。長崎では、原爆による放射能の影響調査にやってきたアメリカの科学者チームの責任者に、ガラスケース入りの人形が贈呈されているのです。またその後すぐに住民たちは、駐留する占領軍軍人とともに「ミス原爆美人コンテスト」開催したというのです。敗戦寸前まで激しくたたかった国民が、敗戦直後に見せた豹変ぶりがまったく信じられないくらいで、この豹変ぶりはある種の脅威とか異常とか呼べるような気がします。まさに私が主張する異常なまでの変わり身の早さではありませんか。決してほめられる民族の態度ではないことは確かです。それではマスコミは、マッカーサーに対してどういう態度をとったか見てみましょう。敗戦一年後の昭和21年(1946)8月15日の朝日新聞の社説は、
引用開始
「この一年間にしめされた連合軍最高司令官マッカーサー元帥の偉大な業績については、内外等しく賛嘆をおしまないところである。われわれは心から元帥に対して深厚なる感謝の意を表明するものである。元帥には、日本ならびに日本人を深くいたわる気持ちがある。この気持ちが、日本の人民を信服せしめた。この気持ちがなかったならば、天皇と日本の政治機構をいかに有効に占領目的を達成するために使用したとしても、そのことだけで、今日までの偉大な業績は示し得なかったであろう。」
引用終了

これまでスターリンへの感謝状、日系アメリカ人の強制収容、アメリカ占領軍(GHQ)の日本統治に対する日本人の態度を書いてきましたが、読者の皆さんは、どのような感想をお持ちでしょうか?私の感想は、日本人は外国人に生殺与奪の権を握られると、徹底した「迎合と妥協」に走り、それが行き過ぎて卑屈になるのです。日本人の誇りを見せつけたものはなにもなかった。わずかに指で数えられるほどの日本人だけが己の信念を貫いただけだと思っています。次にGHQはどのような意志と目的をもって日本を統治したのか探っていきます。
1.WGIP
皆さん、この頭文字(ダブリュ・ジー・アイ・ピー)は絶対覚えておいてください。この頭文字の正式な名前は、War Guilt Information Program(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)の頭文字をとったものです。日本語の意味は、(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)。このWGIPという言葉は、古くから使われていますが、一番古いのは故江藤淳氏が1989年文芸春秋社から出版した「閉ざされた言語空間―占領軍の検閲と戦後日本」です。歴史に興味のある人は、この本を大抵読んでいるのでこの言葉は知っていますが、WGIPは、一般的に使われた言葉でなかった。この本には欠点があったからです。著者が実際にWGIPの書類のコピーを提出していなかった。このためでしょう、現在の百科事典とも言うべきウィキペディアでは、以前は江藤の主張は載せていたが、疑われていた。ところがつい最近のウイキペディアの内容は一変しました。私と同年代の関野通夫氏がGHQの2万5千点の文書から、幻だったWGIPの証拠文書を発掘し、即その本を平成15年3月に出版したからです。出版社は、自由社の「自由社ブックレット1」として出版した。本のタイトルは「日本人を狂わせた洗脳工作(今なお続く占領軍の心理作戦)」、本のページはわずか82頁、値段はわずか500円プラス税です。この本が如何に重要だったかすぐわかるのは、今ではウィキペディアで関野通夫氏の名前もこの本の名前も記載されているからです。この本に続けて関野氏は、平成16年9月に自由社から「続・日本人を狂わせた洗脳工作」(いまなおはびこるWGIPの嘘)を出版、112頁、値段同じく500円+税です。GHQの占領政策は、WGIPの計画を基にして実行されていったのです。憲法改正を主張する人は、まず関野氏のこの本を絶対読んだうえで主張してもらいたい。
「つくる会」の広島県支部長、長谷川真美氏の寄付によって200部を衆議院議員に贈呈しました。その他「つくる会」の会員が地元の県会議員、市会議員などに贈呈しています。
憲法改正の話が話題になっている現在では、関野氏のこの本は、日本国民必読の本です。皆さんに知ってもらいたいのは、この本は憲法改正反対などにひとことも触れていません。この本に書いてあることは、
「GHQは日本を軍事的に征服したうえで、日本民族から記憶を奪い、精神を破壊して、占領を終了した後も、未来永劫にわたってアメリカの属国としてつくりかえるために、日本に対して全面的に歴史戦を開始した」。これらの史実が少ない頁数で適格に書かれているのです。本来ならこの本に書かれていることは日本史の先生方が書いて当然なのです。関野氏は日本史の先生ではありません。長い海外ビジネスの経験を持っている元ビジネスマンです。それだけ日本の歴史教育が歪んでいたわけです。あくまでも憲法改正を主張する人は、絶対にこの本を読んでもらいたい。お願いいたします。

