日本の歴史家、特に近現代史家にはバカやアホが多すぎる。私に言わせれば、数学を教える先生に人間性を問われないでしょう、あるいは問う必要もないでしょう。しかし歴史を教える先生は、人間性を問われます。なぜなら歴史の先生は、生徒にうそを教えるからです。数学に門外漢の私に言わせれば。1+1=2。 これは数学上の真理でもあり、また世の中で誰もが否定できない事実です。だから1+1=3と教える数学者は絶対にいないでしょう。それだけに私のような数学について無学な人間は、数学者は、教室でうそをつくことはないのではないかと考えて、数学者は人間性を問われることはないと解釈しているわけです。
ところが歴史学者は違います。歴史学者に一つの史実資料を与えたとしましょう。ある学者は、史料を読むが「偽物」だといってその史料を無視する人、あるいは史料を読むがその内容を曲解する人、あるいはその史料を正しく理解する人、どうして同じ史料を与えたにもかかわらず歴史学者によって解釈の仕方が違うのか、すなわち歴史観が違ってくるのでしょうか?皆さん、なぜだと思いますか。それは歴史が、時勢、時流、権力者の影響を非常に受けやすい学問だからだと思うのです。拙著、「逆境に生きた日本人」を読んでいただければわかっていただけると思いますが、日本人は、この時勢、時流や権力者の意向に極端に弱い。付和雷同は日本民族最大の特徴です。日本民族の付和雷同性を皮肉る外国製ジョークは、いくつもあります。時勢、時流や権力者の意向に従うためには、いままでの考え方とは180度も違う転向を平気でやってのけるのだ。
戦前と戦後の歴史家の違いは何かと言えば、答えは簡単です。戦前の歴史家は、日本の大絶賛、日本批判の一言も言ってはダメ、戦後の歴史家は、日本の大批判、日本絶賛の一言も言ってもダメ。祖国の歴史がこんなに両極端になって、日本の歴史家に果たして祖国の歴史を教える資格があるのかと言いたい。度を越した自虐史観が現在日本の歴史学界全体の歴史観になっていて、大学で歴史を学び、中学校や高校の歴史の先生になった人たちは、ほとんど自虐史観そのものです。大学内での自虐史観への挑戦などは、絶対許されないのです。もし挑戦したら、学者としての出世は、望みうす、学校の歴史の先生としての就職も望めないでしょう。
保守言論界の巨人、西尾幹二氏、現在76歳。専攻は東大ドイツ文学。その西尾幹二氏が29歳の時、雑誌「自由」に『私の「戦後」観』というタイトルの論文を発表し「自由新人賞」の入賞論文になった。私は二、三年前にこの論文を読んだが、内容は徹底した自虐史観批判で、当時の著名知識人をボロクソに批判しています。西尾氏は、講演の時この論文を指し、「私は、この論文で東大文学部教授への道を棒に振った」と語った。その時からおよそ50年後の現在、東大文学部教授の肩書きを背に岡本陽子氏がさっそうと登場、自虐史観の本を書きまくり、度々NHKに登場する人物となっています。彼女は、大学時代から自虐史観を忠実に学び、一歩もはずれることなく忠勤に励んだ結果、東大文学部教授の肩書きを得たのです。このように大学では自虐史観が主流派ですから大学の現役学者が自虐史観に挑戦する本など書くことはめったにない。自虐史観への挑戦者は、ほとんど西尾幹二氏や渡部昇一氏のように歴史が専門でない学者ばかりです。それに在野ともいうべき私のような一介の定年サラリーマンのような人たちが加わります。その在野の挑戦者でもちょっと稀有な存在の女性を紹介しましょう。
