高倉健のなぞ

俺は若い頃から高倉健の熱烈なファンだった。数多くの映画を見たが平成11年に公開された「鉄道員ぽっぽや」には大泣きさせられた。理由があった。平成11年は、俺が61歳の定年を迎えた年だった。「鉄道員ぽっぽや」の主人公、高倉健は北海道のローカルラインの駅長ただ一人という小さな駅の定年まぢかの駅長で、定年後は廃線になり、その駅がなくなるという状況だった。期せずして映画の主人公と俺は、定年時期だったのだ。主人公は機関車の釜タキをし、機関士になり、ローカルラインの駅長になっていった。一人娘が死んだ時も、女房が死んだ時も、自分が駅で電車を迎え、送り出さなければ誰がやるのだと言って、二人の葬式にも出ず、駅のホームの出ていたのだ。彼は鉄道の仕事を愛し、誇りに思っていただけに、愚直なまでにまじめに勤めあげてきたのだった。それだけに定年を迎えることは寂しいことだった。
それにひきかえ、俺など実働40年間に外資系五社を渡り歩き、最後の五社目に就職したのが54歳、実働7年で定年退職。自分の仕事を誇りにするどころか好きだと思ったことがない。愛社精神などつめのあかほどもなかった。ただ、ただ生活するための仕事だった。こんなサラリーマン生活でも長所はあった。定年を迎えた時など、さびしさを感じるどころか、これからが俺の人生のスタートだと思っていた。

映画の画面で、子供の時に死んだ娘が主人公の夢の中に若い女性(広末涼子)になって現れ、
自分のお葬式に出席してくれなかったことなど、お父さんを少しも恨んではいないなどとしきり主人公をいろいろと慰める姿に、主人公が懸命になって涙をこらえようとするのだが、涙があふれでてくる。この場面での高倉健の名演技、俺が年をとって涙もろくなっていること、俺一人でこの映画を見たことで涙を隠す必要がなかったなどがいっしょになって俺の顔は涙、涙でぐしゃぐしゃになっていた。その高倉健が最近83歳で死んだ。彼は江利チエミと離婚したが、まだ若かったはずだ、再婚どころか浮いた話も出ずに83歳一人で死ぬなんて理解できなかった。そこでネットで調べてみたのだ。

高倉健28歳、江利チエミ22歳の時、二人は結婚した。当時の高倉健は、無名の俳優だったが、チエミは空前の人気を誇っていた。結婚生活12年後二人は離婚した。その間に江利チエミは妊娠したが妊娠中毒症にかかり子供を流産した。離婚の原因は、江利チエミの異父姉の虚言と横領で、チエミは億という借金を抱え高倉に迷惑をかけたからだ。江利チエミから離婚の申し出であった。要するに高倉健は12年間まともな結婚生活をし、離婚した時は40歳。40歳といえば男の働きざかりだ。それにもかかわらず、再婚どころか浮名も流さず独身を通して83歳で死んだ。以前の俺は、高倉健は、世間には知られていない彼女がいたのだろうと想像していた。彼は付き合いが非常に広く、また誰からも好かれていた。もし彼女の存在を隠していても、隠し通せることはむりだったろう。俺は女房に、高倉健が40年間も独身で通した理由はわからないと言ったら、彼女は、「それだけ健さんは、チエミに惚れていたんでしょう」と言うのだ。俺に言わせれば、チエミがまだ生きているなら、それもあり得るかもしれないが、チエミは45歳の時、病気と事故の重なり合いみたいで死んでいるのです。この時高倉健は51歳の若さです。もうとっくに死んでいる彼女に思いをよせているだけで独身生活を続けていられるだろうか。男の俺としてはとても理解できません。

フランス人で世界的に名を知られた歌手で俳優のイブ・モンタンは、女優のシモーヌ・シニョレとの長い結婚生活中に彼女が病気で死ぬと、38歳年下の自分の秘書と再婚した。1988年イブ・モンタンが65歳の時、初めての子供、長男が誕生し、彼は有頂天になっていた。高倉健は、これを知ってイブ・モンタンをうらやましがっていたのだ。高倉健は子供好きなのでしょう。チエミが妊娠中毒症で子供をおろさねばならなかったのを残念がり、彼女の死後彼はこの世に生を受けなかったわが子のために水子地蔵をも建てているのです。その彼が40歳で独身になり40年間再婚どころか恋人すらできなかったということは、男の俺としては、どうにも理解できない不思議な男と言うほかありません。
ある男が若い時、結婚もせず、そのまま老人になって死んでいったというのなら、俺は理解できます。しかし若い時結婚し、12年間も結婚生活を続け、自分の性格的欠陥で離婚したのでなく、チエミ側の事情で分かれた。それも40歳の若さで別れたのです。その後40年間再婚もせず、彼女もできなかったというのは、不自然過ぎます。俺だったらとっくに再婚しているでしょう。イブ・モンタンのように長くつれそった女房が病気で死ぬと38歳も年下の女性と結婚し、60歳過ぎて初めて子供をもち喜んでいる方が俺には男としての親近感を感じます。

