若い女性たちに告ぐ(その3)

保育園育ち
現在日本政府や大都市の地方自治体は、保育園に入園するための待機児童が一人もいなくなるように保育園数を増やすために懸命です。女性の社会的進出の欲望、貧困化、それに応える形での保育園の増加、少子化傾向が続いているいため、いずれ日本中どこでも待機児童もなくいつでも保育園に入園できるのも時間の問題でしょう。私に言わせれば、これはまさに国家的規模で行われている日本民族劣化推進政策以外のなにものでもありません。しかしだからと言って保育園が我々の日常生活に密接に結びついているため、保育園を拒否して生活は営めません。だからこそ保育園教育のどういうところに欠陥があるのか指摘し、その対策を講じなければいけないのではないでしょうか。幼児教育は、大人なってから学ぶ能力開発とか資格を獲得するための教育などとは比較にならないほどの重要です。幼児教育は人によっては生涯にわたって深い影響を及ぼし、大人になってから容易に変更などできません。幼児教育に失敗したら、ほとんど取り返しがつかないし、その子供にとっても親にとっても不幸としかいいようがありません。「幼児教育と脳」という本を書かれた澤口俊之氏は、0歳から8歳までは母親は家にいるべしなどと発言しています。

どうしても保育園が必要な家庭の事情もある人もいるでしょう。しかし多くの人は、保育園にあずけるのが当たり前の感覚になっているのではないでしょうか。幼児教育などという堅苦しい言葉を使いましたが。もっとくだけた話をしましょう。今から50年前までの主婦は、ほとんど専業主婦、だから自分の子供には一年中毎日24時間たっぷり母親の愛情をそそげることができました。ところが現在の主婦は一年中毎日どころか一週間のうち休日の24時間しか母親の愛情をそそげることしかできないのです。どちらが子供にとって良いか悪いかは誰でもわかるでしょう。だからと言って私は、女性の社会的進出に猛反対しているわけではありません。保育園には欠陥があります。その意識すらもなくただやみくもに保育園に入れてしまえばそれでいいという安易な気持ちが恐いしまたそれを非難しているのです。保育園の欠陥を意識すれば、親の心構えも違ってくるでしょうから、まずその欠陥を列挙しましょう。

1.子供は親が育てるもの。
現在は子供が生まれれば保育園に預けるのが、ごく当たり前のようなってしまったため、どうかすると今の若い両親は、子供は保育園が育ててくれるものと思い込んでいると言っても過言ではないような気がします。保母さんは、母親にはなれません。子供は親が育てなければいけないのだが、経済的事情とか、女性の社会的進出の願望の強さとが合い重なって止むを得ず保育園にあずけるのだという意識を持ってもらいたい。このやむを得ず子供の保育園にあずけるのだの意識が薄いため、子供に申し訳ないという気持ちもわかず、その結果として無意識のうちに自分の子供の子育て責任が薄くなり、さらにひどくなると子育て責任を感じなくなってしまうのです 恐ろしいことです。保育園というものは、大人にとっては便利なもので利用価値はありますが、子供にとっては残酷なものなのです。幼児がもし言葉がしゃべれたら、「ママのそばがいい、保育園はいやだ。」と言うに違いありません。皆さん、そう思いませんか。こういうことを心底意識して保育園に入れるのと、こんなことも意識せず、ただ自動的に子供を保育園に入れるのとでは、幼児教育に大変な差が出るのです。

2.母性愛の減少。
胎児はおよそ10ヶ月と10日間母親の体内にいます。10ヶ月と10日が母性愛の育まれる直接の原因にもなるわけです。この期間で父性愛は、母性愛に決定的な差をつけられのですが、しかし母性愛は、この10ヶ月と10間だけでは不十分なのです。赤ちゃん誕生後、昔の母親は、一年365日何年間も手塩にかけて育てていくからこそ母性愛がさらに、さらに強くなっていくのです。昔から世話のやける子は、可愛いといいますが、それだけ母親が面倒みなければなりません。それがまた愛情を産みさらに母性愛が深まるからです。現在の母親は、保育園入園後、休日だけしか手塩にかけないのですから当然母性愛が薄くなるのは皆さんも理解できると思います。昔の人は母性愛が強いから進んで子供の犠牲になろうとします。しかし現在の母親は、子供の犠牲になるのを好みません。子供を手塩にかけて育てる時間が少なすぎて母性愛が強まらないからです。保育園の存在が母性愛の減少を生むのですが、その傾向にさらに拍車をかけるものがあります。戦前の日本人には弱く、戦後の日本人に強くなったもの、すなわち個人の権利の主張です。個人の権利の主張もけっこうだが度がすぎると我がままになります。ただでさえ母性愛の減少に、個人の権利の主張が加わりますから、現在の親は、子供の犠牲になるのを好まないどころか、親が平然と自分の子供を親の犠牲にしてしまうのです。このことが幼児や児童を平気で虐待する原因の一つにもなっているのです。親の児童虐待について皆さんに話したいことは、私が子育てしていた頃には、親の幼児、児童虐待などはほとんどありませんでした。あったとしてもそれは大ニュースになったのです。ところが現在は親の児童虐待は日常茶飯事。なぜかその傾向を探ってみると、保育園育ちの男女が大人になって子供を生むようになってから急激に増えた現象なのです。これは私の年代だからこそ言える事柄なのです。

