B・C級戦犯(1) 国内裁判

前回の私のブログ記事は「二人の芸者」というタイトルの短編小説でした。その中で芸者、お春の彼氏は、元憲兵大尉で捕まれば戦犯として裁判にかけられるので逃亡者になり無事逃げおおせています。そこで今回は、戦犯について書いてみました。戦犯(戦争犯罪者)には三種類あります。A級戦犯、B級戦犯、C級戦犯です。これは、階級差によるクラスわけではありません。A級戦犯は、「平和にたいする罪」であって「侵略戦争または国際法・条約・協定に違反した戦争を計画・準備・および遂行したもの」、B級は「固有の戦争犯罪」で戦時における「戦争法規違反」。C級は「人道に反する戦争犯罪」で、「戦争前あるいは戦争中に、すべての人民に対して行われた殺害・殲滅・奴隷化・追放その他の非人道的行為、政治的もしくは人道的理由にもとづく迫害行為」を対象としている。日本の政治家、軍人などの指導者、合計28名がA級戦犯の汚名を着せられ裁判にかけられ、そのうち東条元首相ら7名が死刑の宣告を受け処刑された。これが東京裁判です。この東京裁判については現在でもよく話題になり、それこそ沢山の本がこれまでに出版されています。これに反して、B級戦犯、C級戦犯、いわゆるBC級戦犯についてはあまり話題になることもないし、またこれまでに書かれた本の数も東京裁判にくらべると極端に少ない。そこで今回このブログではBC級戦犯に絞って話しをすすめていきます。

一。横浜裁判
日本国内でBC級戦犯が裁かれた場所は、横浜地方裁判所一ヶ所だけです。横浜軍事法廷とも呼ばれています。この横浜軍事法廷で取り扱った件数は、327件。その多くが日本国内の捕虜収容所での敵軍捕虜の虐待です。被告数1037名。死刑つまり絞首刑の判決は53名、終身刑88名、有期刑702名、無罪150名、その他(起訴取り下げ、公訴棄却、裁判中止など)44名。
この横浜軍事法廷に関する主な特徴を箇条書きにしてみました。

1.最初の死刑者: 由利敬元陸軍中尉、福岡俘虜収容所大牟田分所所長
昭和18年より昭和19年にいたる間、同分所より逃亡を企てた米軍俘虜ジェームス・シー・ハールド上等兵を部下に命じて刺殺・殺害せしめ、また同米軍俘虜ジー・パブロス伍長を飢餓により死亡するにいたらしめ、かつ部下、警備員などが同分所の収容中の氏名不詳の多数の米軍俘虜に対し拷問または不当の取り扱いなどの虐待を加えることを許容し、分所長としての自己の職責を無視、かつ怠った」(要約)の基に死刑判決、即処刑された。
由利は日本人弁護士をつけるのも断り従容として運命を受け入れた。
由利の母への遺書、「死するに非ず、大生命の本源に帰するものなり。ただ物質なる肉体のみ、、ポツダム宣言の露と消えん」
「お母上様の御声を得る、すべなくして散るを悲しむ」
「ああ悲しかるかな、お母上様の運命、思えば涙漣 果つるを知らず、何卒、敬の分も百年も二百年も強く生きられよ」

2.他死刑者の遺書の例:
平手嘉一元陸軍大尉、函館俘虜収容所分所所長の父への遺書
「その始めて生ずるを見て、終に死あることを知る。時到って自然に帰する。是れ人生であります。たとえ身体は何処に果てましょうと、五尺の生命死せざるものあるを信じて疑ひありません。聖皇仁王といえども難に当たっては破邪の剣を執ると云ひます。嘉一は不肖ながら誠心を持って任務に服したことを誰はばからず確信いたします。国敗れて国に殉ず、嘉一の本懐これに過ぎるものありません。立派に最後まで責を果たしたつもりです。どうぞご安心ください。
辞世の句:「ますらおの道にしあればひたすらに務はたして今日ぞ散りゆく」