数年前「ペリー提督の上陸用舟艇」という論文を発表した東京在住の北村陽子氏です。北村氏の何が稀有かというと、自分の書いた論文が日本歴史学会に挑戦しているということが暫くの間気がつかなかったこと。また在野の人が歴史本を書くというのは、たいがい若い時から歴史に興味があったというのがほとんどです。ところが彼女は違った。彼女は美術系の大学を出、現在は主婦です。大学時代を含む若い時は、歴史など一切興味がなかった。だから歴史小説さえ読んだこともなかったのです。その彼女がどうして専門家顔負けの論文を書くまでになったのか。彼女に言わせると、自分が教育ママだからですと言うのだ。教育ママだから子供を博物館などによく連れていきます。ある時上野の科学博物館に子供と一緒に出かけた。天文系の展示で、日本で初めて太陽の黒点観測したのは近江の国友鍛冶、国友藤兵衛という人物だと知った。鉄砲のような殺人道具を作る人が、夜空の星や太陽を観察するというその落差が彼女の胸にグッと感じるものがあった。国友藤兵衛の人物を調べようと思い鉄砲史学会に入会。そこで江戸の鉄砲鍛冶を知り、そこから江川太郎左衛門を知り、太郎左衛門から開国の歴史に踏み込み「ペリー提督の上陸用舟艇」という論文が生まれたというわけです。
この論文の概略: 幕府に開港をせまるにあたってペリーの採用した軍事作戦は、「砲艦の集中使用」と「サーフ・ボードと称する一種の上陸用舟艇」による上陸作戦の実施と「陸戦隊」の起用の三点であった。特に威力を発揮したのがサーフ・ボードと称する一種の上陸用舟艇です。船首にボート・ホーイッスルと呼ぶ曲射砲が設置されていた。その曲射砲も固定式に設置されているのでなく、自由自在に旋回できる砲座の上に設置されているのだ。当時の日本人はこの砲を「船放自在砲」と呼んでいます。この「船放自在砲」が上陸用舟艇で上陸し、砲座から外され二輪掛けの砲車に設置されると野戦砲に変身するのだ。要するにこの「船放自在砲」は、水陸両用に設計されていたのだ。この「船放自在砲」が野戦砲に変身し、その威力は、幕府側に大きな影響を与えた。それまで幕府は、海上では勝てなくても、陸上では勝てるだろうと予想していたのだ。なにしろ江戸湾は、遠浅で黒船艦隊は、極端に陸上接近して停泊できないからだ。ところが上陸用舟艇の「船放自在砲」、それが陸上では野戦砲に変身、陸戦隊が放つライフル銃の威力、陸戦でもとうてい勝てないことを悟ったのだ。このようにペリーは、圧倒的軍事力を実際に見せ付けての軍事圧力で幕府側に開港をせまり成功させた。
アメリカインディアンが白人に接触した時の軍事技術の差は、ほとんど弓矢と銃の差だった。だから戦いもした。しかし江戸末期の武士がペリー艦隊に接触した時、その軍事技術の差は、どうしようにもない開きで一戦を交えることが不可能だったのだ。この論文を発表してから彼女は、しばらく考えこんでしまった。「なぜ私みたいな一介の主婦が調べれば書けることが、歴史の専門家の人たちが書かなかったのだろうか」と?その後いわゆる「ペリーの白旗事件」を知り、私のブログなどを読むようになって、彼女は日本の歴史学界は、自虐史観中心で、日本のことはいくら悪く書いてもいいが、アメリカのことはあまり悪く書けない、書かないのが暗黙の了解になっているのと、同時にペリーの圧倒的軍事力で強引に開国を迫られて開国が実現したことを強調することを好まれていないことを知ったのでした。私がこの論文を読んで、最初に私の頭に浮かんだのは、いわゆる「ペリーの白旗事件」でした。読者の中にはすでにご存知の方も多いと思いますが、「ペリーの白旗事件」の概略は以下のようなものです。
ペリーは帰国後、膨大な遠征航海記を書いています。ところがその膨大な遠征記には書かれていないことが、当時の日本の外交文書に書かれているものがあるのです。それはなにか。彼の遠征記では、ペリーは幕府との外交交渉で3通の書状を提出したと書いてありますが、実際は四通の書状を幕府に提出しているのです。その四つ目の書状には、国書の受け入れを拒むなら、それは天命に背くことである。戦いとなれば必ずアメリカが勝つから、その時にはこの白旗を掲げて和を請えと書かれているのです。そしてその書状と一緒に二本の白旗が幕府に渡されていた。この史実の出所はと言えば、当時の日本の対外関係を知るための第一級の史料と言える「大日本古文書・幕末外交関係文書之一」です。
