短編小説(2) 「二人の芸者」

あの頃、芸者お春は、確か62,3歳だったと思う。北関東の榊原温泉では一番年上の芸者だ。それでもお春にはお座敷がかかった。勿論夕食時にお客に酌をする若い芸者に混じることは絶対にない。お春が必要になるのは、夕食後の宴会の席であった。その頃カラオケがまだ流行っていなかった。宴会の席には鳴り物が必要です。お春は三味線が弾けた。その三味線が重宝がられたのだ。なにしろお春は、14歳の時、まだ中学を卒業しないうちに秋田から出てきて深川の置屋で芸者の修業し、以来50年芸者生活一筋の人生だった。いまの若い人に、置屋(おきや)と言ってもわからないかもしれない。置屋とはいまで言えば、芸者専門のプロダクションといえばわかりやすいでしょう。お春は、日本舞踊はできるし、三味線もプロ並です。今の若い芸者は、特に温泉芸者ではまれに舞踊できる芸者がいるが、三味線弾ける芸者などほとんどいません。カラオケのない時代は、お春の三味線が重宝して、62、3の婆さん芸者でもお座敷はかかったのだ。

お春は自分でお座敷に出ると同時に置屋を営んでいた。置屋を営むと言ってもお春の配下の芸者はたった一人、花江だけだった。当時榊原温泉には、芸者が全部で4,50人ぐらいいただろうか。その中で花江が一番の売れっ子芸者だった。お春にとって自分の置屋の芸者は花江一人だが、彼女が一番の売れっ子芸者ということで自慢だったのではないかと思う。その花江と俺とは懇ろの関係だった。花江は、自分の息子がまだ乳飲み子の時、息子を彼女の妹夫婦に預け、つてを頼ってお春のところやってきた。その理由を俺は聴かなかったが花江も話そうとはしなかった。彼女は温泉芸者の経験もなければ、水商売の経験もなかった。花江がお春の所へ来たその日からお座敷にあがった。何もかもぶっつけ本番だった。それができたのもお春がそばにいたからだ。お春は芸者歴が長いから着物を沢山持っている。今でも花江は自分の着物を持っていない。全部お春の借り物、それにかつらをつけてお座敷に出る。着物の着方、お座敷での歩きかた、座り方、挨拶のしかた、お酌のしかた、などすべてお春しこみだった。お春の教えも厳しかったが、花江の飲み込みも早かった。勿論息子かかえて一人で生きていかなければならい必死さもあったと思う。花江は三味線が弾けないのでお座敷で踊る踊りを覚えなければいけないと言ってお春は、彼女に踊りも教え込んだ。俺が花江とねんごろの関係になったとき、花江がこの温泉場で芸者になって5,6年たっていた。その時花江の踊りのレパートリーは3曲、これを5曲にしたいと花江は意気込んでいた。

お春の所へはいままでに何人か芸者になろうとやってきた。しかしお春は、年はとっていても自分は本物の芸者という誇りがあるから、温泉芸者を育てるつもりは毛頭なかった。したがって厳しい教えになる。ところが今の若い人には、その厳しさに耐えられない、また本人も本物の芸者になるつもりはないし、着物きてかつらつけて仕事をして見たいとい軽い気持ちが強いし、ということで誰もお春の下では長続きしなかった。ところが花江は違った。お春の厳しい教えについてきたのだ。二人は馬があったのも一因かもしれないが、今ではお春には身寄りがないので花江は自分の娘のような感じだし、花江は花江で自分が芸者になって稼げるようになり息子をあずけてある妹夫婦に仕送りができるようになったのもお春のおかげ、花江はお春のことを「お母さん」、「お母さん」と呼んで実の親子関係のようになっていた。

花江は俺にこんなことを話したことがある。
「あたしねぇ、お母さんのところで芸者修行して本当に良かったと思う。芸者修業と言っても昔の修業とちがうけどね。なにしろお母さんとこへ来たその日からお座敷に上がるぶっつけ本番の修業でしょ。お母さんを見ていて、『本物の芸者はつくづくすごいなぁ』と思う。昔は大体中学卒業するかしないかの14、5歳で芸者に売られていくでしょう。めったに故郷に帰ることもなく置屋の下働きをしながら、躾を学び、三味線や踊りなど本格的に勉強して芸者になるんですからねぇ。
或る時いじわるそうなお客さんがいてね、お母さんの三味線を聴いて、おかあさんに『三味線はうまいけど、小唄など三味線に合わせて歌えるの』などといかにも歌えないだろうという口のききかたをしたのよ。そうしたら、お母さん平然として、『小唄の題名を言っていただけたら多分歌えるとおもいます。人気のある小唄はけっこう歌っていましたからね。小唄の題名をいただけなければ自分の好みの小唄でも歌いますけど』、そしたらそのお客さん、三つの小唄の題名を出し、『どれか一つ歌って見てくれ』と言ったの、お母さん、なんと三つともきれいな声で三味線弾きながら歌ったのよ。私は心の中でお母さんに拍手喝采しちゃったわよ。
お母さんはいつも言ってるわ、売れっ子芸者になるには容姿がすべてではない。もちろん容姿は重要な部分占めるけど、それだけじゃないのよ。お座敷での身の処し方、言葉使い、お客さんとどんなに親しくなっても、出しゃばるな、控えめにしろ、などその時々でいろいろ忠告を受けてきました。私は、時にはうるさいと思いながら従ったわ。私より容姿がいいのは自分がいうのもおかしいけど、数人いるは、だけど指名が一番多いのは私なのよ、私がいま一番売れっ子なの、これすべてお母さんのお陰。私、お母さんの方へ足を向けて寝られないわ」

