私の死生観

今月の8月1日で私は満75歳になり、後期高齢者の仲間入りをした。死期が近づいたのだ。私と同年代の人たちに問いたい、死後、人間の体どうなるのでしょうか。2、30年ぐらい前だったと思う、名前は忘れたが、ある有名人が、人間は死んだら、ただゴミになるだけ、生きている間、人間は計りきれないゴミを出し、死ぬと自分がゴミになって片付けられるだけと言って死んだ。この時以来、私は、人間は死んだらゴミになるだけ、だからゴミとしてかたづけられるだけという考えが頭の中から離れません。しかし残された家族には、想い出として残るでしょう。然し想い出として残るのは、孫或いはひ孫ぐらいだけでしょう。その後の人たちには、先祖の一人としてかぞえられるだけ。それを考えると人間というのは、死に対して大騒ぎし過ぎではないだろうか。現在、夏のセミが一生懸命鳴ています。セミの寿命は1,2週間と言われています。しかし木の下にはセミの遺骸が集団になって残っていません。セミは、ほんの短い1,2週間の寿命でも前もって自分たちの寿命を知ると、どこかに消えて亡くなるのです。空を飛んでいる鳥は、元気な鳥ばかりです。病になって必死に飛んでいる鳥はおりません。鳥も自分の寿命を知ると、人知れずどこかに消えてなくなるのです。

人間も原始に帰れば帰るほど、例えば人間が二本足で歩き始めた頃は、人間も動物と同じように死期を悟った人間は、自然と人間社会から離れ、あるいは離されていったに違いない。昔、エスキモーは、必ず白内障になって目が見えなくなります、そうなったら老人は、家族一緒に行動できなくなり、数日分の食料を与えられて置き去りにされていった。日本には姥捨て山があった。ところ現在では、寝たきりになってしまった老人は、いつまででも生かされるのです。現在、自分のように70代の元気な老人でいる時は、自分はあんな姿にはなりたくないと誰もが思ったことでしょう。しかし現実には、寝たきりになった老人はたくさんいます。自分はもうこれ以上生きていると、自分で物をたべ、自分で排便し、自分でお風呂にはいれなくなると考えた時、自ら死を選んでいくことができなくなってくるのでしょうか。自分でこれ以上生きていたら、他人に迷惑をかけるだけと知った時点で、私は、自ら食を絶ち、自分で死ぬつもりでいるが、その時には自分で自分の死を行う気力がなくなり、或いは自分の脳の力、脳力が衰えてしまうのかもしれません。そんなことは絶対に避けなければならないと強く自分に言い聞かせています。

仏教では、体と心が一つとなり私たちは生きているが、死んでしばらくすると遺体と心は分離すると言われ、お葬式の後、体は火葬して骨になり、49日の法事の後、遺骨はお墓に埋葬されますが、心は来世に行くのです。だからより良いところへ逝ってくださいと功徳を手向けるために盛大に四十九日の法要をするわけです。
そうして、みんな来世で新たに自分に相応しい転生をすべく、人間に生まれ変れるなら、身ごもったお母さんのお腹の胎児に入って輪廻するのです。だから皆さんご存知のことと思いますが、当たり前のようになされる四十九日の法事は輪廻ということを前提に特別に大事にされていることなのです。
ネットで偶然知り合ったお坊さん、横山全雄氏が書いた「ブッディストという生き方」(大法輪閣)にこのように書いてあります。私はそんなことはないと思います。横山さんは、何十年にもわたって仏教を研究されてきた方の発言に対して、仏教など特定の宗教に帰依したことがない私が、そんなことはありませんなどというのは、大変失礼で乱暴な言葉で非常にもうしわけないが、私はそんなことはないと思っているのです。人間は死ねば、ただのゴミです。だからかたずけられるのです。なぜ死後の考え方に相違がでるのか、それは私は、人間も動物だから、すなわち人間も動物も同じだからという考えかたから生まれていると考えています。原始社会になればなるほど人間は、動物と同じで死期を悟った人間は、人知れず人間社会から去っていったか、去らされたに違いないと考えているからです。そして文化文明が発達することによって、人間が動物より優れているという考えが広まり、人間の死と動物の死とは違うとまで考えるようになったのではないでしょうか。