2.GHQの占領政策にたった一人抵抗した男
GHQの占領政策のほとんどが、日本政府の強い抵抗もなく、また反対のための暴動らしい暴動もほとんどなく、日本国民に受け入られました。しかしここにたった一人、占領政策に公然と抵抗した人物がいました。終戦直後の幣原内閣に次いでできた第一次吉田内閣の大蔵大臣、石橋湛山です。次の二つの問題で石橋とGHQとの対決の場になった。
(1)戦時補償打ち切り問題
戦時補償とは、戦時中日本政府が軍需生産の増強を図るため、国家総動員法、軍需会社法などの法令に基づき、多数の軍需企業や民間企業に対して生産設備の建設あるいは軍需品の生産のための全力を注ぎ、政府の補償をあてにして巨額の借入金を背負い、設備を拡張したり、工場の疎開を行ったりしたが、敗戦の結果、これらの企業ばかりでなく、企業に融資していた銀行も多大な損失を被った。ここで戦時補償を打ち切ったら、日本経済はどうなるか?石橋湛山は必死にGHQに抵抗したし、抵抗しきれないと判断したら、吉田首相に辞意を表明した。吉田は「長い物には巻かれろというから」と言って湛山を説得したという。GHQ当局は、日本の軍需産業などつぶしたくてしょうがないのだ。湛山の必死な抵抗が続いたため、当時の日本の王様、マッカーサーの裁断に仰ぐ結果となり、戦時補償は打ち切られた。湛山の執拗な抵抗がGHQ司令部に「生意気な奴」という印象が残り、公職追放の計画が練られていった。

(2)終戦処理費問題。
終戦処理費とは昭和21年GHQが報道各社にどうしても占領軍維持費に言及しなければならない場合は、「占領軍維持費」を「終戦処理費」と呼ぶよう通達した。占領軍維持費の膨大さを隠そうとしたのだ。占領軍維持費は、毎年度政府予算における歳出総額のほぼ三分の一を占める膨大なものだった。日本の保守の読者層なら誰も知っているヘレン・ミアーズ女子(「アメリカの鏡・日本」の著者)は、終戦時GHQのスタッフと働いていた。彼女はこう書いています。
「アメリカ人は、贅沢なことを考えるから、占領経費を節約しようとしない。将校宿舎や官舎の生け花代、本国への電報電話代、キャンプに維持費、文民専門と秘書の給料、その他生活のお楽しみ代は日本人が負担した。」
しかし最も驚くべき支出項目があった。占領軍関係者が起こした交通事故で被害を受けた日本人に支払われた保証金総額6億2千万である。ゴルフ場の建設、シャンデリア、ジュウタン、装飾用の生け花などもすべて終戦処理費で賄われた。さらに問題になったのは、清浄野菜農場の新設だ。人肥を使用した日本の野菜は不潔で口にできないというのでプールのようなコンクリート槽の中に砂地を作り、水を張って、化学肥料を加える方法の野菜畑を作ったのも終戦処理費です。
さらに東京裁判の費用、即ち法廷建設費や、裁判官や検事の滞在費、人件費、その他で合計72億円も日本政府は払わされているのだ。占領軍は、占領軍維持費を終戦処理費と呼ばせておいて、日本人の税金を湯水のように使っていたわけだ。
終戦直後の日本は、軍需産業の倒産、財閥解体などで失業者があふれ、そのうえ海外からの一般人や軍人のひきあげなどでさらに失業者があふれかえり、国民は食うや食わずの極貧生活を強いられていたのです。そんな時に東京裁判が開かれ、現行憲法の施行を強要されたのです。だから大蔵大臣である石橋湛山が、GHQに占領軍維持費(終戦処理費)を削減してくれと要求するのは当然すぎるほど当然だったのだ。しかし湛山の要求は、特にGHQの地方に駐屯する軍人の不評をかった。占領軍維持費は勝者の特権であり敗者が口をはさむ問題ではないという意識だった。このため湛山の公職追放計画が早められ、公職追放の口実探しが加速された。公職追放通知で湛山は、自分がGHQによって追放されると知った時、吉田首相に追放拒否を主張した。この時の吉田首相の言葉が有名です。「しかし君、狂犬に噛まれたと思ってくれ」
公職追放後の湛山の態度も私は偉いと思います。公職追放された人たちの殆どが、自分の公職追放は納得いかないものであっても、泣き寝入りしていた。ところが湛山は、自分の公職追放は納得いかないと追放の不当性を訴え、GHQに徹底した戦いを挑んだのです。湛山が自分の公職追放策に挑んだ抵抗策は。
(1)片山新内閣に追放取消策を要求。
(2)湛山の友人たちの署名の陳情書をマッカーサーに提出。
(3)中央公職適否審査祈願委員会に英文80頁におよぶ反論書提出。
(4)公職追放になった10月27日午後2時に日本主要新聞の政治部長を、午後4時から外国紙の特派員を招いて反論書を渡し、記者会見をひらいた。