そのお春に彼氏ができたのだ。彼氏ができたというより彼氏が帰ってきたと言った方がよいかもしれない。花江にはなんとなく面白くなかった。花江には、お母さんとの仲を割かれるような気がしたのかもしれない。花江の話によるとこうなのだ。
「お母さんはね、戦前は香港で芸者してたのよ。その香港で陸軍憲兵大尉の山さんと恋仲になり、山さんが日本に帰るとき、お母さんは芸者をやめて日本で結婚式をあげるつもりだったの。ところが戦争が始まり、山さんはインドネシアに送られることになった。山さんの勧めで、お母さんは先に日本に帰り、山さんの帰りを待つことになった。日本に帰ってからお母さんは、山さんの連絡先に手紙を出し、手紙の交換をしていたが、そのうち連絡がとれなくなってしまったんだって。いずれ東京も空爆を受けるだろうというので、お母さんは、自分を可愛がってくれる先輩芸者の出身地群馬県に疎開してさ。その疎開先から先輩芸者と二人でこの榊原温泉で働きだしたところで終戦を迎えた。終戦翌年の夏、お母さんは、この温泉場で山さんと偶然出会ったのよ。二人ともびっくり仰天、まさに奇跡よねぇ。なにしろ連絡が途絶えて後、お母さんが出したこれまでの手紙に対して山さんから返事もないし、返事もないどころか、生死さえわからなかった。だから榊原温泉にいるとなど一言も書いたことがないのよ。一方山さんは、敗戦後は元陸軍憲兵大尉でしょ。憲兵は戦犯として一番ねらわれた軍人というではないですか。進駐軍や警察から追われ身よ。まさにテレビのドラマじゃないけど逃亡者よ。その逃走中にお母さんのいる榊原温泉にひょっこりやってきたの。まさに因縁、それも深い因縁があると二人が考えても不思議ではないわよね。二人はここで一月間ぐらい暮らしたのよ。お母さんはもっと一緒に暮らしたかったけど、あまり長居するとうわさになるというのでここを去っていった。そのときお母さんは、なけなしの貯金を逃走資金として山さんの手に握らせておくったのよ。

それ以来山さんから連絡一つもなし、捕まったのか、無事に暮らしているのか全くなにひとつ連絡ないのよ。あれから30数余年たって山さんが定年退職したらひょっこりお母さんに会いにこの温泉場に来たのよ。そんなことあっていいのかと私は言いたいのよ。アメリカ進駐軍が日本を去って、あるいは日本が独立回復してもう何十年も経つのよ。うまく逃げのびたら、お母さんの所へ来るなりあるいは手紙でさぁ、『あの時はお前のお陰で助かった』とひとことぐらい挨拶があって当然じゃないの。それが定年になったらひょっこりお母さんに会いにきたりして、私は山さんを許せないわよ。それ以来山さんは、お母さんの所へちょくちょく来るようになったの。その度に私も山さんに会うから彼の品定めをしましたけどね、私は山さんがちょくちょくお母さんに会いにくるのは、お母さんが元気で働いているから、お母さんのお金が目当てやってきているなとわかったんです。私はお母さんによく言ってやるの、『山さんはね、お母さんのお金が目当てで会いにくるのよ。お母さんは、もう年だからいつまでも働けるわけがないのよ、年とったらお金が余計大事にしなければだめよ。山さんにみつぐようなことはしないでね。』
それでもおかあさん、山さんが来ると嬉しがるし、また楽しそうなの。お母さんがいじらしくなるし、また悲しくもなるの。今頃では山さん、ずうずうしくなってちょくちょくやってくるのよ。この間など自分の息子までつれてきたのよ。『昔俺がつきあっていた芸者だ』などといいかっこしたかったんじゃないの。置屋のお母さんの旦那さんや彼氏のことを、芸者は皆『お父さん、お父さん』と呼ぶのね。私も山さんのことを『お父さん、お父さん』と呼んでいるわ。山さんはこれまで『花江さん、花江さん』とさんづけで呼んでいたのが、いまじゃ「『花江、花江』と呼び捨てよ。冗談じゃないわよ。私はお母さんのことを立てて『お父さん』と呼んでやってやるのに、なにが『花江』よ、とにかく山さんはひもよ、ひもも若ければ可愛げがあるでしょうが、年寄りのひもは薄汚いだけ、最低だわ」

