B・C級戦犯(2) 海外裁判

前回のBC級戦犯(1)(国内裁判)に続いて今回は海外裁判について語ります。
二。海外裁判
前回の横浜裁判について、その特徴をいくつか挙げて書いてみましたが、今回は海外裁判についての特徴をいくつか挙げて書いてみました。

1.裁判国の多さと裁判が行われた場所の多さ。
裁判を行った国は七カ国、裁判が行われた場所は横浜を含めて全部で49ヶ所に及んでいます。裁判国名とその裁判場所を見てみましょう。
アメリカ裁判(横浜、上海、マニラ、クェゼリン、グアム)

イギリス裁判(シンガポール、クアラルンプール、タイピン、ラブアン、ラングーン、アロールスター、香港、ジョホールバル、ペナン、ジェッセルトン、メイミョウ)

オーストラリア裁判(ウエフタ、ラブアン、アンポン、モロタイ、ラバウル、ダーウィン、シンガポール、香港、マヌス)

オランダ裁判(バタビア、バリクパパン、マカッサル、モロタイ、ポンティアナク、メナド、アンポン、メタン、クーパン、パンジェルマシン、ホーランディア、タンジュピナン)

支那(北京、上海、南京、広東、徐州、漢口、瀋陽、台北、太源)

フランス(サイゴン)、
フィリピン(マニラ)

2.裁かれた元日本兵総数
この49ヶ所の裁判所で裁かれた元日本兵総数は、およそ5千700名、そのうち死刑判決を受けた者971名、終身刑の判決が479名、有期刑2、953名。私たち多くの日本人は、東京裁判で7名が死刑判決を受けたことを知っていても、横浜軍事法廷で53名の日本兵が処刑されたこともほとんど教えられず、ましてや海外の裁判で900名以上の日本兵が処刑されたことなど教えられることがないのだ。勝者が敗者を裁く「戦争裁判」なるものは、すべて終戦後に定めた「事後法」によるものであり、また「戦争犯罪者」とはいかなる人物かを規定するものは国際的になにもないのだ。しかもこれら処刑された日本兵は、ほとんど無実の罪や、死刑にあたいしない罪での極刑なのだ。

3.天国と地獄の差
横浜軍事法廷の場合、アメリカ占領軍による日本国内での裁判ということもあってアメリカ側も気を使ったことは間違いない。被告がすさまじい虐待や拷問にあうことはなかったと言えるでしょう。従って横浜裁判にかけられた被告たちには、気の毒ではあったが、不幸中の幸いという面があったことも確かです。海外裁判における元日本兵被告の取り扱われ方を知ると無性に腹が立って怒りがわいてきます。虐待、拷問の例をいくつかあげましょう。
(1)アメリカ、上海裁判の一例
獄中で台湾司令官安藤利吉大将の服毒自殺につづいて松尾正三少佐が首吊り自殺した。これに怒った監獄長のクラレンス・パークス大尉は、主な関係者6名を事務室に引っ張り出し、自殺予防と称して全員を真っ裸にさせ、厳重な身体検査の後パンツ一枚だけの裸にしたまま6名を監獄の最上階にある独房の中にぶち込む。当時の上海の気温は日本内地の真冬と思えばまちがいない。全裸でまさに歯の根も合わず、じっとしていることができない。うずくまろうにも、床はコンクリート、三方の壁もコンクリート、正面は鉄格子、室内に取り付けられた寝台、机、椅子、洋式便器があるのみで、木製のものは一切なかった。それぞれ両腕で自分の裸を抱くようにしてとにかく動いた。しかし疲れてくると床の上に、寝台の端にうずくまるしかなく、しばらく静止していると寒さのために気が遠くなる。睡眠など思いもよらぬことだった。(略)

(2)アメリカ、グアム・グェゼリン裁判の一例
こちらは上海裁判とは対照的に太陽がギラギラ輝く炎天下。朝は暗いうちからたたき起こされ、まず壁に向かって両腕を目の高さに上げたまま不動の姿勢をとらされる。監視兵が腕の上げ方が悪いと言って棍棒で殴る。そのまま数時間。朝食は割り当ての缶詰野菜をスプーンに一杯、ゆで卵半分、ベーコンの小指大一切れ、レモン水をコップに一杯で、主食なし。昼食はパン半切れかビスケット二、三枚。終われば再び両腕をあげた姿勢。午後二時頃から運動という名目で外に出されるが、熱い砂利の上で腕立て伏せをえんえんと続けさせ、その背中を踏みつけたり殴ったり、かと思うと、少しの静止も許されずぴょんぴょんととびはねる動作を繰り返させ、飛び方悪いとののしってつきとばしたりなぐったり。運動というより拷問であった。

