私の死生観

昨日は私の誕生日、満71歳になりましたが、私自身まだまだくたばるつもりは毛頭ありません。そこで今回は私の死生観を披露してみます。私のブログには若い読者ファンもかなりいますので、その方々には、死は、はるか先で興味薄いかもしれませんが、私なりの死生観を持ち、それを毎日の行動に反映させている変わり者の老人がいるぐらいの軽い気持ちで読んでおいてください。
私の同年輩の方々、また私の先輩にあたる方々に御聞きしたい。あなた方は、人間の死後の世界を信じますか。天国だとか地獄など信じていますか、あるいは自分の死後は、肉体は焼かれるけど魂は残りますか、残った魂は、人間の目には見えませんけど、どこをうろついているのでしょうか。「自分は天国に行けるだろう」と思っている人もいます。自分勝手に天国に行けるだろうと思っている人たちに対して皮肉をこめたジョークを紹介します。
天国行きか地獄行きかを決める別れ道の所に番所があります。神さまが派遣した鬼が門番をしております。その番所の前には死んだ人間が毎日長蛇の列で並んでいます。門番が一人一人に質問を浴びせて天国行きか地獄行きを決めているのです。今日も門番が一人の男に「現世での君の仕事は、なにかね」と聞きました。正確に答えないとすべて神様は御見通し、地獄行きを命ぜられてしまいます。その男は正直に答えました。「私は神風タクシーの運転手でした」。
門番はすぐに天国行きを命じました。門番は次の男に同じ質問をしました。「私は牧師でした」門番はすぐに地獄行きを命じました。
牧師は門番に文句を言いました。「前の人は、神風タクシーの運転手で天国行きで、牧師の私はなぜ地獄行きなのか」
門番が答えて曰く、「神風タクシーの運転手の車に乗った乗客は、事故が起きないよう一瞬神に祈った、しかしあなたが教会でする説教には、ほとんどの人が居眠りをしていた」
このジョークをどう解釈するかは、読者しだい、ただのジョークと解釈する人もいるでしょうし、意味深にとらえる人もいるでしょう。
話を元にもどしましょう。人間の死後はどうなるのでしょうか、死後の世界があるのでしょうか、ないのでしょうか。皆さんはどのようにお考えでしょうか。私の考えが多分正解だと思うのですが、皆さんあまり私の考えに同調したくないようです。私の考えは、人間には、いやあらゆる動物には、死後の世界はありません。人間が死ねばゴミになるだけの話です。人間は生まれ時かゴミを此の世にはき出し、死ぬまでに大量のゴミをはき出し続け、死んだ時は、自分がゴミになるのです。それも生ゴミです。すぐに腐って異臭を放ちます。だから土葬、現在ではほとんど火葬されます。
私が死ねば、家族や友人は私のために葬式をあげてくれるでしょう。それは私という死者に敬意をはらってくれるわけです。彼らの胸の中に私の姿が深く、あるいは浅くきざまれるでしょう。その姿はゴミの姿でなく実在していた時の姿です。国のために戦場で亡くなった兵士、多くの人々は、直接に関係があるわけではありませんが、感謝の気持ちをささげます。その時私たちは、死者を直接知らないからと言ってゴミを連想するわけではありません。
しかしながら戦場で死のうが、病院で死のうが人間が死んだ時は、ゴミになったことなのです。この私の死生観は、よくいわれる「人間は生きているうちが花、死んだらおしまいよ」につながります。死んだらゴミになるからおしまいなのです。死後の天国、極楽、地獄などは、欲深い人間が作り出した妄想に過ぎません。また大昔、人間が大自然の中を生き抜くことは血の出るような苦しみの連続で、娯楽など何一つ期待できなかった。その反動で死後に安楽な世界を作ったとも言えます。
人間は死んだらゴミになるという私の死生観は、生へのこだわりを生みます。年をとっても元気で生を謳歌したいという気持ちが非常に強い。その結果として体を鍛えることになります。私は55,6歳の頃、中高年の野球チームに参加、以来69歳まで野球していました。その他にも色々と体を鍛えてきました。私は現在、床に鼻先をつけた腕立て伏せ50回、腹筋100回できます。無理をすれば腕立て伏せ53,4回、腹筋103,4回ぐらいできるでしょう。しかし、その後、心臓がハーハー、フーフー言います。この年で心臓に負荷をかけすぎていいのだろうかという不安がよぎります。
そこでとりあえず、腕立て伏せは50回、腹筋100回はいつでもできる状態にしておくことにしています。その他に自分なりのラジオ体操するのですが、両手に500グラムの重り一つづつを持って体操しています。もう完全に苦もなくできますので、夏が終われば、両手に1キロの重り一つづつを持って体操する予定です。
その他に毎週1回外での走りを中心にした運動があります。真夏は暑くて走るわけにいきません。私は基本的に毎日9時寝の5時起きです。5時に起きて起伏の多い場所を1時間ぐらい歩きます。秋になると近所の公園に1周80メートルぐらいのグランドがあります。そこで全速力で走るダッシュをくりかえします。まだ小学5年の孫娘には勝てます。野球やっていたおかげでしょう。冬になるとゆっくり走るジョッギングを約1時間、春になるとまた全速力で走るダッシュ、夏になると朝の散歩、これを何年も繰り返しています。その他に私の机のそばに5キロの鉄アレイが置いてあります。執筆の合間に何十回ともちあげたりしています。5キロが軽くなったので今度6キロにしようと思っています。