こんな話を花江から聞かされて、俺は東京に帰った。それから二、三ヶ月たった秋の紅葉狩りには最良の日に俺は榊原温泉に行った。通常俺は前もって花江に連絡して大概金曜日の仕事終えた後、榊原温泉に向かい金曜の夜と土曜の夜、花江のアパートに泊まり日曜日のお昼頃東京に帰った。しかし今回の榊原温泉行きには、ある計画があった。ある計画とは、花江を驚かす計画だった。今回は花江には一切連絡しなかった。俺は温泉街のあるホテルを自分で予約した。そして夕食時には芸者を一人侍らせる予約した。勿論花江の指名だ。その日なにも知らない花江は、定刻の時間に俺の部屋の唐紙を「今晩わぁ」といいながら開けて入ってきた。唐紙を開けた瞬間、花江と俺の目があった。驚いた花江は満面に笑みを浮かべて、「あらー健さんじゃないの、ちょっと、ちょっと、これどうしなのぉ?」
「どうしたのって、俺が花江を指名しただけださ」
「それはわかっているのよ、わかっているんだけど、まだ驚きから目が覚めないよ、あたし、どうしよぅ、なんだかはずかしいわぁ」
俺は俺で花江の正装した芸者姿をしげしげと見るのは初めてであった。花江はいつも芸者姿に正装するときは、自分のアパートで顔の下ごしらえして、お春の所へ行き、着物を着、かつらをつけてお座敷にむかった。お座敷が終わるとお春の所へ先に帰り、普段着に着替えてアパートに帰ってくるのが習慣だった。だから正装した花江の芸者姿をちらっと見たことは何度もあるが、今回のようにまじまじと見つめたのは初めてであった。「花江の芸者姿をじっくり見るのははじめてだけど、さすが売れっ子ナンバーワン、見事に美しい、魅力的だ。俺は花江に惚れなおしたよ」
「あらぁ、健さんにそんなこと言われてどうしよう、うれしいやらはずかしいやら、どうしていいのかしら、いやぁ、どうしよう」、花江は俺に突然会えたうれしさ、芸者すがたをほめられたうれしさとはずかしさ、そんな感情が入り乱れた複雑な表情としぐさは、まるで私にいわせれば、まさに壁に掛けた一幅の絵、いや一幅の動く絵のような可憐さと美しさがあった。
「早く俺にお酌をしたらどうなんだ」
「あら、そうそう失礼いたしました」と、俺の席のそばにきてお酌をし、その杯を花江にむけて「一杯どう」と杯を向けると、「あたしね、健さん知ってのとおり、いける口でしょう、一杯どうぞなどと言われると喜んでいただいちゃいますけど、今日はねぇ、そうはいかないのよ。健さんとさぁ、二人きりでお座敷でさぁ、さしつ、さされつ杯を重ねるなんて思うと胸がいっぱいで、そう簡単にすぐには飲めないのよ、なんとなくはずかしいのよ。あぁ、そうだ、お母さんを呼ばなくちゃ、ねぇ、お母さん呼んでいい」と云いながもう電話口に向かっていた。
「お母さん、お母さん、あたし、健さんのお座敷にいるのよ、あたしを指名してくれたの、お母さん、そこあいたらいらっしゃいよ、そう、その部屋、じゃあね、待ってるわ」
「お母さんすぐ来るって、お母さんはね、健さんがお気に入りなの、『健さんが来てるよ』というとすごくよろこぶのよ。健さん、もてるわねぇ。」
「バカ言え、金がない俺がもてるわけがないだろう。ただ俺は年寄りの話はよく聞いてやるだけだよ」

