体罰は暴力ではありません。

大阪市立桜宮高校2年のバスケットボール部主将が同部の顧問教諭から体罰を受け、その翌日(12月1日)自殺した事件について新聞、テレビなどいわゆるマスコミで大騒ぎでした。まるでマスコミは、今度の選挙で自民の大勝、民主の大敗にがっくりきて、そのうさはらしに体罰いじめが始まったような感じがしないでもない。現職の橋下市長も最初は、「体罰は愛情だ」などと公言していたのが、巨人の元投手、桑田の体罰拒否発言に動かされたふりをしたのでしょう、俄然と体罰自殺に関する体罰を批判しはじめた。市教委は、ただちにバスケとバレー両部の無期限活動停止を決めた。橋下市長は、1月15日には2月13,14日は、入学願書受付の日なのだが、体育科80人とスポーツ健康科学科40人の入試の中止を市教委に要請した。市教委は1月21日に入試を中止するかどうか決定するのですが、橋下市長は、入試が中止されなければ、市長の権限である教育予算の執行停止などの対抗手段をとる考えを示しているのだ。一方下村文部科学大臣は、文科省は、大阪市教委に入試中止の命令を下す権限はないが、来月にも入学願書を受け付ける段階で入学中止とは、おかしいのではないかという判断をしめしています。

そして先月1月21日、大阪市教育委員会は、桜宮高校の体育系学科の募集定員120人(体育科80人、保健科学科40人)の募集を中止し、定員120人分を普通科として募集することに決めた。橋下市長の入試中止の要求を答えると同時に来月にも受験が始まるという直前の受験生のためにも体育系学科中止の分と同じ生徒数を普通科に増やす処置を取ったことになります。要するに市長側にも受験生側にも配慮を示した形で終わったのだ。はたしてこれが一番良い、懸命な解決策なのだろうか。

日本のマスコミがあまりにも偏向しているから、一概に結論を出すのもおかしいのですが、マスコミの報道どおりに解釈していたら、私に言わせたら日本人は、皆バカと言わざるを得なくなります。バスケットボール部の顧問教諭が主将に体罰を加えた。その主将がそのため自殺した。そのため体罰そのものや体罰を加えた顧問教諭だけに非難、批判が集中され、自殺した主将には批判、や非難は何も向けられない。これはちょっと異常な行動ではないでしょうか。バスケの顧問教諭は、昨日今日顧問教諭になったわけではない。15年間も顧問教諭をやっていたのだ。一昨年9月にバスケの体罰が発覚し保護者が校長に手紙を書いたが、改善せず、今度は保護者が市教委に体罰を訴えた。そのため顧問教諭は、停職3ヶ月の処分を受けた。その処分が解けた顧問教諭はバスケ部に復帰、去年11月に体罰を繰り返し、12月1日に主将が自殺した。

要するに主将は、バスケ部に入部する時から体罰があることは充分知っていたのだ。ところが自分が主将になった時から、主将のせいでしょう自分一人が体罰を受ける回数が増えたのだ。これが耐えがたかったのだ。なぜ自分だけ体罰を受けるのか。自殺前に書き残した手紙にはそう書いてあった。ここで私が、強調したいのは、なぜ自殺をしなければならないのかという精神的弱さが世間に強調されねばならないのに、まるで日本全体がその精神的弱さをあえて指摘してはならないような雰囲気になっていることです。

昨年は十数年ぶりに年間自殺者が3万人を切ったらしい。これまで12,3年、毎年自殺者が3万人以上だった。そのためテレビや新聞などマスコミで自殺者数の問題がとりあげられた。特に若者の自殺者の増加が深刻であった。あれこれと自殺対策を考えるのに夢中で、精神的に強い人間を育てあげるにはどうしたら良いかという観点で考えることが全くないと言っていい。それどころか、国は若者にもっと夢や希望を持てる社会をつくらなければだめだと言うのだ。ふざけるなと言いたい。一体世界のどこに多くの若者が夢や希望のもてる国に住んでいるとういうのだ。若者には、どんなきびしい生活状態でも少しでも上をめざして進むのが若者の道でしょう。ところがこの自殺したバスケの主将は、なにごとにつけ体罰を受けるのがいやなら、退部すればいいものを退部しようともしない。要するに若者特有の反抗心すらないのだ。この自殺した若者の精神的弱さに対する批判が一切なくこの事件が処理され、体罰だけが全面的に否定されたら、一体世の中の若者はどうなるのであろうか。

そして今度は日本女子柔道部15人に体罰を振るう監督への抗議の手紙です。大事件になり監督は辞任した。若い日本国民に知ってもらいたいのは、体罰のやりすぎは、暴力になってしまいがちになりますが、体罰は、原則として暴力ではないことです。私は子供三人を育てました。勿論、体罰を加えました。特に息子には、鍛える意味もあってたまに激しい体罰を加えたこともあります。しかし体罰をする人間にとって体罰が常習化しないことが肝心なのです。スポーツ指導者にとって体罰の常習化は、逆効果を生むだけなのです。体罰のどこまで許されるかの判断は、非常にむずかしいのが常識です。現在の若者が、私のような昔の人間より体罰に弱いことは確かです。だから体罰が昔より手加減がむずかしいことも確かです。

大阪市の外部監察チームが桜宮高校の全生徒約840人人にアンケート調査をした。その結果8パーセントにあたる約70人が体罰を受けたことがあると云っています。大半が運動部体育系二科(360人)の9パーセントで、普通科(480人)は約7パーセントが体罰を受けたと回答しています。体罰が日常化していることがわかりますが、体罰は暴力でないことがわかります。一つ、一つの体罰がすべて暴力であったら、体罰は長続きしません。暴力と思わないから多くの生徒がだまって受け入れるのです。従って体罰は、悪だからすべて中止すべきなどと主張すべきではありません。それより体罰を課す人たちに体罰の仕方を教えてあげるのが最良の策ではないでしょうか。

私は、自分のブログで何回か主張してきましたが、ここでも繰り返します。人生とは何かと問われれば、「人生とは戦いである」と答えます。人生とは戦いそのものなのです。健康な体を持った、若い青年が自殺するなど最低の人間のすることです。私の若い頃自分の息子が小学一、二年のころ、私が自分のマンションの窓から偶然見ていたのですが、年上の男の子となぐりあったり、くんずほぐれつとけんかしていた。最後は押さえつけられた息子が泣いた。そこで男の子はけんかをやめた。私はすぐに部屋を飛び出し、息子の所へゆき、息子の頬をおもいっきり殴った。「けんかに負けて泣くやつがどこにいるか!」「負けても泣くな!」とものすごい剣幕の大声でわめいた。私に言わせれば子供が自殺をするのは、親の教育が悪いのだ。現在の親は、どうしようもない不埒な子供がそのまま大人になっても勘当することもできないのだ。腑抜けな親には、腑抜けの子供が育つ。現在は頭の良い子より、精神的にタフな子供の方が将来性が高い。
今度の桜宮高校の体罰問題、体罰を下した学校の教諭が、七、八割悪く、自殺した生徒は二、三割悪いのだ。自殺者が何も批判、非難されないのは異常というほかはありません。

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