湛山のこれらの努力は何一つ報われることがなかった。追放はまる4年間続きそれまで政界に復帰することができなかった。私が腹が立つのは、当時の政治家、マスコミの人たちは、湛山追放の理由がでたらめであったことを知っていたにも関わらず誰一人として湛山を援護しなかったことです。

ここからは現在非常に話題になっている憲法改正問題について語ります。真っ先に最重要な事を先に書きます。いいですか、皆さんぜひ注目してください。現行憲法は、「日本国憲法」ではなく占領軍が作ったままの憲法、すなわち「占領軍憲法」である。その理由、
1.アメリカ占領軍は、絶対王政の王様の権限を持っていた。昭和天皇の生殺与奪の権をにぎっていた。占領軍が「昭和天皇の地位をどうの、こうのするつもり」という発言で日本政府を震え上がらせることができた。
2.マッカーサーは部下に命じて。わずか四日余りで英文で作成させたものを単純和訳させて、「日本国憲法草案」なるものが作成され、昭和21年2月13日に、当時の日本政府に対して手交された。
3.戦時国際法、ハーグ陸戦法規(第43条)」明治40年(1907年)10月18日ハーグにおいて調印、日本は、明治44年(1911)11月6日批准)には、「戦勝国が敗戦国を統治する場合は、その国の法律にしたがわなければならない」(「国の権力が事実上、占領者の手に移ったときは、占領者は絶対的支障がない限り、『占領地の現法律を尊重して』、なるべく公共の秩序、および生活を回復確保するために施しうる一切の手順を講じなければならない。」ことが決められていた。すなわち「占領軍憲法」は国際法違反のもとでつくられ、「日本国憲法」としたのです。
4.30項目の報道規制(プレスコード)
敗戦から一か月とたたない昭和20年9月10日、「新聞報道取り締まり方針」」と「言論及び新聞の自由に関する覚書」がGHQより発せられ、「削除及び発行禁止対象のカテゴリー」(30項目)が定められた。その30項目の3番目にはこう記載してあります。
「3.GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判」
すなわちGHQは、国際法違反で平気で日本国憲法を作っておきながら、その憲法を批判する態度を厳禁にしているのだ。そうなると憲法について書く学校の教科書はどうなったのでしょうか。昭和22年8月2日文部省発行の中学校教科書にはこう書いてあります。

「今度の新しい憲法は、日本国民が自分でつくったもので、日本国民全体の意思で自由に作られたものであります。この国民全体の意思を知るために、昭和21年4月10日に総選挙が行われ、新しい国民の代表が選ばれて、その人々がこの憲法を作ったのです。それで新しい憲法を作ったのです。それで新しい憲法は国民全体で作ったということになるのです」

どうですか、国は平然と国民に大嘘をついて教えていたのです。これがのち、のちまで日本の学校の歴史教科書に嘘が書かれ、嘘が嘘を呼ぶのが現実となってしまった。どうしても戦前戦中の日本を徹底して悪に貶める教科書が誕生しつづけ、一例は全歴史教科書が「従軍慰安婦事件」を掲載。これではなんとかしなければいけないと国民の支持で20年前に立ち上がったのが「新しい歴史教科書をつくる会」なのです。安倍総理も議員時代は、「つくる会」の積極的な支持者で、「つくる会」の季刊誌にも投稿してくれ、激励してくれたこともあった。私も安陪議員に面会しお礼を言ったこともあるのだ。しかし総理になるとアメリカ政府の太平洋戦争史観に従っているだけなのだ。それが安陪総理の「村山談話」と「河野発言」の容認、首相自身の「70年談話」でもわかるし、今度の憲法改正提案でもわかります。