「人間が死ねばただゴミになるだけ」という考え方は、本人に大変な功徳を呼ぶものです。それこそ生きているうちが花という考え方になりますから、生への執着心が非常に強い。自殺など最低の最低になりますから、自殺などはあり得ません。雑草のように生き延びるのです。元気で長生きしたいという気持ちが、私は定年後非常に強くなったと思う。体の衰えを防ぐために、運動して体を動かし、脳機能の衰えを防ぐため、読書や文章書きをし、食事に気をつけ、年に一回人間ドックに入り検査する。私には持病が一つある。前立腺肥大症です。これは男の老人病です。しかし前立腺肥大症で死んだなどとうことは絶対にない。ひどくなれば手術すればすむこと。私は、それ以外体には要注意点はないのです。体ばかりでなく、心のケアも必要です。年をとると感動することが少なくなります。私は、その感動する力を衰えないようにするのだ。それに一番良い方法は、美人を見たら感動することです。私は道で美人に出くわすと努めて感動してながめまわすことにしています。相手に気付かれて変な人と思われるから、その点を気づかいながら、なんと素晴らしい女性だろう。そんな女性に相応しい洋服を着ているだろうか、もし着てると美しさが倍加するから見てて気持ちがよくなります。私は75歳のいまでもおしゃれに気を使うから、気分的に若々しさを保つのに友好なのです。この年でもテレビでファッションショーをよく見ますし、昔はファッションショーを見ながらお食事を何回かしたことがあります。あれも楽しい食事だった。この年齢で最大の弱点は、若い女性との会話が全然なくなってしまうことです。気分的に年寄り臭くなく、できるだけ若い気で過ごすというのが一番むずかしいのではと思っています。

こうして心身共に若さを保ちながら長生きし、100歳まで元気で長生きし、100歳になったら自分の死の準備、すなわちゴミになる心がまえをし、自分でゴミなる決断をつけ、自分の遺骨は、湘南の海に撒いてもらうのです。だがここで問題が一つ出てきます。私の先祖のお墓は、小田原にあります。お墓は昔から長男が引き継ぐことになっています。私の兄弟は、三人で私の下に二人妹だけ。妹は他家の嫁に行っています。私が先祖の墓を継いでいます。先祖のお墓の継承者が自然死を選んだからといって、先祖のお墓にはいらず、遺骨を海にばらまいていいのかどうかが問題になってきます。しかたないから分骨案も考えています。遺骨の半分は、先祖のお墓に入れ、残骨は海にばらまくことです。あるいは自分の息子に私の死生観を話し、自分の遺骨全部を海にばらまくかです。どちらにするかは、私はまだ決めていないのです。

ここで読者の皆さんに注意していただきたいのは、私は、人間が死ねばただゴミになるだけとう考え方を皆さんに勧めているのではなく、私の死生観を語っただけですとうことです。何年かまえこんな話しを書いたら読者の方から、なぜそんな考えをもつのかと怒られたことがあるからです。また世の中には、色々な宗教に加入し何十年と宗教に奉げた人たちもいます。私はそういう人たちをさげすむ気持ちももうとうありません。ただ私は、残された人生は、こんなふうに生きていこうとしているだけです。同年代の人たちはどういう死生観をお持ちなのでしょうか。

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8 comments »

terag3 より:
2013年8月10日 11:54 AM
えんだんじさん

このたびは誠に面白いお話でした。
私も、えんだんじさんの死生観とほぼ同じですが、死んだら、ゴミになるとは考えて
いません。また私の家は日蓮宗ですが私自身は信徒ではありません。
我が家の墓地は鎌倉霊園の芝生墓地で15~6年前に購入して、長男である私が
墓守をしています。

また義母のお世話になっている、家の近くにある日蓮宗のお寺のお坊さんとは
年齢も近いので、法事のときにはお説教を聞いたりして仲良くして貰っています。
しかし私自身は、八百万の神々を信じていて、ひとつの宗教には拘りません。

なので私の場合、仏教による葬式はしない、戒名はいらない、ただし、折角お墓が
有るので、墓石には戒名で無く、現世の名前を書いて貰って、後々の子孫たちに
こう言う先祖が居たのだと思い出してもらいたいと思っています。

要は家族の絆は死んだ後も変わらない、死んだ者は「無」と言う世界に行きますが
生き残った者の心の中に死者の面影が残っている、残された者の中に自分は永遠
に生きていると考えるのです。

だから家族は何時までも仲良くしてお互いに愛し、愛されるように生きることが一番
大切だと思います。

処で、老後の健康維持ですが、母親も101歳になり、多少の「ボケ」は仕方があり
ませんが介護も不要で日常生活にも支障は有りません。
そのような次第で、私も、この母親から健康を引き継いでいるのか、78歳になって
も大丈夫、未だに現役でビル管理の仕事をやっていますが、もうひとつ良いことは
その職場が宿泊研修施設、つまりホテル業なのでフロントスタッフには20代の若い
女性が5~6人一緒に勤務しているので、楽しく会話したり歓送迎会、御苦労さん会
などの飲み会にも一緒に行って彼女たちから若いエキスを吸収しています。