事実俺には、金がなかった。ただ花江やお春さんと、温泉街で何か食べたり飲んだりすれば、俺が払う、最低限の支払いをしていただけだった。それだけに今回俺の花江の指名には彼女を仰天させたし、またそれだけうれしがらせもしたのだ。お母さんが「今晩わぁ」と部屋に入ってきた。
「健さん、お久ぶりです。まあ、電話の花江の声、まるでうわづっちゃって、すぐに健さんが来ているなとわかりましたよ」
「へぇ、お母さん、私の声で健さんが来てるのわかるのぉ」
「わかりますよ。あの喜びいさんだ声。その素直さが花江の可愛いところですけどね」
「健さん、お母さん私のこと可愛いって、健さんもそう思う」
「可愛いなんてもんじゃないよ、思わず抱きしめたいくらいだ」
「まぁ、嬉しい、きょうわ楽しい日だわ、それにさ、三人でお座敷パーティーだなんて初めての体験でしょ、さぁ楽しくもりあげなくちゃ、さぁ、健さんとお母さん、一杯どうぞ」
「そうだ、楽しくもりあげの手始めに、花江、俺に花江の踊りを見せてくれよ」
そう言ったら花江が急に真面目な顔をして「ごめんなさい健さん、あたし今日恥ずかしいのよ。他のお客さんから踊れといわれれば、堂々と踊れるのに健さんの目の前で踊れと言われると、もうはずかしいのよ。踊る前にこんな気持ちになったのは初めて。ごめんね、今回は勘弁して」するとお母さんは、「花江、せっかくの健さんのご所望だから踊ってあげなさいよ。健さんね、花江はね踊りの筋がいいのよ。なにしろ覚えが早い。踊りを教えていてやりがいのある子なのよ」
「お母さん、そんなこと言わないでよ、健さん余計に私の踊り見たがるでしょ」そこで俺は、わざと機嫌を悪くして、冷たく言い放った。「花江、他の男の客には踊りを見せることができるくせに、俺には踊りを見せられないと言うのか。俺は花江を喜ばせようと思って花江を指名しに東京からやってきたんだぜ、花江はそんなに冷たい女だったのか、
俺のために踊りたくなかったら踊らなくていいよ」今まで笑顔だった花江の顔がひきしまった。「そういうことを言われてまでも踊らないとなると、花江姉さんの芸者の顔がすたるというものですね。それでは踊りをお見せいたしましょう。そのかわり健さん、私の踊りの魅力に驚いて気絶などしないでくださいよ。気絶してもあたしは介抱してあげませんからね。覚悟してくださいよ。それではお母さん、私の18番、三味線お願いします」。三味線の音色が始まり、お春さんの歌声と同時に花江は踊りだした。踊り出して数十秒ぐらいたっただろうか、突然どさりと畳のうえに崩れてしまった「ダメダー、もうあたしダメ、はずかしいのよ、踊っている最中に私の目と健さんの目があったら、もうダメはずかしさでぼぉーとなっちゃってなにがなんだかわからなくなっちゃって、この年でまだあたしにも恥ずかしいという気持ちを持っているなんて、あたし幸せね」などと言ってちょっと涙声になっているではないか、そして額には大粒の汗が光っていた。そこで俺は、「お春さん、花江はちょっと動揺しているようだから、花江にちょっと時間をあたえて彼女をこの部屋に残し、二人でどこかへ飲みに行こうよ」
「せっかく健さんの前で踊るというのに残念ね。花江、健さんがそう言ってくれるから、二人でどこかに飲みに行っているからね、お前、このあともお座敷があるんでしょう、落ち着きなさいよ」
「ハイ、お母さん、だいじょうぶよ」花江は私のそばににじりより、私の手をとり、「健さん、ごめんね、本当にごめんねぇ、許してぇ。せっかく健さんに指名してもらったのに、お座敷をだいなしにして、あたし、体中あせだらけ、顔の化粧も直したいし、ごめんねぇ。お母さんと二人で飲んでいて、お座敷終わったらあたしもそこえ行くから」とまた少し涙声になっていた。

俺は花江に店の名を教えてお春さんを連れだした。
「健さん、ご迷惑かけてすいません。健さん、御願い花江を許してあげて。花江はねぇ、芸者の正装してお座敷で健さんと一対一で会うのがなんとなくはずかしいのよ。芸者とはいえ、花江にとっては水商売が初めてでしょう。まだうぶなところがあるの。またそこが花江の可愛いとこですけどね。花江は本当に素直でやさしい子。もう親も死んで独り身になった私には、この年でいい子にめぐりあえたと感謝しているくらいなの。花江にとって私は彼女の恩人同然。なにしろ花江は、身一つで私のところへ飛び込んできたも同然。今でもお座敷に着ていく着物はすべて私の物です。だから花江は私を大事にしなくてはいけない存在です。だけどねぇ、健さん、長く一緒にいるとね、花江は私が恩人だから大切にしなくてはいけないと意識しての行動ではなく、本心から私を大事にしようと自然に出てくる行動だということがわかるのよ。花江はねぇ、本当に気立てのいい子ですよ。だからねぇ、健さん、花江をいつまでも大事にしてあげてください。御願いします。花江は心から健さんに惚れていますよ。私わかるのよ」

それを言われると俺はつらかった。花江は自分の息子を妹夫婦に預け、仕送りをしていた。彼氏を持つなら金のある男を選べばいいのだ。売れっ子芸者だし、そんな男を彼氏に持つのは簡単なはずだ、俺みたいなまだ若いサラリーマンなど彼氏にして、金銭的に得することはなにもなかった。また俺にしても花江に対して金銭的になにもしてやれないのがつらかった。そんなことお春にはとても話せなかった。