5.私は憲法学者ではないので「占領軍憲法」の弱点を一々取り上げて論評することはできません。しかし一読してどうもこれは、占領国が敗戦国の日本を差別して作った憲法、どうしても日本国が自分で作った憲法でないと察することができる条文があります。憲法の前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と書いてあります。
いいですか、普通、ある国家が諸国民と言ったら近隣諸国のことです、日本はシナ、朝鮮、ロシアなどと何世紀と付き合いがあるのです。その近隣諸国の公正と信義を信頼して、日本の安全ばかりでなく生存まで彼らに委ねているのです。こんなバカな条文を日本自身で作ると思いますか。結局、アメリカは、戦勝国になったばかりだし日本を舐めきっているから書ける条文です。

ところで、皆さん、私が憲法改正反対のためになぜ、三つの話題、一、スターリンへの感謝状、二、日系アメリカ人の強制収容、三、アメリカ占領軍(GHQ)の日本統治、の話を持ち出したか、わかりますか。日本人は戦場で敵を驚かすほどの強さを持っていた、しかし、一旦負けて捕虜になったり、本土が敵の占領地になったりすると、からっきし弱くなってしまいます。私はこれらの日本人を「世界一変わり身の早さで権力者に迎合、妥協し、時には卑屈さを通り越し卑屈さを前面に押し出す」と酷評しました。読者の方で、これに変わる良い意味での表現があれば教えてください。私はこの弱さの原因は、日本は古来から無慈悲な独裁者から徹底的に搾取され続けた経験がないからだと思っています。
キリスト教の宣教師たちが、日本にやってきたとき、「彼らは皆一様に貧乏だ、だが民度は高く、誇り高い民族だ」と日本人のすばらしさを本国に知らせています、明治時代にやってきた外国人が日本民族を褒めあげるのも何度も本で読んでいます。もともと日本民族は誇り高い民族であったのだ。その誇り高い民族が、大東亜戦争の敗戦ですっかり落ち込んでしまった。戦後70年もたった今は経済が戦後直後より大発展し、国民は食うに困るわけでもない、何でもできるし、なんでも発言できる、そのため日本民族の誇りはもどりましたか?冗談じゃない、誇りがもどるどこらか、さらに悪くなり、日本への誇りなどなくなってしまったのだ。
いいですか、戦前、戦中の日本をどうしようもない悪い国にするために、海外で「起こらなかった事件」を「起こった事件」にして日本政府を批判したり、日本政府にお金を支払わせたり、あるいわ謝罪させることが度々起こし、それを歴史教科書に堂々と載せるのだ。それが度をこして現在では、占領軍が作った「日本憲法」にノーベル平和賞まで与えてくれと叫ぶ日本人グループが存在しているのだ。

ソ連の日本人捕虜収容所で6万人以上の日本人が「スターリンへの感謝状」を書いた。そこにはそこまで書くかというくらい、うそも方便の卑屈なまでのおべんちゃらを書いているのだ。もし彼らが現在まだ生きて、現在の日本の姿を見たら、間違いなくこう言うでしょう。
「私たちはいつ死んでしまうかわからない地獄の極限状態で暮らしていたのだ。だからはからずも、極度に卑屈な言葉を書いてしまった、今となっては申し訳なかったと思っています。ところ現在の日本は、私たちの地獄状態の生活と違って極楽状態の生活をしているようなものです。それなのに何故史実として存在しなかったものを(あったことにして)謝罪したり、お金を払ったり、歴史教科書に書いたりするのですか、占領軍の作った日本憲法にノーベル賞を上げてくれだと、あなたがた日本人は気が狂ったのですか。」と必ず言われるでしょう。