3.親の責任感の欠如
およそ50年前まで続いた専業主婦時代には、保育園などという発想そのものがありませんでした。そのため親が子育てをしなかったら、誰がやるのかと親の責任感が生まれてくるし、責任感も強くなります。しかし現在のように誰も自動的に保育園にあずけるとなるとどうしても親の責任感が薄れてくるものです。最近大阪市で2児の虐待死事件が起きた。24歳の母親は、長女(3歳)と長男(1歳)が衰弱しているのを知っていながらごみと糞尿が散乱する部屋に置き去りにし外出し帰宅しなかった。このまま必要な食事を与えなければ死亡するとわかりながら、帰宅せず餓死させて殺害してしまったのだ。今流行りのと言わなければならいほど繰り返される「育児放棄」です。あまりにも残酷と懲役30年の判決が下された。「育児放棄」は親の責任放棄と言っても過言ではありません。動物にも劣る人間の父親、母親の続出です。人間社会も落ちぶれたものになってしまいました。

4.過保護
保育園は動物園と同じです。動物園に飼われる動物は、お客さんに見せる商品です。従って動物たちをケガさせたり、病気にかからせるわけにいきません。大事に大切に飼われます。動物どうしでけんかすれば檻を変えて引き離されます。保育園の園児も全く同じように飼われるようなものと言っても言いすぎではないでしょう。病気している園児を預かることはしませんから、保育園にとって一番怖いのは、園児にケガさせることでしょう。園児に度々ケガさせると保育園の悪評になりかねません。幼児どうしのけんかがあってもすぐ引き離されてしまう。動物園の檻の中のけんかと同じです。幼児にも持って生まれた幼児なりの闘争心の芽が摘み取られてしまうのだ。私は男だから、園児の男の子をみると可哀そうでなりません。男の子は、女の子と比べて遊び方が荒っぽいのが当たり前なのです。私が子供の頃は、外に出れば私と同じような年齢の子、少し年上の子、少し年下の子、いわゆる不特定多数の男の子があつまり、女の子が決してしない荒っぽい遊びを親の監視ぬきで遊ぶ子供の世界があった。現在の子は男も女も、子供の世界を体験することなく大人になってしまうのです。そのため園児は無意識のうちに過保護に育てられてきたことを大人になってもわからないのです。

幼児教育は、専業主婦にはかないません。そして保育園には上記のような欠陥を伴うのです。そのことを社会全体で無視していると言っても過言ではありません。私は学校でセックスを教えるなら、教室で自分たちが保育園で育てられた過程にはこういう欠点がありますと、それこそ公民教科書で教えるべきではないかと考えております。保育園で育てられてきたからこそ、早い段階で母親、父親への自覚を教育することが大切だと思うのです。

ところで話はがらりと変わりますが、最近話題の本を紹介しましょう。「女性宰相待望論」(自由社)です。今世紀は女性の世紀。もうそろそろ日本にも女性の首相が誕生してもおかしくありません。日本で女性首相が誕生するなら、この9人の女性代議士の中から間違いなく出るだろう。選ばれた9人の女性代議士のインタビュー本です。何故私は、この9人の中に選ばれなかったのかとカリカリしている女性代議士もいるらしいです。選ばれたこの9人、けっこう皆さん日本のために仕事していますね。時間があればちょっと読んでみるのもおもしろいですよ。