年老いた人生を長く健康的に生を謳歌するための継続的な努力を怠りません。脳の老化も防がなくてはいけません。それにはよく本を読み、よく書くことが最適だと言われています。これは毎日行っていますので問題はありません。あと一つ重要なことがあります。男の年寄りに一番欠けているものです。それはおしゃれです。年を取ればとるほど人間はきたなくなる。ところが男の年寄りは、きたなくなるくせにおしゃれに気をくばりません。おしゃれは若々しく見せます。
私は若い時はおしゃれでした。私の年代だとサラリーマン時代、皆がマージャンをしていたものだ。しかし、私はマージャンを全くしません。おしゃれが趣味みたいなものでした。今のような真夏なら真っ白な上下のスーツを着て、白の靴下と白の靴を履いて会社に通っていた。朝の通勤で白靴を踏まれないように朝早めに出勤さえした。こんな格好も外資系の会社のせいか文句も出なかった。30歳を記念して鼻の下にひげをはやしていた。だから当時の若い時の私は、良く言えば格好よかった、悪くいえばキザな男ともいえた。こんな真っ白なスーツ姿でお客さんの事務所に訪問していました。
口の悪いお客さんには、
「えんだんじさん、うちはタレント事務所じゃありませんよ」などとも言われもした。クラブやスナックに行っても、最初は誰もサラリーマンとは思わなかった。それを逆手にとって、初めて訪れたクラブのホステスに「俺、赤坂と六本木でクラブ経営しているんだが、いまいい子(ホステス)探しているんだ、あなたとちょっと話がしたいので電話番号教えてくる」と言ったら、なんの疑いも見せずに彼女は、自分の名刺に電話番号書いてそっと私にくれるではないか、それを上司に自慢げに話したら、「君、商売がえした方がいいよ、クラブのマネージャーでもやれば」
思わず脱線してしまいましたが、年をとってもおしゃれの方も万全です。このようにして体を鍛え、脳の老化を防ぎ、おしゃれをして老後を生き生きとして徹底して長生きしていくのだ。しかし私には心配事がある。癌です。私の母は、三つも癌の手術をして痛みに苦しめられながら死んでいった。癌は遺伝的体質があると言われています。幸い二人の妹も私にも癌の兆候はありません。例え癌に侵されなくても必ず死ぬ時がきます。
私が死ぬときの基準は、自分でお風呂に入ることもできず、自分の下の世話ができなくなった時と決めています。その時。私は自らの意志で食を断ち死んでいくつもりです。現在90歳以上で寝たきりになっている人たちは、脳の衰えもそうとうひどくなっているから寝たきり生活に耐えられているのではないかと思います。もし正常の脳が作動していたら寝たきり生活に耐えられず、食を絶って死んでいくのではないかと思っています。従って脳の老化を防ぐのも非常に大事なことではないかと考えています。
なぜ食を絶って死んでいくか、安楽死が法的に許されていないからです。老人が自分の病状を判断して、死を望んだら、医者はそれを妨害すべきでなく安楽死をさせるべきです。
人間は、動物の死に際の潔さをもっと学ぶべきです。空を飛んでいる鳥を見てください。皆元気な鳥ばかりです。鳥も年をとります。少しづつ若い鳥についていけなくなっているはずです。それでも取り残されたくいないために無理して飛びまわり、ついてゆけなくて鳥が空から落ちてくることは絶対ありません。鳥自身が自ら判断して死の近づきを感じ、恐らく山奥の中で静かに自分の死を待ち受けているはずです。
セミに寿命は1週間とか10日とか言われています。10日後には、大木の下はせみの死骸だらけでしょうか。寿命の短いせみたちは、一体どこに消えたのでしょうか。死期をさとったセミたちは、人間にはわからない死に場所へ行ったのでしょう。野良猫、野良犬は、日本全国に沢山いるはずです。彼らも年をとり、死にます。しかし私たちは、彼らの死骸など見ることありません。見る死骸は、ほとんどが交通事故にあった野良猫や野良犬です。年を取り、えさを探しながら息も絶え絶えに歩いている野良猫や野良犬を見たことありません。死期が近づくと彼らも静かにどこかへ消えてゆくのです。
ところが人間の世界では、年をとった老人が病にかかり、自分の死期をさとり安楽死をして静かにこの世から消え去ろうとしても、その安楽死を法的に許さないのだ。こんな非情な話はありません。身寄りのない90歳過ぎの老人がただ息をしているだけで延命治療するのは、医師や病院の金儲けの対象物でしかありません。昔エスキモーの世界では、白銀の世界のため皆、目をやられ白内障になる。老人が白内障悪化で全盲になった時点で、その老人は皆の移動についてゆくと足手まといになるためその場を死に場所と決めます。
身内も了解します。非情でもなんでもない自然の掟なのだ。昔にもどればもどるほど、自然や社会の掟による死があった。それが現在では医学の進歩のため、死に体同然の体に延命治療を施すのだ。私は、80歳以上、あるいは90歳以上の老人には、自分の死期を決める権利をあたえるべきだと思っています。高齢者老人の安楽死を認めない理由がわかりません。
プロスキーヤーの三浦雄一郎氏は、75歳でエベレスト登頂、聖路加病院の日野原医師は、90歳すぎても現役医師です。私はこの二人に負けないくらい徹底して生を謳歌して元気で長生きしてやるぞ。なにしろ「人間は、生きているうちが花、死んだらゴミになるだけだ」
えらそうなことを書いてきましたが、いざ自分の死期が迫った時、醜態を見せねばいいがと思っています。

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