いつも榊原温泉に来る時は、花江に会うのが目的だった。お春に会っても会わなくてもどっちでもよかった。二人はいつも一緒だから花江に会いにくるとしぜんとお春に会うはめになるだけであった。しかし今回は、お春に会ってどうしても話をしたい目的があった。それはこの前花江が話しをしたお春の彼氏、山さんのことだ。俺は戦争について色々本は読んでいたが、捕まると戦犯になり有罪になる可能性が高いから日本国内を逃げ回ってうまく逃げのびた軍人の話は、本で読んだこともなければ聞いたこともなかった。そこでお春から、ぜひ山さんの話が聞きたかったのだ。居酒屋につくと俺は話題をその方向に向けた。
「ところでお春さん、お春さんの長い芸者生活の中でいつ頃が一番楽しかった。」
「それはもちろん、香港で芸者していた時ね」
「なにしろ山さんと恋仲になり、日本に帰ったら一緒になろうとしていた時だから香港時代が最高最良なのは当たり前だよね」
「あたしね、海軍さんの白の制服が好きでね。あの白の制服を着た海軍の軍人さんを見ると、ほれぼれしてね、男らしく、かっこいいのよ。だけど惚れたのは陸軍の軍人だったけどね」
「花江から聞いたんだけど、お春さん、山さんと連絡とれず、お春さんが榊原温泉にいるなんて知らせることができなかったのに、山さん、逃走中にこの温泉場に来たんだってね、まさに奇跡というか、二人にはなにかの深い因縁というか宿命というか、なんかそんな物があるんだね、きっと」
「あたしもきっとそうだと思う。でも山さんと出会った時は、本当にびっくりしたわ。どうしてあたしがここにいるのがわかったのと聴いたら、俺は今逃げているんだ。憲兵狩りにあっていると言うじゃない」
「そうなんだよな、戦後は戦争犯罪者、いわゆる戦犯者の烙印を最も多く押された軍人は憲兵だったというからね。戦前は権力があったから憎まれる原因にもなったんだけど。それにしてもよく逃げのびたよね」
「山さんの無二の親友が群馬県の旧家の出で、家屋敷が大きいから夜中に彼の所へこい、そこで暫く滞在して、その後の対策を考えようと言ってくれたらしいの。その後のことは私全然知らないの。山さん定年になって私の所に来るようになってまだ間がないでしょう。それに彼、昔のこと聞かれるのをいやがるのよ」
「聞かれるのを嫌がるのはよくわかるよ、なにしろアメリカ進駐軍や警察の追われ身だったしな、しかし進駐軍が去り、日本が独立回復した時点で完全に逃亡生活は成功しているわけで、それ以後30数年もうたつんだよ、その間にお春さんのところへ『あの時は世話になった、有難う』ぐらいの連絡があってもいいよね、また連絡するのが常識だよ」
「山さんが、私のもとを発つとき、私の住所を書いた紙切れを渡したの、そしたらこれをもらうわけにはいかない、自分の手帳にも書かない、もし俺がお前の住所を書いたものを持って捕まってみろ、お前はおれの逃亡を助けたにちがいないとお前にも捜査が及ぶぞ、
お前の住所は俺の頭の中にたたきこんだから絶対忘れないからと言って出ていったのよ。だけど逃走中にいろいろあったでしょう。覚えたつもりが忘れてしまったのよ。きっと。連絡とれなかったのもしかたがないのよ」
「なるほどねぇ、それは筋が通るわ。しかしさぁ、山さんとお春さんは香港時代に日本で結婚しようと約束したんでしょう、逃亡中にお春さんと出会って以来、山さんがお春さんに会いにこなければ、それでかまわないんだけど、定年後ひょっこりお春さんに会いにくるのなら、なぜもっと早くお春さんの所へきてさぁ、『あの時は有難う』とお礼の一つぐらい言いに来てもいい気がするんだけど。山さんが、ここを発つと時には、あの時は命よりお金の方が大事だったくらいの時期だよ。そんな時にお春さんは、逃走資金に役立ててくださいと渡してさ、以来山さんが逃げ延びるようにと毎日祈っていたんでしょう。横浜軍事法廷では沢山の戦犯が裁かれていたから、捕まって山さんがその被告の中にいるのではないか、もしかして獄中で山さんは、お春さんが訪ねてきてくれるのを待っているのではないかと気になって横浜へ行きたかったけどお金がなかったんでしょ。俺、花江から聴いてるよ。日本で一緒に結婚するって約束しておきながら、他の女性と結婚してしまって悪かったとお春さんに謝ったことあるの」
俺は瞬間言い過ぎたと思った。山さんの逃走経路を聞くつもりがこんなことを口走っていたのだ。お春は、それまで笑顔で話していたが、瞬間真顔になった。俺の方をじっと見ながら両目から涙を出してきた。
「お春さん、ごめん、ごめん、おれの言いすぎだ。俺、お春さんを泣かすつもりは全くないのだ。俺の悪いくせで、すぐずけずけと思ったことつい口にだしてしまうのだ。本当にすまなかった」といい終わらないうちに、涙を拭き終わったお春は、
「大丈夫よ、健さん、健さんの気持ちわかっているから」と悲しげな微笑をみせた。
「私はね、健さん、覚悟を決めているんです。覚悟ってこれからの私の生き方なんだけどね、花江はね、山さんは私のお金が目当てだと何度も注意をしてくれてます。その注意はしつっこいくらいだから、この前花江に『しつっこいわね、うるさいわよ』と怒鳴ってしまったんだけどね、健さん、私はね、花江に言われるまでもなく、山さんは、私のお金が目当てなの知っているのよ。でもね、健さん、私はもう独り身でしょ、誰も私を訪ねてこないのよ、だから山さんが私を訪ねに来てくれるのがうれしいのよ。だから私はね、これからも元気でできるだけ長く働いてかせごうと決めているの。そうすれば山さんが私を訪ねてきてくれるでしょ」
俺はもうなにも言えなくなってしまった。お春をいとおしく感じ、まだ会ったこともない山さんを嫌った。定年になって女の「ひも」かよ。その「ひも」と知りながら、「ひも」に会うことによって幸せを感じると言うよりも感じようと努めるお春が可哀相で、身がつまされた。
「分かった。お春さんの気持ちは良くわかった。話題を変えましょう」と、ちょうどそこえ、もうすでに普段着に着替えた花江が加わったので話題が自然に変わった。
「花江、もうお座敷おわったの、指名なんでしょ。早いんじゃない?」
「あたし、お座敷ねぇ、つばめ姉さんに代わってもらったのよ」、「健さんが来るのはいつも前もってわかるから、あたしがお座敷のとき、健さんがあたしのアパートでどう過ごそうか気にならないけど、今日は突然表れたでしょう、しかも健さんの指名でしょう、動転しちゃってお座敷を台無しにしちゃったし、健さんのことが気になって気もそぞろなのよ。それで事情話してお座敷を変わってもらったの。あたしもつばめ姉さんに代わってあげることあるのよ。ねぇ、お母さん、今回あたしのわがまま許して」
「お春さん、俺からも御願いします」、「健さんにそう言われると私も弱いしね、花江、今回だけよ」、「ハーイ、わかりましたぁ。あぁよかった、健さんには悪いけど、健さんのお酌でお母さん、いっしょに飲みましょぅ」