次回は二週間後の5月5日に(その4)を掲載します。話題は「貧乏若夫婦、5年でまとまったお金をつくるには」です。引き続き読んでいただければと思っています。

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8 comments »

terag3 より:
2012年4月21日 11:05 AM
えんだんじさん

このたびは非常に深刻かつ、デリケートで悩ましい問題についての論説でした。
いわゆる卵が先か、鶏が先かと同じで保育園待機児童を減らすことに各地方
自治体は努力されていますが、少子化、未婚男女を減らす対策として夫婦の
共働きを支援するために保育園を増やそうと言うのは理解できますが、それ
よりも根本的な対策は共働きをしないでも夫の給料だけで十分に暮らせる
賃金を与えることが先決でしょう。

そうすれば母親は零歳から8歳ぐらいまでべったりと子供に愛情を注いでも
暮らせるが、社会の現状は、そうなっていない。
物価は上がるし賃金は上がらない、企業では少しでも人件費の安いところへ
外国でもどこでも出掛けて人件費の削減に熱中することになっている。

そうなると、行き着くところは社会保障の充実とか、はたまた社会共産主義
などへとサヨクの連中が活躍する事になる。

親の責任感の欠如として例に挙げられた育児放棄による幼い3歳と1歳の
2児を殺害した若い母親に懲役30年の判決が下された事件など30年でも
まだまだ足りない、終身刑かもしくは死刑が妥当だと思っています。

元をたどればそれは保育園育ちの結末なのか?
簡単にくっついて出来ちゃっても嫌になれば簡単に別れる。
結婚(夫婦交合)を何だと心得ているのか!

日教組は低学年の学童にセックスを教えているがセックスより、まずは
父母になる自覚、人間としての倫理観、愛情、道徳と言うものをしっかりと
教えるのが先決であろうに何と言う浅はかな考え違いをしているのか!
とそれでも教師と言えるのかと言いたいです。

okusama より:
2012年4月21日 3:43 PM
>えんだんじさま
最近では女性が専業主婦をできるのは、夫の給料がよほど良い家庭だと言われています。

わが家の娘たちは、旦那様は薄給?ですが、頑張って保育園に預けることはしていません。幼稚園には行っていますが。

産まれて半年くらいから人の手に預けるなんて、絶対に反対・・・と言い聞かせてきたからです。保育園も国の補助で可能になっています。私は保育園に一人あたり必要な金額を国が若い世帯に補助してでも、家庭で育てるようにしたほうが、よほどいい子供が育つとさえ思います。・・・・・この話はもっともっと言いたいことがありますが・・・・・

えんだんじ より:
2012年4月21日 7:51 PM
teragaさん、okusamaさん

昔の日本、我々の若い頃の日本は貧乏国でした。それでもほとんどの主婦は専業主婦。ここ最近の日本は経済大国、それでも主婦が働かないと暮らしていけない。なにかおかしいと思いませんか。私は現在の若い男女は、貧乏な暮らしにがまんできない、貧乏に耐えられないのではないでしょうか。だから主婦がはたらこうとするような気がするのですけど、どうでしょうか。

terag3 より:
2012年4月22日 10:03 AM
えんだんじさん

確かにそれは言えています。
わたしらの結婚した時期は安月給でしたが2軒長屋を家賃3千円で借りて家内は
専業主婦で、いくらににもならない手内職をやりながら3人の子育てをしました。

一方、現在はと言うと大人になった3人の子供たちは結婚してすぐに家を買って
車を買って、わしたちの若いころよりより、ずっと優雅な暮らしぶりです。

それは幼児を預ける保育所が有るから出来ることなのです。保育所に預けると
言っても離乳食が終わり、独り歩きが出来るようになってからのことでそれまでは
育児休暇を取ってその間、しっかりと愛情いっぱいに育てていましたが・・・・

また夫婦揃って子煩悩、上手に子育てをしているし月に2回以上、我々じじばば
の家に家族揃って遊びに来ていますので、核家族と言う気はしていません。
まあ、我が家の場合は家族の絆もしっかりしていて良い方だと思っています。

話は脱線しましたが要は、現代社会の家族の中には貧乏をものともせずに
専業主婦が安月給でも実に上手にやりくりして暮らしている人々もいる半面
貧乏たらしいことはまっぴらごめんで、共働きをすればもっと優雅に暮らせる
ということに夫婦揃って目標を立てて、上手に協力しながら生活している者も
いると言う訳です。

しかしながら我が家のような比較的に恵まれた家族関係を維持しながら生活
している家庭は、そう多くは無いような気がしています。

従いまして最初に「デリケートで悩ましい問題」だと申し上げた次第なのです。

okusamaさんの所などは、如何なものでしょうか?