現在の日本人は、国際スポーツの試合で日本を応援すれば、それが愛国心だと思っているのだ。愛国心もなければ、日本人としての誇りもありません。ただやたらと日本をけなし、日本を卑下する人が多すぎます。私たちはこの健全な愛国心や誇りを取り戻さねばなりません。それには、憲法改定とか言って、占領軍の作った「日本国憲法」をいくら継ぎ接ぎして改正しても洗脳された者、あるいわ洗脳されたふりをしている者を正気に戻すことはできません。現憲法が生きている限り、自虐史観は絶対になくなりません。やはり現憲法を無効にし、明治憲法の改正か、あるいは新憲法を制定するしか道はありません。保守の皆さん、最初からその目的ではなかったのではありませんか?しかし70年近くも現憲法を使ってきて、いきなり無効ではと心配するむきもありますが、要は国民と国会が一致すれば問題ありません。憲法違反の自衛隊を半世紀も使ってきたではありませんか。私は強く主張します。占領軍が作った 日本国憲法を無効にして、新憲法制定か、明治憲法の改定です。そして「太平洋戦争」という日本国家のくびきから解放して「大東亜戦争」という自らの生き方を選ぶ新しい日本を作りましょう。私はアメリカとの同盟はとても大事で重要だと思っています。しかし現在の日本は、あまりにも、あまりにもアメリカのポチ的存在が強すぎます。今のままでは日本人は、二流のアメリカ人に成り下がるだけです。現憲法を無効にして真に独立した真正日本を作りましょう。

安倍総理の改正条件が全面的改正ではなく、憲法9条の1項、2項はそのまま残し、3項を新設という案です(5月3日の総理発言)。追加3項の内容は、自衛隊の根拠規定を追加して、自衛隊が憲法違反と言われないようにするためです。非常に簡単な改正条件だから、それだけに現実的でいいという声が聞こえてきます。私が冒頭に書いた終戦直前直後の三つの事件のケースは、それこそ現実的でいいから、徹底した迎合、妥協の結果、卑屈なまでに陥ったのではないですか。今回改正条件が簡単、明解なだけに現実的に良いからと言って、国際法違反の憲法、占領軍の作った憲法にケチをつけるなという検閲された憲法を改正したら現憲法は、正真正銘の日本製憲法になってしまいますよ。私たちは、一度憲法問題で大失敗しているのです。日本が独立を回復した時(昭和27年)、現憲法を廃棄し、新憲法を作るべきだったのです。できなかった理由は、日本人は、原理原則や法律に固執するより、妥協、迎合しがちで現実的に対処してごまかしたがるからです。だから今回はそれでは、ダメですよと国民をいさめるのが知識人の役目でしょう。それができなくて何が知識人だというのですか。知識人自らが安倍総理にこびているのだ。私はいずれ自分のブログでふらちな保守知識人の名前をあげて罵倒するつもりです。その時には知識人とは、どういう人間を言うのか書くつもりでいます。

最後にひと言。上記のスターリンへの感謝状、日系アメリカ人の強制収容、アメリカ占領軍(GHQ)の日本統治は、拙著「逆境に生きた日本人」(展転社、平成20年、2000円)を参考文献に使いました。この本は、上記の三つ以外に他の件も扱っていますので目次を紹介します。第一章 戊辰戦争とアメリカ南北戦争、第二章 アメリカ軍による日本占領時代、第三章 日系アメリカ人強制収容、第四章 シベリア捕虜強制労働収容所、第五章 日本民族の資質、第6章 日本民族の資質が生んだ「自虐史観」。
この本の原稿を書いていたのが平成19年ごろ、ちょうどその頃に西尾幹二先生に「私が主催している坦々塾に入会しませんか?」と声かけられ喜び勇んで入会いたしました。せっかく西尾先生の面識を得たばかりなのに厚かましくも、この本の出版の時、西尾先生の宣伝の言葉を入れたいと思い全原稿を見せました。西尾先生は、「わかった、自分で宣伝したい文章を書いて見せてくれ」と言われて書いた宣伝文章が本の帯に書かれています。次の様な文章です。
「私は著者の名前を評判をよんだ労作『大東亜戦争は、アメリカが悪い』で知った。今度の作品もすばらしい。戦中戦後、強圧権力の下で示した日本民族の行動をするどく分析、我々に猛省をせまる」西尾幹二

この本は348頁、ハハードカバー、価格2000円+税ですが私にはまだ在庫がありますので価格1500円(印税も郵送代もいりません)でお売りいたします。希望者は私あてのメール、あるいはこのブログあてにお申込みください。

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