これなら100歳まで十分に健康で、生きられるものと確信しているところです。

東埼玉人 より:
2013年8月10日 3:00 PM
 数年前、死んだらゴミになる、と聞いたときは訝しく思いましたが、今回の文章で納得しました。
 ゴミという言葉ですが、手元の新潮国語辞典によれば、①ちり、あくた、②濁った水に溶けている沈殿物や泥、③無用なもの、とあり、この②の意味や、また現代の「廃棄物」の意味もあり、そのイメージに引きずられて誤解を受けると思います。ちり・あくた、無用なもの、といった乾いた(ドライな)イメージならば、よく理解できるように思います。
 屍(かばね)、亡骸(なきがら)、といわれるならば、それ自体厳粛なものを感じます。(それが人間のみの持ちうる感覚でしょう。)その遺体をどう「扱うか」ということですね。遺灰を海にまく、えんだんじさんらしい、きっちりした考え方だと思います。(私にはとてもできませんが。)
 数ヵ月前にみた「マディソン郡の橋」というアメリカ映画(といってもビデオですが)のヒロインが、夫や子供達に内緒にしていたわずか一週間の出会いの男性が自分の遺灰をまいたマディソン橋から、ヒロインの遺灰も(夫の墓に埋葬せず)、同様に思い出のマディソン橋からまくように遺言していたことを思い出しました。

えんだんじ より:
2013年8月11日 8:23 AM
東埼玉人さん

ブログへのコメントありがとうございます。
「マディソン郡の橋」は、私は映画をみましたが、そんな場面がありましたっけ。忘れてしまいました。

えんだんじ より:
2013年8月11日 8:33 AM
terag3さん

20代の女性5,6人と一緒に働いてるのは、すばらしいですよ。ひがみや
嫉妬を感じます。うらやましいです。なんといっても若い女性の生気を感じ
ることができるのは、多くの老人がそうそうできることではありません。
実にうらやましいです。

りんごあめ より:
2013年9月5日 11:46 AM
「姥捨山」は、実際はちょっと意味が違うようです。

こわ~~い妻が男の養母を汚らしいから捨てて来いというので
山へ捨てるのですが自責の念から和歌を詠む。
わが心なぐさめかねつ更科や姥捨山に照る月を見て
妻はその歌に心を打たれ、養母をまた家に戻すことをゆるしたか。
今も昔も日本の女性は強くて怖いですよ!情にはもろいけど(笑)

えんだんじ より:
2013年9月6日 8:15 AM
りんごあめさん

そういう話だったのですか。私は知りませんでした。教えていただきありがとうございました。さすがりんごあめさんですね。失礼しました。

横山全雄 より:
2013年9月19日 4:28 PM
えんだんじ様

拙著をお読み下さり、誠にありがとうございます。死んだらゴミになるだけとのお考え。人それぞれですから、今のご認識として受け取っておきたいと思うのですが、現代人はこの身体が自分との思いが強すぎるように思います。心と身体と分けて考えてみることも必要でしょう。

たとえぱ臨死体験というのがありますが、身体が仮死状態になって、心が身体から出て天上の方から自分の身体を見ていたり、またオートバイの事故で、事故の瞬間上の方から自分の身体が転がるのを見ていたという人があります。また、雪山登山者が遭難したとき同じように雪崩に巻き込まれる自分の身体を上から見ていたという報告もあります。

そして何よりも死んだら何もないというのは本にも書いてあるとおり、今さえ良ければよい、何をしていても上手く死ねたらめっけものというような人生観を植え付けるのではないでしょうか。やはり善く生きねばならないという、それでなければ次の世が怖い、後生が悪いと昔の人が言うような人生観の方が失敗しないですむと思います。

万が一来世があったとしたら大変なことになる、そんな人生を送ってしまったら、後悔してもしたりないということになります。キリスト教にも昔は輪廻の思想があったのだと言います。ローマ帝国時代に不都合とのことで削除して今に至ります。

動物と人間の差についても触れられていますが、その差を意識するのはキリスト教の方でしょう。仏教は輪廻する衆生として、動物にも生まれてきたであろう。そこに居る動物はかつて自分の母親だったかも知れないと考えて、慈しみの対象としてみるのです。

長くなりますので、又の機会に。取り上げて下さって、ありがとうございました。

えんだんじ より:
2013年9月20日 9:36 AM
横山先生
ブログへのコメントありがとうございます。
何十年も仏教を学んでおられる横山先生のお言葉をよく理解できず誠にもうしわけないとおもっております。
確かに幼少時から、人間は死んだらごみになるだけと教え込んだら、ふしだらな人間になる恐れは十分にあります。
ただ長い人生をおくりながら自然とそういうふうになっていったのは、それはそれでいいのではないかと思っております。先生から文章をもらえるとは思ってもみませんでした。ありがとうございました。

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