歴史伝習者 より:
2012年4月24日 5:57 PM
 「子供は社会みんなで育てる」という政党の「客寄せ」概念、というか幻想、妄想に取り憑かれて久しくなりますね。
  最近、私はこの「子育て」という概念自体に「民族亡失狂詩曲」の曲名を冠したいほどの恐れを感じます。
 つまり誰も「子育て」と声高に言うけれど「人育て」とは言いません。民族、文化、伝統一切を加味した矜持を持った「人」そのものを育てるという「支援」は誰もいたしません。
 子供を預けなくては生活できない、だから行政の支援が必要である。もっともです。しかし、だれも「人間形成」の価値を強調しない。子供は「モノ」ではないのです。「愛」が必要なのです。その「愛」はお母さんも子供から放射され相互に愛を交信する。ところが「モノ」としての子供はお母さんから受けるべき「愛」を受けることなく年齢を重ねていく。
 お母さんは次第に子供の情操よりも世間的ポジション、勉強の出来、不出来で価値を決め始める。
 そこには無償の愛を絶対の価値観はなく、自分とのキャリアとの比重計算で、物理的損得計算で「人に子供を預けること」にいささかも逡巡しなくなったモノ同士が同じ屋根の下にいるだけです。
 子育て支援の出発概念は子供とはお母さんを「苦しめる」加害者でお母さんは「被害者」という主題なのです。「子供はとんでもない存在、母親のキャリアをなくすモンスター」という基本概念に「本当にお困りのお母さん」以外が多数来襲する。それがなければここまで一般化しないはずです。
 つまり、「嫌なことはやらなくていい」という人格です。「和をもって貴しとなす」という言葉があります。これは仲良しさん同士、これからも仲良しで。という意味ではありません。意見、感覚の違う「生理的に嫌な対象とも歩み寄ること」が本来の意味です。
 もし子供と共有する時間が嫌なことと思っているなら自分の子供に歩み寄りましょう。私は子供を育てるのは「子供」を育てているのではなく、「人間を育てる」事であり、それが子供時代なのか大人の時期なのかによる違いに過ぎないと思うのです。人として目指す人格そのものは同じであり、人間は嫌だと思うことを受け入れて、人格が向上していくはずで、一生ついて回るテーマです。「子育て」が単体で存在しているのではない。
 このような考えは左翼志向が強い現代では受け入れられないでしょう。しかし、私は誰も説得しようとは思いません。ただ、人にやさしさもなく、先祖への畏敬の念がなく、妻、夫に思いやりがなく、友達との約束も破り、それでいて自分の権利は主張し、人に恩を着せ、困っている人がいても「ひとごと」と決めて無視して自己啓発など持ってほか、資格、権力を握ってもそれは自分のため、「国は嫌いだけれど権力は好き」という人間がこれからもドンドン増えていくでしょう。
 大人も子供も、結局人間としての基本教育を受けていない現実が、今全国いたるところに出没していることにわれわれはこの「子育て支援」という美名なかに潜んでいることを知るべきではないでしょうか。

えんだんじ より:
2012年4月25日 7:20 AM
歴史伝習者さん

非常に含蓄のある文章です。私も同感です。

okusama より:
2012年4月26日 9:44 PM
>terag3さん
本当に悩ましい問題ですね。

まぁ、昔の家事と今の家事では電化製品の発達やなにやかやで、主婦がする家での労働が減っているということもありますね。

とりあえず3歳までは母親が育てて~と、私は自分の娘たちに言うことしかできません。

terag3 より:
2012年4月27日 11:05 AM
okusamaさん

最近は男性社員にも育児休暇を付与する会社、企業も出てきた
ようですがほとんどの零細企業では無理でしょう。

公務員であれば女性が結婚して子供が生まれれば育児休暇が
与えられその間休職していても、また元の職場に復職出来ます。

したがって公務員の夫婦はお互いに、子育てをしながら定年まで
勤めることが出来るのです。

一方、民間では中々そのような恵まれた環境にはなっていない
ところが多く子供が生まれれば女性は退職ということになります。

就職先の条件によって千差万別あり、そこに所謂、運の良い人
悪い人が生じてしまうことになる訳です。

要は夫婦が共働きしないでも暮らして行ける収入が確保出来れ
ば良いのですが現代社会の情勢はそればかりではなく、今より
もっと家庭の収入を増やして豊かな生活を送りたいという気持ち
も強いので保育園という問題が生じて来るのでしょう。

愛情一杯に育てなければならない幼児を犠牲にする事なかれ
家族の絆を大事にせよと強く言いたいですね。

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