二人とも酒はいける口だった。花江の参加で座がにぎやかになった。
「健さんは、えらいはねぇ。自分じゃお酒をたしなむ程度しか飲めないのに、のんべぇ二人と最後までおつきあいしてくれてさぁ」
「だけどねぇ、お母さん、健さんは、相手が気持ちよく飲んで、だんだんいい気持ちになるでしょ、それを冷静な目で眺めてんのよ。だから時々あたし、健さんに無理強いしてさ、へべれけに酔うまで強引に飲ませたい気持ちにかられるのよ」
「それは無理だな、俺はへべれけに酔う前に吐いてしまうから」
「へぇ、そんなことあったの」、「あったよ」、「いつ頃、どこで」
「俺が21,2の頃だ、電車の中でだ」
「あたし、その頃健さんに会いたかったな、二人の出会いはちょっと遅すぎたわねぇ。遅すぎてもさ、出会わなかったよりよっぽどいいけどね、これも運命ねぇ」
「ところで話題はかわるけどさ、健さん、星の名前知っている?」
「花江どうしたの、星の話題なんか急に出して」
「お母さん、今夜の星見た? きれいよぅ。冬は星が沢山見えていいんだけど寒すぎて外で長く見ていられないじゃない。秋は、寒くないから落ち着いてゆっくり見ていられからいいのよ。あたし、星を見るのが好きなの」
「花江がそんなに星をみるのが好きだとは思わなかったわねぇ、最もいつかそんなこと花江が言ってたような気がしないでもないけど」
「健さん、星の名前知っている?」、「いくつか知ってるよ」
「場所もよ、空を指してさ、あそこにあるのが、カシオペヤ座とかさぁ」
「俺の知っている星はありふれていてどこにでもあるのさ」
「星の名前、なんて言うの」
「にぼしに梅ぼしさ」、二人ともどっと笑い出した。俺もつられて笑っていた。特に花江は、やたらと興奮してテーブルを手で叩いていつまでも笑いこけていた。お春も笑いながら 
「花江、どうしたのよ、いつまでも笑いこけて」
「あたし、思い出しちゃったのよ、去年、健さんが言ったこと」
「俺が、何を言ったのよ?」
「健さん、自分で言ったこと覚えていないの。お母さんね、去年の9月末に健さんがあたしのところえ来たのね。健さん、珈琲が好きだからさ、珈琲を入れてあげたの。健さんが飲み始め、あたしはあたしで久しぶりに会う健さんの顔を惚れ惚れとして眺めていたのよ。そこえ虫が鳴き出したのね。あたしはこの山の中に住んでいるから虫の音に鈍感よ。
健さんは東京だから、虫の音に敏感なのね、しかも鳴く時期が都会よりずっと早いからさ、健さんが、「おお!もう虫の音が聞こえるよ」と言うからあたしが耳をすますと、虫の音が聞こえてくるのね、それが美しい音色なの、思わず「素的な音色ねぇ、なんという虫かしら」と聞くとさ、もうここから花江は笑いだしていた。
「お母さん、健さん、なんと言ったと思う」とここまで言うのが精一杯、また笑いだしていた。お春が「健さん、なんと言ったの」、「俺知らないよ」
「あたしがここまで言っても、自分で何を言ったのか覚えていないの?」
「お母さん、健さんはね、『いも虫だろ』だって」、お母さんも笑いだしていた。
「健さん、私たち二人は恋仲なのよ、あたしの家に来てさ、私が心こめて珈琲いれてあげさ、健さんの珈琲飲む顔をほれぼれ眺めてあたし内心いいムードにひたっていたのよ、そこえきれいな虫の音が聞こえてきてさ、『なんという虫かしら』と言ったら、平然となんのてらいもなく『イモ虫だろ』じゃ、ムードだいなしでしょ。お母さん、そう思いません。そこえこんどは、にぼしに梅ぼしでしょ」二人とも一緒に笑いだしていた。俺は、「そうかなぁ、『いも虫だろ』ってそんなに悪いかな」と言うと、花江は「悪いわよ、だいいち健さん、あなたいも虫ってどんな虫だか知っているの」「知らないよ」そこで二人はまた笑いだした。そこで俺は少し大きな声で
「『いも虫だろ』と言ったほうが『水虫だろ』と言うよりよっぽどいいと思いますがねぇ」
「健さん、いやだぁーもう止めて」、そこで俺はさらに輪をかけて「陰金田虫だろ」というよりもっといいぞぉー」花江は、笑いながら
「もう健さん、止めて止めてぇ!」花江は、手でおもいきって俺のももを叩いてきた。三人の笑いがおさまった頃、俺は早く花江と二人きりになりたかった。そこで、お春に「お春さん、そろそろお春さんのおはこの出番ですよ」、お春は心得たものでそろそろ二人だけにしてあげなければと「それでは、私のおはこでお開きとしましょう」。
お春には、お酒が入り、気分よくなると三味線を弾きながら、必ず歌う歌があった。青山和子が歌っている「夢を下さい」だ。現在、青山和子は懐メロ歌手になっているが、彼女には「愛と死をみつめて」という大ヒット曲がある。この歌で日本レコード大賞をとっている。「夢を下さい」は夜の女を主人公にした演歌だ。お春は歌いだした。
「赤いネオンで火傷(やけど)した、うぶな昔がなつかしい
がんじがらめの見えない糸に、今じゃ飛べない夜の蝶
夢を、夢を、夢を下さい 私にも」
二番を歌い終わった後、お春さんと三人でタクシーに乗り、お春さん宅に向かった。その後、俺と花江は散歩しながら花江のアパートに向かった。歩きながら俺は、花江に「花江、お前な、お春さんには、『山さんは、お母さんのお金が目当てなのよ』などともう絶対に言うなよ」
「お母さん、なにか健さんに言ったの」
「お春さんはなぁ、花江に山さんはお母さんのお金が目当てよといわれなくても知っていたって、だけどなぁお春さんはもう身寄りのいない一人者だろう、誰もたずねてこないのがさびしいって、だから山さんが来てくれるのがうれしいんだって。だからね、これからも元気で働き続けるってさ。そうすれば山さんがきてくれるからね」
「そう、そう言ってたの。お母さんが可哀相、お母さん、ひものために働くのと同じでしょう」
「そうだけどね、だけどなぁ、男女の仲は、肉親でも覗けないのだ。俺と花江の仲だって誰ものぞけない二人の世界。山さんとお春さんの仲もたった二人だけの世界、誰ものぞけないんだ。お春さんと山さんは、香港時代、日本に帰ったら一緒になろうと約束した恋仲だ。お春さんは芸者やっていて香港時代が一番良い時代だったと俺に言ったんだ。俺が思うには、お春さんはなぁ、山さんとのいい思い出を大事にして、いやな事は忘れて山さんとの関係を続けようと決心していると思うよ。お前もな、山さん、来たら気持ちよく迎えてやれよ、お母さんのためにもな」