ところがなぜかこの白旗事件が、戦前もそして戦後も長く日本国民に知らされることがなかったのか。戦前の理由の一つに新渡戸稲造があげられています。新渡戸は、アメリカのジョン・ホプキンス大学で博士論文を得るために「日米関係史」(The Intercourse Between The United States and Japan)という論文を書いています。新渡戸が史料として白旗事件のことが詳しく書かれている水戸藩主、徳川斉昭の著「海防愚存十条五事」を使用し、長々と紹介しているのですが、白旗事件のことは一切触れていません。何故か?新渡戸は、自分の評判を上げるためにアメリカ政府に媚をうったとも言われています。私もその考えに同意します。新渡戸は「武士道」を書いて有名ですので、すばらしい人物のように思われていますが、私は人間的には彼はきらいです。ここでは詳細を省きます。
それでは戦後の理由は何でしょうか。幕末外交史を研究する歴史家にとって、先にあげた「大日本古文書」は必読の本です。それがどうして長い間「ペリーの白旗」事件が日本国民に知られることがなかったのか。それは先に触れた自虐史観の影響です。それではいつ日本国民に知れわたるようになったのか。1990年にアメリカ人のピーター・ワイリーの著書、「神々の国ヤンキーたち――ペリー提督と日本の開国」が出版されたからです。それでは著者ピーター・ワイリーは何を参考にしてペリーの隠された白旗書簡のことを知ったのかというと「大日本古文書」が1970年に英文に翻訳されていたからです。要するに「白旗事件」は江戸時代の日本人が書いたのにアメリカ人によって知らされたということです。
北村氏は、ペリーの黒舟艦隊の軍事力の実態を詳細に調べあげてその圧倒的軍事力の差を書き、それが大変な圧力なって開港を導いた主張しています。だからこそペリーは、戦になればアメリカが勝つから、その時はこの白旗を掲げよと二本の白旗を日本に渡したということは当然考えられる筋書きです。それではなぜペリーは、この事実を隠したのか、先に触れたアメリカ人作家、ピーター・ワイリーは、「遠征が日本国民に対する威嚇であったような印象を与えないために、自分の報告書にはこの書簡を書かないことに決めたのだとしか推量のしようもない」と書いているが、私はその推量はまともだと思います。ところが、この白旗書簡は、日本人が作成した偽物だと主張する人が現れたのだ。誰か?自虐史観の親分的存在の歴史学者で東京大学教授、宮地正人氏です。日米両国が正式に交わした外交文書に書かれているわけでなく、アメリカ側にはなくて日本側だけにある文書など史料とは言えず、偽文書だと決め付けているのだ。宮地氏の場合、徹底した自虐史観論者だから、日本を悪い国にしなければなりません。そのため江戸末期の開国は、ペリーの武力威圧で強引に結ばれたということを強調したくないのだ。そのため無意識のうちにアメリカ擁護になり、アメリカの御用学者になってしまうのだ。従って日本の歴史学者にとってペリーの黒舟艦隊の軍事力の実態を調べた北村氏の論文は、歓迎できない論文なのです。
「大日本古文書」が英文翻訳されていますから、ペリーの白旗書簡は、少なくとも歴史の専門家に知られていたのです。ところが自虐史観が支配的なため誰も世間に公開しようともしなかった、あるいは公開できなかったためにアメリカ人の作家によって公開された。一方ペリーの黒船艦隊の軍事力の実態は、日本の歴史家によって調べられなかった。実態を暴くと、圧倒的軍事力の差で強引に外交をせまられたことがばれてしまうからです。もし北村氏の論文が発表されなかったら、黒船艦隊の軍事力の実態は、自虐史観が歴史学会の絶対的主流派であるかぎり日の目を見ることはなかったでしょう。それだけに北村氏の論文は、貴重であり読む価値があります。北村氏の論文、「ペリー提督の上陸用舟艇」は、横須賀市開国史研究会編集・刊行の「開国史研究 第五号」に掲載されています。販売は横須賀市役所、市政情報コーナー、電話046-822-9478。本代800円、郵送代290円、合計1090円払い込むと郵送してくれます。多分部数に限りがあると思いますので早い者勝ちだと思います。