平松貞次元陸軍兵長、東京満島俘虜収容所警備員の妻への遺書
「久子よ、お前の心の内は私に通じ、私の胸の中は、そのままお前に通じている。勿体ない事である。私はお前を力強く思って、おまかせして安静に一足先に行く。苦しい生涯であろうが、あくまで耐え忍び、報恩の道を力強く生き抜いてくれ。貞枝、千枝、貞美の顔が何時までもまぶたを走るけれども、その後は必ず純情なお前の姿が子供を包んでいてくれる。お前は本当に素直で純情であった。気強かった。つつましかった。お前は全身の精力をこめてこの愚者の夫を良く助けてくれた。このような言葉ではいい表せないほど強い縁に一体となった。またお前は心から私を落ちつかせようと絶えず細心の注意を払ってくれた。が、不徳のいたすところこのような運命に立ち至ったことを思うとき、われを恨んでも恨んでも足りないのである。もはや過去はいうまい。そんな愚痴はお互いを曇らすばかり。生死の巌頭に立って、お前たちを思う一念の魂が言葉を差し上げる。良く聞いてくれ(略)」

3.「嘆願書」に対する日米文化の差
横浜軍事法廷で日米の文化の違いが一番現れたのが嘆願書に対するアメリカ人の態度でしょう。嘆願書とは、被告の肉親や近親者が集めた書類、すなわち被告はかくかくしかじかの経歴を持つ温厚なで立派な人物である。そのためそのような残虐な行為をするわけがない。裁判にまで情に訴えようとする日本人の心情が現れています。中には被告の幼い子が書いた切々たる手紙があった。日本人としてはその心情は理解できますが、アメリカ人は全く理解できません。なぜこんな無駄なことをするのか全く理解できないし、理解しようともしなかった。血と涙に訴えた嘆願書を歯牙にもかけていません。彼らにとっての関心は、“事件”についての真実だけです。その「真実」も米国人による調査に基づくものです。だからその「真実」を覆す反論や疑問を提示して法的に論戦を挑むのが最適なのですが、米国軍という権力者に向かって反論、反証して反感を買うより情に訴えようとしたのではないかとも想像できます。その日本人の心情はよく理解できます。当時の日本人の感覚では裁判は、悪い人が裁かれる所という意識が強かったから無理もない。

4.映画「明日への遺言」
この映画は2008年に公開された。映画の主人公は、死刑に処せられて岡田資(たすく)元中将。岡田元中将の役を俳優、藤田まことが演じていた。岡田が主犯とされた事件がいわゆる“敵機搭乗員処刑事件”です。同じ俘虜に違いないが無差別空爆にやってきて不時着・撃墜されて俘虜になった連合軍兵士の一部を日本軍は各地で処刑にした。無防備な一般庶民を皆殺しするような無差別攻撃をしてきた敵機が不時着したり、撃墜されたりしても敵機の搭乗員の生命を保証しろというのはナンセンスもきわまりない。岡田元中将の守備範囲である名古屋方面が無差別攻撃にあった。岡田の命令のもとB29米軍搭乗員38名が処刑された。岡田を含め20名が裁判にかけられた。この時岡田は「この裁判は戦争の継続、法戦だ」、「責任は私一人に集中させる。規律を乱すな」のもとに20名全員一致団結のもとに法廷闘争を戦いぬいた。法廷での岡田の主な反論は、無差別空爆は国際法違反である。事実、国際法違反なのです。オランダのヘーグで調印(日・英・米・仏・伊・蘭の六カ国)された「空戦法規案」の第四「敵対行為」第22条には、「普通人民ヲ威嚇シ軍事的性質ヲ有セサル私有財産ヲ破壊若ハ毀損シ又ハ非戦闘員ヲ損傷スルコトヲ目的トスル空中爆撃ハ之ヲ禁止ス」とあり、陸戦法規には、「防守セザル都市ソノ他ハ、イカナル手段ニヨルモ、コレヲ攻撃アルイハ砲撃シテハナラナイ(第25条)」という規定があるのだ。

裁判の結果は、岡田の計画どおり絞首刑は自分だけ一人となり、大西一元大佐は、終身刑、他の被告全員、10年から30年の有期刑。この判決は他のBC級裁判ではめずらしい軽い刑だと言われています。岡田の統率力が抜群だったのが幸いしたのだ。岡田以外の組織は、敗戦とともに組織の秩序が乱れ、単なる烏合の衆と化し、それぞれ自分の行く末を考えて混乱した。またそこが米軍のならいでもあった。この映画をまだ見ていない人はぜひ見てほしいと思います。横浜軍事法廷を舞台にした典型的な裁判劇です。このような映画が製作可能になったのも米国が、横浜軍事法廷の記録をすべて全面公開したからだということも付記しておきます。