シャッワーを許したのちは再び両腕をあげて直立不動の姿勢。大小便は一日に一回か二回しか許可を与えられない。しかもその便所というのが収容されたストッケード(収容所)から百メートル離れており、駈足を命じられる。収容所はジャングル内にあるため蚊やブヨが立っている身体に遠慮会釈なくくいつき、その全身の痒みは尋常ではないが、少しでも身体を動かすと棍棒がとんできた。夕食は昼食とほぼ同じ。夜は目の前20センチぐらいのところにある200ワットの電球を注視させ、両腕はあごの前方の重ね合わせで不動の姿勢をとる。監視兵はその間をぶらぶらとまわって気が向くと、天井を仰がせたうえ、みぞおちを棍棒ではげしく突いたり頭や背をたたいたりする。毎夜、失神する者が続出し、恐怖と疲労のため発狂する者も出た。ようやく就寝が許されるのは午後10時ごろであった。

以上のように毎日の中で「白状しろ」といわれなき追求が行われる。それもまた、蹴られたり殴られたりで、ときには実弾がこめられた拳銃を頭に当てられることもあった。夜中に起こされるのはめずらしくない。目隠しされたうえ駈足を命じられ、倒れると手をたたいておもしろがる。日本人同士の殴り合いをやらせる。体験者の報告の中には、
「収容者の義歯金歯を強要し、強奪した」
「収容者に強要して収容者の口の中に陰茎を挿入し、射精した」
「手淫を強制し、拒否すると殴る蹴るで失神させた」

立花芳雄陸軍中将と的場末男少佐は、死刑判決を受けたが、この二人に対する虐待はことさら激しかった。炎天下に素っ裸にして、満水のバケツを頭上にのせさせ、珊瑚礁の破片からなるグランドの上を素足で倒れるまで往復させる。所持品検査の名のもとに二人の所持品を雨後のグランドに放り出し、踏みにじり、時間を限ってそれを二人に拾わせる。二人が絞首刑の宣告を受けた後はさらにひどくなり、独房の中で踏む、蹴る、殴る、壁にたたきつけるなどされて、へたばれば水を全身にあびせかける、といったぐあい。その翌日二人は絞首台にのぼって刑死した。

(3)オランダ、パンジェルマシン裁判の一例
取調べ中サルマタ、フンドシまで脱がされ真っ裸にさせられて籐の棒で臀部を力いっぱい叩かれる。肉は切れ、棒にまきつく。ある者はアリの群がりついている木の枝葉を裸に押し付けられ、全身をアリに食われた。ある時は拷問専用員ともいうべき逞しい現地民兵隊4,5人を連れてきて、それぞれに太い棒を持たせて叩かせる。拷問の結果その場で絶命した者もいる。口に入れるものはろくに支給されず、炊事場の流しの下の溝にたまっている飯粒をひそかにすくいあげ、泥水と一緒に飲み込むときもある。戦犯裁判というのはかたちだけのことで、これは復讐と言っていい。このような惨憺たるわれわれの状況を復員省に伝えてもらいたい。日本は再建してかならずこの仇を討ってもらいたい。

(4)オランダ、メナド・アンポン裁判の一例
銃殺刑の処せられた山田秀雄海軍兵曹長(37歳)の日記の拾い読み。
「昭和20年9月16日モロタイ戦争犯罪収容所に入る。毎日砂袋(40キロ)をかついで作業すること。珊瑚礁を掘る仕事」
「昭和21年3月3日大虐待を受ける。左腕をおられる。今日にいたるもしびれる」
「7月26日メナド警察官より調べを受け拷問を受けた。顔、尻に傷」
「10月30日裁判を受けて死刑を言い渡される。一方的裁判である」
「昭和22年3月3日死刑となる。戦争犯罪者は皆血の出る虐待を受ける」

死刑を宣告された死刑囚たちは、監視兵による虐待が夜と昼となく続いた。犬や猫の真似をさせたり、夜中に起こして二時間もコンクリートの上に座らせて罵詈雑言を浴びせたり腕立て伏せをくりかえさせて蹴りつけたり、お互い日本人同士をなぐらせたり、床の上にまいた飯粒をはいつくばって食べさせたり、その虐待方法はよく思いついたという種類のもので、死刑囚たちは半死半生となった。

(5)イギリス、シンガポール裁判の一例
第17方面軍参謀の杉田一次大佐は戦犯容疑者としてシンガポールに移送された。彼は自刃の前に、日本軍が英軍俘虜にたいして守っていた待遇と英軍が現在行っている日本軍俘虜に対するむごい待遇を比較対照を五十四頁にわたって記し、英軍と日本軍の双方に配布してこれを遺書とされた。
「シンガポールにおける英軍の日本軍俘虜に対する待遇は虐待と同じです。朝食はビスケット三枚、昼食も夕食もお粥で、野菜はほとんど食べさせてくれない。服務させられている仕事は波止場の荷役をはじめ市街地のどぶさらいや女性たちの産後の汚物の洗濯、婦人将校たちの下着類の洗濯などです。みな、ボロ着をまとって一日も早く日本に帰還できる日を待っています」