「開国史研究 第五号」には北村氏の論文をふくめて四つの論文が掲載されていますが、その一つに岩下哲典氏が書いている「ぺりーの白旗書簡論争への一つの回答」も白旗書簡に関心のある方には興味があるのではないかと思います。北村氏は、この論文を本にして出版する予定にしています。さらに彼女は現在三本の歴史論文を書いているそうです。若い時歴史など全く興味なかった彼女が、子育てもそろそろ終わろうかという時に、次々と歴史論文を手がけるという離れ業をやってのける、隠れていた逸材に花が咲く時がきたようで今後の北村氏の活躍が楽しみです。
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11 comments »
terag3 より:
2011年9月25日 10:08 AM
えんだんじさん
ペリーの白旗事件の話ですが、私はずっと若い時に知っていたつもりでしたが1990年と言えば今から21年前、若いと言っても当時55歳、私が国産バイクからBMWバイクに乗り換えた頃の話だったのですね。
歴史学における実証と言えばニュートリノを利用したタイムトラベルでも開発しない限り金輪際、無理な話だと思います。歴史とはその国によって、その人の価値観によっても異なってきます。
例えば先日テレビでやっていた「クレオパトラは美人だったのか」という番組では正反対の見方が有るように・・・・ですから私は歴史学者などは新興宗教と同じく信頼出来ず、自分の生きて来たこれまでの経験則というものを取り入れながら、色々な情報を取捨選択しながら判断しています。
ところで「ペリー提督の上陸用舟艇」は、横須賀市役所にあるのですか、早速明日市役所に行って求めてきたいと思います。貴重なお話を有難うございました。
りんごあめ より:
2011年9月25日 12:12 PM
主婦がやむを得ない状況になり実力を発揮するケースはよくあることですが
興味や疑問を突き詰めて行って!というのはまたまた凄いですね。
子育てと言う仕事を終えて、さらに世のために活躍する、ぅう~~ん主婦の鏡!
このような大きなことは出来なくても、小さな小さなことでもほんの少しでも
世のためになることをやりたいと私などは願うばかりです。
戦後、卑屈な知識人によって多くの貴重な資料がないもののような扱いを受けてきたようですが
最近は少しづつ流れが変わっていくのが感じられます。
えんだんじさんをはじめ知識と筆のある方々のご尽力がこうした流れを作り出して来たのだと思います。
改めて感謝です。
えんだんじ より:
2011年9月25日 6:31 PM
terag3さん
国産バイクからBMWバイクに変えたのは、品質ですか、外国製がめずらしいからですか。本田はそのころ品質はどうなったのでしょうか。
terag3 より:
2011年9月26日 8:49 AM
えんだんじさん
品質です。ヤマハの650で横須賀から羽田まで毎日通勤に使っていたのですがある日、首都高速生麦付近で渋滞にはまりやっと前が開けて先頭で飛び出しアクセルをひねって右カーブを走行中に前方に何かあると思った瞬間乗り上げて転倒したまま30~40メートル位スリップ、体は大丈夫でしたがバイクはお釈迦になりました。
乗り上げた物体は車のジャッキでした。ジャッキを落とした犯人は特定できないから諦めろと言われました。
それからBMWのR100RSに乗り換えましたら拳大ぐらいの石に乗り上げてもプルンと弾き飛ばして車体はびくともしない安定性が有りさすがにドイツのバイクは違うわいと、6年間で10万キロも走ってしまうほど乗りこみました。
現在は、イタリアンスクータースカラベオ250GTに乗っていますがこれも大型ホイールで安定感がありアクセルレスポンスが抜群で惚れん込んでおります。バイクは死ぬまでやめられません。