5.密告と裏切りの続発
裏切りと変節の遺伝子を持つのが日本民族です。したがって我々日本人は、裏切りや者や変節者に非常に寛大なのだ。この私の意見をきいて驚いたり、怒りを覚える人がいたら私の拙著、「逆境に生きた日本人」(展転社)を読むことをお薦めします。日本民族はあらゆる面で世界一優秀な民族、日本の文化はすべての面で世界最高などと主張する盲目的国粋主義者は、この本を読むのをいやがりますし、また読んでも全く無視してしまいます。横浜軍事法廷で働いていた米軍の調査官が「日本人はなぜこのような密告(裏切り)が多いのか。われわれ外国人には考えられないことだ」、「こんなに密告や裏切りが多い国民は見たことがない」と驚いているのだ。
短編小説「二人の芸者」の芸者、お春の彼氏、元憲兵大尉、は逃亡中榊原温泉で偶然お春に出くわします。そこで彼はお春と一月間ぐらい一緒に暮らします。あまり長居するとうわさになるからと言ってお春の元を去っていきます。密告されるのを警戒してのことです。アメリカ軍や日本警察に追われている元日本軍人を知らんふりして匿うどころか積極的に密告するのが日本人なのだ。アメリカ軍人が「こんなに密告や裏切りの多い国民はみたことがない」と軽蔑するのもむりはない。

一方警察は警察で、敗戦後は米軍に徹底して迎合していくのだ。その態度がBC級戦犯者に対する態度が如実に現れます。いくつかの例をあげましょう。
「私は居住地(静岡県)警察署に逮捕拘引状の提示もなにもなく連行され、一般の囚人と同じ房に監禁された。家族との面会を禁止されたばかりか、極悪人と同じ待遇であった。巣鴨に移送するため県の刑事部署観察房に泊められたが、12月の厳寒のときに毛布一枚だけ渡され、翌日の朝食ハジャガイモ7個といったぐあい。なによりも、逮捕状拘引状(のちに入手)に記されている名と経歴が明らかに私でなく別人であるにもかかわらず、ろくに調査もせず私を連行したことに怒りを感じる。人違いではないか、逮捕拘引状を見せてくれと私が幾度も言ったにもかかわらず、彼らは“絶対におまえだ”と言う。部長クラス二名もそばにつきながら、逃亡におそれてか縄をかけ、一般の囚人とおなじようにして列車で送られた」

「山口県の警察署に拘留されたが、ただちにいっさいの自由を束縛され、護送中は両手に手錠をかけられ、”こら”、“こっちへ来い”などと聞くに堪えないような罵声を浴びせられた。しかも、東京までの旅費を自弁させられたのにはなんとも腹がたった」

「連合国側の取調べで拷問にあう前に、まず日本人による制裁や暴行を受けねばならなかった」

芸者、お春さんの彼氏は、BC級戦犯の逃亡者だったが、逃亡をはかった者たちに対する米軍側も日本の警察も、当然のことながら追及は苛烈であった。
「家族の全員(両親、兄、婚家よりお産のための実家に帰っていた妹)が一週間も警察に留置された。産後の妹は生まれて一ヵ月ばかりの赤ちゃんを抱いての留置だった。本人の居所が分かり、逮捕するまでおまえたちは釈放しないと言われたという」

「私が逃亡しているあいだ、兄と母はおよそ一ヶ月間留置され、福岡県の某警部補からきつい尋問を受けた。その調べのため兄は勤め先を休むことが多くなり、責任感から辞職せざるを得なかった。その後は職もなく、一年半にわたって失業状態が続き、売り食いも底をついてきて、いっときは一家心中まで考えたことがあるという。しかし日雇い仕事でなんとか危機を脱し、ようやく新制中学校の教師となることができて、細々と一家五人食いつないでいる。米軍当局の要求はどうすることもできなかったろうし、その命令を受けた所長にも事情があったと思うが、日本人の警察ならもうすこししっかりして、みんな人間らしく扱い、もっと要領よくやってほしかった」