英軍裁判の場合も、各地で逮捕・収容された日本兵たちにあたえられる毎日の食事、片手に握ることができほどの量であり、みな飢えに苦しみ、身体の衰弱と戦わねばならなかった。作業に追いたてられている昼間も収容所に帰った夜間も絶え間なく監視兵による虐待が続き、思考力もなくなり、隙をみては地面にごろごろとよこたわる状態であった。

(6)支那、北京裁判の一例
「われわれは死刑囚と同居し、その一人一人が刑場に引かれていくのを見、犬猫もそむける食物に肉体は骸骨のように痩せ衰え、病人、発狂者が続出する中で酷寒と酷熱の春夏秋冬、前後を入れて約一年半の獄中生活を送った。異国籍人と同居のため、憎悪、悪罵、ひがみ、ねたみ、その中にはもちろん友情もあったが、虫けら以下の生活に、体の弱い私はほとんどまいってしまった。点滴、輸血も数回に及んだ」

支那の裁判や犯罪者に対する慣習は、他の西欧諸国とくらべると異色なところがあります。例えばBC級戦犯者全員に「足鎖」がつけられた。全重量7キロもある。行動の自由は奪われ、足もしびれる。刑の執行法も他国と違っていた。市中引き回しのうえ、所定の空き地に連れてゆき、大衆が見物する中で銃殺する。初期の段階では二時間も三時間も市内を引き回されるうちに投げつけられる石で半死半生となり処刑場に着いた時には、意識を失い、死んだも同然だったという例もある。さらに銃殺の際に心臓や胸を狙わず、最初にわざと急所をはずして撃つので“戦犯者”の苦しみようはひとかどならず、親日的感情を抱く見物人から非難があった、という目撃談もある。

4.無念さこもる遺書の例
(1)台湾歩兵第二連隊長、田中透少将の妻子あて遺書
戦争中、チモールの東に在るスルマタ島にて、土民が反乱を起こし、我が兵を殺害せり。依って、父は討伐隊を送りて、全犯人一千名中より、主たる者約百名を捕らえ、死刑とせり。当時我が軍律会議は、アンポンに在りて、チモールより一千キロ以上隔て、その間敵飛行機、潜水艦の危険甚大にして、犯人を送る方法なく、父は司令官として、緊急自衛権の発動のより、此の処置を為せり。之は国際公法に違反せざるところなり。然るにオランダ軍は見解の相違により、自衛権を認めず。昭和23年1月24日、父は死刑を宣告さる。事情の如き故、此の運命に遭遇せり。従って、全く名誉の戦死と同様なり。御身等二人は、絶対に父の正義を信じ、他人に対して臆するところなかれ。父は御身等二人さえ信じ呉るれば、此の世に何等思い残す所なし。昭和24年4月7日に処刑された。
辞世の句: 日の本の民は逞し百難を乗り超えて立つ時ぞ待たるる。
      阿佐ヶ谷の日の暖かき我庵を瞼に画き文子思いぬ。

(2)中屋義春憲兵中尉の妻への遺書
隊長(膳英雄憲兵大佐)も全然身に覚えなき事件なり。故に軍事法廷に於ける公判廷に於いて堂々と弁論なしたるにもかかわらず我らの条理にかなった弁論も虚偽なりとて採用してくれず、支那側に有利にきめこんで我ら二人を無実の罪に陥れたのである。この様な暗黒裁判、非人道なる裁判による悲憤やる方なき者が幾多あることか、全くの無実の濡れ衣を着せて平然たる支那側の態度は人道の敵として世界の世論を喚起すべきだ。○子よ(註:
妻の名)、日本人に檄を飛ばし、憤死せる余の仇を討って呉れ。孫子の末まで言い残し余の死を空しくするなかれ。

(3)前田利貴陸軍大尉の弟と妹への遺書
終戦後とかく部下から種々非難され、又此の種戦犯者の取調べに際しても、上官と部下が互いに責任をなすり合い、果ては外国人に対して我が身可愛さから部下又は上官を売り、無事帰国した人々の多い中で、兄は常に部下たる石田、石渡両君及び他の人々から愛され、召喚を受けてからひたすら「部下及び上官を無事に内地に帰す」という初心を最後迄守り通せた事、加えるに原住民特にサウ島警備隊長時代(兄の責任のもとに行われた一切の仕事)の至誠が天に通じているものと、之亦現在如何なる罪の汚名を受くるとも兄は幸福である一つの理由だ。原住民は皆「前田は曲がった事がきらいな真直ぐな人間だ、善人であるからなんとか助けて下さい」と嘆願してくれたのだ。如何に兄を極悪人なりと軍法会議で決定しても一般の声は善人なりという。之だけでも充分ではないか。