「あたしは、いままでも気持ちよく迎えていますよ、そうしないとお母さん悲しいでしょう。本当はあたし、山さんだいきらいなの」
「花江、お前もえらいよ、お母さんの気持ち察することができるからな」
「健さんこそ、やさしいじゃない」、「俺は、苦労しているからな」
「女で?」
「バカ言え、金がなくてどうして女で苦労できるかっていうんだ」
「俺に、金があったら、お前の息子を引き取って、お前に大豪邸を与えて東京に住ませるぜ、わざわざお前に会いに榊原温泉くだりまでくる必要のないようにな」
この俺のセリフに花江はどういうわけか喜んで、俺の首に飛びついてきた。花江のアパートに着くと、洗面道具を持って温泉場に向かった。この温泉街には、温泉街の住民なら誰でも無料で入れる公衆浴場がいくつかあった。全部男女混浴だ。浴場につくと誰も入っていなかった。二人は湯船に入るとどちらからともなく自然と抱擁していた。しばらくするとガラガラーっと戸が開く音がして女性が入ってきた。ヌードになった若い女性が湯船に近づくと、「あらぁ、花江姉さん、今晩わぁ」、「夢子ちゃんじゃないの、今晩わぁ」、花江は湯船の中で立って、夢子ちゃんは湯上り場でたったまま挨拶していた。夢子ちゃんはすばらしい肢体をしていた。きれいなヌード写真やヌード画は、どこでも見かけることができる。しかし淡いというか薄いというかそんな湯煙の中で自然な振舞いをするすばらしい肢体の女性の姿は、写真や筆で描けないその場でしか見られない女体美の極地だ。彼女が、湯船に入ってきた。「夢子ちゃん、こちらあたしの彼、健さんよ」、二人でお互い「今晩わぁ」の挨拶をした。すぐに夢子ちゃんが話かけてきた。
「あ、やっぱり素的だ」花江が「なにが素的なの」と聞くと、「健さんのひげよ、鼻ひげよ、皆言ってるの、健さんのひげが様になっているって」、「皆って誰」と俺が聞くと夢子ちゃんは、「芸者さんよ」、「だって俺、芸者さんとそんなに沢山会っていないぜ」
「だってこの温泉街の指名ナンバーワンの花江姉さんの彼氏よ、健さんは、だから皆知ってるわよ」
「そうか、皆知ってるのか、俺が道を歩いていても知っているのか」すると花江が
「そうよ、健さん、あなたはここでは有名人なのよ、なにも悪いことできないわよ」
「ここわね、すぐに知れ渡っちゃうからさ、芸者さんに彼氏ができると、一緒に出かけないのよ、そこえいくと花江姉さんは立派よ、知れわたっても平気なんだから。太っ腹なのよ。あたしね、お姉さんが指名ナンバーワンなのわかる気がするの。人間がいいのよ。容姿が良くて人間がよければ、誰でも指名したくなるでしょ。そうじゃない。健さん」
「勿論だ、いくら容姿がよくたっていやな奴なら指名なんかするわけがないからな」
「健さんは、お姉さんの彼氏でしょ。だからきっと健さんもいい人だと思うわ」
「花江、俺はお前のお陰でいい人間になっているぞ」
「夢子ちゃん、健さんがそばにいるからといってそんなにあたしのことを持ち上げることもないのよ」
「持ち上げてんじゃないの、本心よ、お姉さんはね、特に若い芸者さんには人気があるのよ」
湯船の中でこんな会話をかわしながら、俺たち二人は先にお風呂場を出た。二人は黙ってしばらく歩いていた。すると花江が「健さんねぇ、あたし、健さんといると夜明けが来るのがいやなのよ」、俺は花江の気持ちは充分に察していたが、わざととぼけて、「なんで」と聞いた。「なんでって、夜明けがくるとどんどん健さんが帰る時間がせまってくるじゃないの、そのくらいのこと想像つかないの」と少しいらついた声を出していた。俺は黙って歩いていた。すると突然、花江が「健さん、御願いがあるの」、「何だ」、「あたしをおぶってくれない」、「おぶう?」「そう、健さんの背中でおぶってくれる」、「お前、重たいんじゃないの」、「重たかったらわずか数歩でもいいのよ」、「あたし、健さんの背中におぶさってみたいのよ」。
俺は花江をおぶって歩きだした。「ああぁ!気持ちいい」、しばらく歩いているうちに、重さに耐え切れず、もう下ろすぞと言って花江を下ろした。花江の顔をみると、両目から涙が出ていた。「どうした、花江」、「なんでもないの、おぶってもらっているうちに、ちょっとオセンチになっちゃったの」、涙を拭きながら「もう、大丈夫よ」と言って、花江は小さな微笑みを見せた。その夜から一年前後ぐらいで、二人は別れることになった。花江には花江の事情があり、俺には俺の事情があった。分かれた直後、花江から分厚い手紙がきた。手紙の冒頭で花江は、自分が日本に帰化していない在日朝鮮人であることを告白していた。俺は本当にびっくりした。そんなこと考えてもみなかったし、気配すら感じたことはないのだ。手紙ではそれ以外のことはあまり覚えていない。それより覚えているのは、花江は、ボロボロ涙をこぼしながら書いたのだろう、字が涙でにじんでなにが書いてあるのかわからなかったことだ。
それから二、三年後か、あるいは四年ぐらいたっていたかもしれない。ある日俺は、テレビの歌番組を見ていたら、青山和子が「夢を下さい」を歌っていたのだ。青山和子が歌い終わるのを聴いて私はびっくりした。お春が歌っていた最後の歌詞、「夢を夢を、夢を下さい、私にも」という歌詞を青山和子は歌っていないのだ。そこで俺は推測した。通常、歌番組では歌手は、一番と二番の歌詞しか歌わず、三番まで歌うことはめったにない、だから三番の歌詞にあるのではないか。
そこでカラオケに行った時に調べた。やはり三番の歌詞にあった。しかし一番、二番の最後の歌詞は、「夢を、夢を、夢を下さい私にも」では終わっていなかった。お春さんは一番、二番、三番の最後の歌詞を全部「夢をください」で終わらせていたのだ。それだけお春さんは、「夢を夢を、夢を下さい私にも」の歌詞にこだわりを持っていたのだということを初めて知った。お春さんは、酒に酔って気分よくなると、三味線を引きながら、少し目を細め、「夢を夢を、夢を下さい私にも」と歌うと、老芸者が本音を明かしているようで実に哀感があった。歌手にはその哀感は出せないのだ。