米軍の逮捕リストに記載されているというだけで日本の警察は、米軍以上に日本人容疑者に辛くあたる。日本人が日本人を裏切るのだ。同胞が同胞を裏切る。これが日本民族の習性なのだ。理由は最初に触れたように日本民族には、裏切りと変節の遺伝子がくみこまれているからです。読者の皆さん、大東亜戦争が仮に侵略戦争だったことにしましょう。侵略戦争に関しては欧米諸国の方が日本の大先輩です。欧米諸国は、侵略戦争だろうとなんであろうと自国のために戦ってくれた兵士や戦争当時の指導者に敬意を払っています。ところが日本では自国のため戦ってくれた兵士を平気で足げにするのだ。日本政府自ら、自国のために戦ってくれた兵士に敬意を払うどころか足げにしているのだ。これは政府の同胞への裏切りではないのですか。そんな政府を誕生させる国民も同胞への裏切りではないのですか。だから私は主張するのです。日本民族は裏切りと変節の遺伝子を持つ、だから裏切り者や変節者にたいして寛大なのだ。現在の日本列島は、裏切り日本人で充満しています。日本が落ち目になっていて、這い上がれそうもない現状になっているのは当たり前の話なのです。

戦争目的がなんであれ、自国のために戦ってくれた兵士には敬意を表す。これが日本以外の民族の常識なのだ。日本民族は確かに優秀なところはある、しかし同胞にたいしてはいつでも裏切るのです。この点に関しては世界最低の民族と言えるでしょう。そんな世界最低の民族になぜ私が日本人として誇り高い男なのか、それは「俺こそが日本人を代表する日本男子だ、裏切る日本人は真の日本人ではない」との思いが強いからです。

6.殉国六十烈士忠魂碑
皆さん、「殉国60烈士忠魂碑」をご存知ですか。60烈士とは、東京裁判で極死刑させられたA級戦犯者7名と横浜軍事法廷で極死刑させられたBC級戦犯者53名、合わせて60名の人たちの忠魂碑ことです。最初の殉国六十烈士慰霊祭が行われたのは昭和29(1959)年でした。「日本協会」の会長荒木貞夫元陸軍大将以下幹部列席のもと横浜、久保山火葬場脇の墓地で行われました。昭和43(1968)年10月20日に横浜、久保山、光明寺に「殉国六十烈士忠魂碑」が建設され、慰霊碑の裏面には殉国六十烈士の氏名が久保山で荼毘にふされた日の順に刻まれています。以来毎年一回も欠かすことなく10月20日前後に横浜、久保山、光明寺で慰霊祭が現在まで行われています。今年も今月20日に日本郷友連盟神奈川支部主催のもとに行われます。私も参加します。

私は、去年は所用があって慰霊祭には参加できませんでしたが、その前の5年間は連続して参加しています。その時、A級戦犯では、板垣征四郎元陸軍大将の次男の板垣正氏が毎年、東条元首相のお孫さんの東条由布子氏が時々、慰霊祭に参加しておりました。しかし53名のBC級戦犯者の遺族は誰一人として慰霊祭に参加しておりません。年をとられた先輩たちの話のよると遺族の方たちは、「不名誉なことだからほっといてくれ」という方が多かったそうです。しかし昭和29(1954)年、国会決議により連合国による刑死者(A級戦犯者、横浜軍事法廷で裁かれたBC級戦犯者、また外国で裁かれたBC級戦犯者)は、国内的には昭和殉難者とされ、法的には法務死として戦犯の汚名は払拭され、恩給、遺族手当て、遺族年金など戦死者と同様な扱いとなり、その名誉は回復されております。遺族の方々にはぜひ堂々と慰霊祭に参加してほしいものです。それでも遺族の中に不名誉と感じる方がおられるとするならば、それはあなた自身で自分の家系をいやしめることになるのではないでしょうか。国敗れて国に殉じた。戦死と全く同じです。だから国会で決議したのです。例えご遺族の参加がなくともすでに50年以上慰霊祭を続けている神奈川県民の方々がおられるということも全国の方々に知ってもらいたいと思っております。

なお次回は、BC級戦犯の海外裁判の実態の一部について書きます。

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