(4)山口県出身、兼石績海軍大尉
私は無実の罪で死刑になるのは誠に残念である。然し敗戦日本が無条件降伏後に於いて日本の国体と国土を護り日本民族の滅亡を止めるために血の代償は是非必要であると肝に銘じ、国家の犠牲となる私の心中を親も兄弟も妻子も知って戴きたい。

私がこのブログ記事を書くにあたって利用した資料は、特に海外裁判については、ほとんど岩川隆氏の著書、「孤島の土となるとも」(BC級戦犯裁判)(講談社)からのものです。この本は1995年に出版されています。岩川氏は1933年生まれ、私より五歳先輩です。岩川氏が、文献として参考にしている本は、「世紀の遺書」(巣鴨遺書編纂会)です。この本「世紀の遺書」はBC級戦犯として処刑された人たちの七百一篇の遺書・遺稿を集めたものです。岩川氏は、この本ばかりでなく未発表の資料を駆使し、体験者や遺族のかたがたに面会し、25年の歳月を要して書き上げた原稿が1600枚、大作であり労作です。ちなみに拙著「大東亜戦争は、アメリカが悪い」は1100枚です。読者は私が紹介した資料は、岩川氏の大作のほんの一部であると理解していただけるでしょう。岩川氏は、BC級戦犯裁判についてこれほど徹底した本を書きあげても、彼は最後にこう書いています。
「日本国内では戦後いち早く、元陸海軍将校を主体とした調査班が厚生省引き上げ援護局内に置かれ、20年近くにわたって国内に住むBC級裁判体験者たちに面接し、資料を集めた。途中この調査班は法務省の管理下に置かれたが、その間に収集された膨大な記録や資料は今もって公開されていない。『まだ生きている人たちのプライバシーに関わる』『国際間の外交問題にも微妙な影響を与える』『賠償問題に直接関わってくる』というようなことが、非公開の主たる理由のようだ」

私はいまこそ公開して日本国民に知らせるだけでなく外国にも知らせるべきだと思う。そのために国家の予算を使ってでも翻訳すべきなのです。最後に私は著者、岩川氏に苦言を呈したい。岩川氏は、最後にこう書いているのだ「(略)戦争犯罪の事実はこれからもたゆみなく追求されるべきであり、真の責任者も明るみに出さなければいけないと思う。日本再建を信じて逝った刑死者たちの冥福を祈るとともに、日本軍の戦争犯罪によっていわれなき悲惨な死を遂げたアジアの一般の人たちの霊に心から詫びたい」

この「心から詫びたい」という文章、これは一体なんですか。こういう立派な本を書く人でさえ、「詫びる」すなわち「謝罪」と言う言葉を使いたがるのです。日本民族は、過去のこと水に流す民族です。そのために過去の嫌な事は、早く忘れようとします。過去のことを水に流したり、早く忘れようとするために、日本民族自身が悪くなくても謝罪ですませようとする癖があるのです。一方日本民族以外の民族は、過去のことは絶対に水に流しません。例え謝罪しても絶対に水に流しません。今年の8月12日の産経新聞で桜井よしこ氏はこう書いています。
「歴史に関して日本国政府がどれほど謝罪を重ねてきたかを調べてみると、その夥しさに愕然とする、ざっと見て、日中国交正常化当時の田中角栄以来、菅直人首相の談話まで、実に36回に上る」

いくら謝罪しても水に流してくれない証明でしょう。岩川氏よ、日本が戦争に勝てば、日本はトルーマン大統領やスターリン首相は、絞首刑にします。ドイツが勝てばヒトラーは英雄でしょう。これが戦争の現実です。なぜ日本が詫びなければならないのでしょうか。道徳論で戦争が起こることはないのです。道徳論で戦争をとらえるのをやめてもらいたい。
敗戦で終わったからと言って、また謝罪したからと言って戦争が終わるのではありません。戦争史観の戦いが続くのです。だから誤っても彼らは水に流さないのだ。

私は読者の皆さんに御聞きしたい。日本民族は、無実の罪を着せられた日本兵が死刑判決を受け、拷問虐待を受けながら処刑されていった日本兵が沢山いるのに、教科書で教ようともしないどころか、日本兵がやってもしない「従軍慰安婦事件」や「南京虐殺事件」を堂々と教科書に載せて日本兵を非難するのでしょうか。

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