terag3 より:
2011年9月26日 8:55 AM
えんだんじさん
質問はホンダでしたね、失礼いたしました。ホンダのバイクも250、350、450、500と乗り換えていましたが良かったですよ。500のときには知らずにスピードが出てしまい酷い時には1日に往復2回もネズミ捕りにやられて所持点数が残り1点しかなくなるほどでした。
今でもそうですが、アクセル全開で走るのが趣味ですから仕方がありません。
えんだんじ より:
2011年9月26日 1:26 PM
りんごあめさん
りんごあめさんも子育てが終わる頃、大きな仕事をなさる人だと思っています。文章は達者だし、知識は深いし、確か生徒を教えている仕事だってでしょう。それに作詞もなさっている。私は、子育て後のりんごあめさんの大活躍を期待していますよ。
奥様 より:
2011年9月26日 9:24 PM
インターネットのおかげで、権威ある?歴史学界の現実がどんどん浮き彫りになりますね。
すごい人が日本にはまだまだいっぱいいるのですね。嬉しいことです。
terag3 より:
2011年9月27日 12:29 PM
えんだんじさん
北村陽子氏の論文「ペリー提督の上陸用舟艇」を横須賀市役所から購入してきましたので報告します。
横須賀市役所1階、会計窓口の右奥側に市政情報コーナーがあります。そこで表題の論文を購入したいと申し出でたのですが係員は中々その本がどこにあるのか分かりませんでした。
担当者があちこちへ電話で問い合わせた結果それは「開国史研究」第5号という冊子のp.29~p.63に北村陽子氏の表題の論文が掲載されていることが分かり求めてくることが出来ました。
この本は、横須賀開国史研究会から2005年5月21日に発行されています。価格は800円ですのでお求めになる方はご参考に・・・
なおこの書籍はアマゾンドットコムでも販売されていませんので念のために申し添えます。
えんだんじ より:
2011年9月27日 1:28 PM
奥様さん
彼女の場合、若い時歴史に全然興味なく、それがいきなり歴史論文ですからね。
いい意味で驚異ですよ。
えんだんじ より:
2011年9月27日 1:35 PM
terag3さん
ブログ記事の最後のページには、こう書いてあります。、
「ペリー提督の上陸用舟艇」は、横須賀市開国史研究会編集・刊行の「開国史研究 第五号」に掲載されています。」800円の値段も書いてあります。
最初から「開国史研究 第五号」と言えば、もっと簡単にわかったかもしれませんね。
terag3 より:
2011年9月28日 12:04 PM
えんだんじさん
そうでしたね、彼女のブログに書いてあったのですか。私はそのブログを見ていませんでしたので、いきなり市役所の担当者に論文の表題を言っても分からなかったのですね、失敗でした。
それにしても本日の神奈川の世論の投稿で紹介されていましたがNHK BSプレミアム「BS歴史観」(2)の放送で“幕末日本外交は弱腰に非ず”が放送されたそうでその内容は、以下のように紹介されていました。
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黒船来航。武力で迫るアメリカの圧力に、幕府は何もできずに屈服したといわれる。しかし実際は、現場の交渉責任者は、知恵と決断と交渉力で日本の主張を通していた! ペリーと渡り合った学者・林復斎は、ペリーのどう喝に動ぜず、その矛盾を次々と突いて主導権を常にリード。領事ハリスと交渉した幕閣・岩瀬忠震は、日本の海外飛躍の構想を実現すべく、ギリギリの応酬を繰り広げた。知ら
れざる男たちの戦いの真実に迫る。
当時の幕府はこのようなペリーの恫喝ともいえる砲艦外交に多大なる脅威は感じていただろうが武士道を重んじる日本人として毅然たる対応をしていたのですね。現代日本とは比較にもなりません。