それから十数年後ぐらいだったと思う。花江から簡単な手紙が来た。お春さんの死の知らせであった。お春さんは、息を引き取る前、長い眠りに入った。この時花江は、この歌を声にだして歌ってあげた。そのあとお母さんに話しかけていた。「お母さん、この歌を聞いて健さん、思いださない?あたし、健さん、思い出しちゃったのよ」
手紙はここで終わっていた。手紙の封筒の裏には「花江」とあるだけだった。花江は俺より三つ年上だ。彼女が息子の子と戯れる幸せな生活をおくっていることを祈るばかりだ。

あとがき:
私はこの小説の原稿を書いている時、ネットで「夢を下さい」を検索にかけてみた。するとユーチューブでは青山和子がこの歌を歌っているではないですか。今ではどんな歌もほとんどユーチューブで聞けるようになっているとは知らなかった。メロディーを聞いた時、本当になつかしかった。何十年ぶりに聴くメロディーだった。年寄りでもこの歌を知っている人は、ほとんどいないでしょう。しかしけっこういける演歌のメロディーです。皆さんちょっと聞いてみてください。
最初の作品「女のため息」は、完全に私の創作ですが、今度の作品は、私のちょっとした体験と私の創作が加わった作品です。結果はどうでしょうか。ブログ記事としては長すぎですかね。皆さんから何かちょっとしたコメントでもいただけるとありがたいです。

この短編小説の転載は厳禁とさせていただきます。

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