週刊新潮、12月4日号では、離婚後の高倉健の二人の女性の話を書いていた。一人は彼が40代の若い時の女性、二人目は、彼が老年時の年の差40歳の女性。この新潮の記事は憶測にすぎない。最後の文章はこういう記事で終えています。「プライベートを徹底的に隠し、『不器用な男、高倉健』を演じきった映画界の巨星。これほど衆目を集めながらも、その実相は今なお厚いベールに包まれたままだ。」
週刊新潮自身が、新潮の記事は憶測にすぎないといっているようなものです。俺に言わせれば、高倉健の持つ名演技と彼の男らしい風貌がマッチして不器用な生き方しかできない男の中の男というイメイジができあがってしまったのだ。実生活では沢山の人たちから好かれ愛され、彼に苦言をあびせる人もなく、40歳での離婚後のプライベートは、徹底的に隠し通し、文化勲章を受けることができるなど器用な生き方のできる男だったのではないのか。逆に彼は恋人ができたり、再婚したりして上手くいかなくなって別れるようなことがあったら、せっかく築いた彼の名声に瑕がつくと思っていたのかもしれない。若い女性と再婚し、60歳過ぎて子供ができたら、文化勲章もらえるのでしょうか。それとも目的達成のためなら清廉潔白な男を演じることができたのでしょうか。定年後の男性の皆さん、彼が40歳から40年間再婚しなかった理由づけ、何か推測できますか?あったら教えてください。

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3 comments »

terag3 より:
2014年12月6日 5:00 PM
えんだんじさん

高倉健ですか、いい俳優でしたね!私より4歳年長者で、同じく福岡県出身。当時の映画は、昭和残侠伝を良く観ていました。唐獅子牡丹、唐獅子仁義、人斬り唐獅子、吼えろ唐獅子、破れ傘etc・・・・昔を偲んでまた、当時の映画のDVDを探して、再度観てみようと思っています。

ところでその高倉健は、あくまでも私見ですが、彼は本当に純情一途だったのだと思っています。江利ちえみと、12年間連れ添って仲睦まじくやっていたのが、江利ちえみの親族の金銭トラブルで、ちえみの方から離婚を申し出た経緯、お互いに苦しかったであろうと推察しています。

ですから、高倉健は、ちえみの葬儀には出席しなかったが、毎年2月13日の命日には、その前後に必ずちえみの墓参に出掛けていたそうですし、ちえみが妊娠中毒で流産した際に、生まれてくることが出来なかった水子の供養もしていると言いますので、それらを勘案しても、えんだんじさんの奥様が仰るように、>「それだけ健さんは、チエミに惚れていたんでしょう」・・・・が正解だと私は信じます。

彼の、ルーツは、れっきとした武将の先祖に辿り着くのだそうですね。日本映画界にとって本当に惜しい人物を亡くしたと思っています。せいぜいこれから、昔の映画のDVDを探して観させて頂くことにします。

terag3 より:
2014年12月14日 9:40 PM
えんだんじさん

私の親友から高倉健さんの風聞を入手しましたので、以下にご紹介します。

その親友の知人で、彼の先輩に当たる昭和7年生まれで、高倉健さんより1歳年下の方だそうですが、中央大学出身のラガーマンで、親友は子供の時から剣道一筋で畑違いながらも、その先輩とは親しくお付き合いをしていた仲だったとか。

その先輩が、言うには>高倉健はね、若いころ遊郭の女将に囲われていたんだよ、あの風貌に加えて、独特の雰囲気の男でねと・・・・ぽつんと話されたひと言でしたが、良く覚えています。・・・・と語っていました。

当時は未だ、遊郭が大手を振って営業していて、前にも話しましたが、私も当時18歳で馴染みの女を作って、金が入った時には、通っていましたが、健さんも当時22歳の身空ですから遊郭の女将に囲われていたというのも頷けます。

同世代で郷里も同じ、方や高校時代から、ラグビーで鳴らした男、方や健さんの方は、中学時代からボクシング、そして高校時代には相撲部で鍛えていて、しかも身長は六尺豊かの大男(180センチ)体重も、80~90㎏は有ったと思われる立派な体格です。・・・・だから映画の乱闘シーンも様になるのです。

そして親友は、こうも言っていました。>テレビで聞いた話ですが、高倉健は、江利チエミが京都で映画の撮影の時に、チエミに逢いに東京から毎日通ったそうです。しかも京都での逢い引き時間は10分しかないと言うのに・・・・この話を聞いて、この男は本物だと思いました。何かに一途に打ち込むと、まっしぐらになるタイプなのでしょう。そうでなければ文化勲章まではいきません。

また彼の家が焼けたときに、焼け跡に大量のコンドームがあったと聞きました。彼の女性遍歴は業界内では、自然に、タブーになるほどの位置づけが出来上がっていたのでしょう。お付き合いしたお相手の女優がいても不思議じゃないです。

男女の交流が無い(聞かない)というのは、名僧、高僧の域でしょうが、その名僧、高僧も女には、大いに興味津津の時期があり、山越え谷越えをしているはず。そうでなければ名僧、高僧の域へは悟入出来まいと思います。文化勲章受章者でも、色よいお話があってこその人物であり、これまた楽しでであります・・・・

以上が、私の親友が語ってくれた話ですが、何かのご参考になればと思い、ご紹介いたしました。

えんだんじ より:
2014年12月17日 8:47 AM
teragさん

返事がおくれてすいません。返事をだしたつもりでいました。
詳細な情報ありがとうございました。

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