渡邊望著「大東亜戦争を敗戦に導いた七人」

9月19日にえんだんじのブログで紹介した林千勝著「日米開戦陸軍の勝算」の林氏は50歳代前半、今度の渡辺氏は40歳代前半、二人とも実に若々しい期待がこめられる作家です。渡辺氏は大東亜戦争敗戦の責任者として七名をあげています。山本五十六、米内光正、瀬島隆三、辻正信、重光葵、近衛文麿、井上成美。彼はこの七人の敗戦責任罪状を説明し、同時に七人の人物像を書いているのだが、この人物評がうまい。何人もの人物像を書く場合、私に言わせれば著者の人物自身が非常に素直であることが大事なのです。そうでないと描かれた人物像がゆがんでしまうからです。この本も新書版同様にわずか231頁の小作品だが非常に読みやすい。えんだんじお勧めの作品です。
この本に描かれた7人の敗戦責任者のうち次の二人について私なりのコメントを付け加えてみました。
瀬島龍三
本書に詳しく説明されているが、瀬島は、非常に重要な二つの電報を握りつぶして大本営に伝えなかった。これはかれの仕事の範囲で握りつぶしが行われた行為でなく越権行為だった。この二つの握りつぶしが後に日本政府と日本軍に取り返しのつかない悲劇が訪れることになるのだ。終戦直前の7月瀬島は大本営参謀から満州の関東軍参謀に転勤になり、以後11年間にわたりシベリヤに抑留された。その期間のうち1947年から1950年までの3年間、彼はどこの収容所にいたのか全く不明。瀬島自身も全く語ろうともしないので不気味な期間なのだ。戦後はソ連のエージェントと言われていたので余計に不気味な期間なのです。
私は、若い時から苦労した苦労人だが、私は神や仏、すなわち宗教に対して冷淡なのだ。理由があります。私には非常に苦労した人間なら、またその人間が悪い人間でなければ、その人間には晩年になったら苦労が少しでも報われるようにしてあげるのが神や仏の仕事ではないのかという思いがあります。ところ現実には、若い時から血のにじむような苦労しながら、一切報われず悲惨な死に方をする人間がいる。私はその時には例え血のつながり他人でも、その人の運命とか宿命に対して物凄くはげしい怒りや憎しみを感じ、神や仏はいないのかという感情に襲われる。同じような感情の襲われるもう一つのケースがある。
瀬島龍三のケースです。瀬島は悪(わる)です。しかし悪人にも悪人なりの幸運があるのだ。
瀬島は陸軍大学を主席で卒業し、大東亜戦争開戦の前年、29歳にして大本営参謀についている、いわば最高の軍エリートコースを歩んだ経歴を生かし、瀬島流の変わり身の早さを生かしたのでしょう。戦後は伊藤忠商事の会長になり、通常社長になった後会長になるものだが、社長にならずに会長になっている。また中曽根政権のブレーンとしても活躍している。瀬島は、軍隊時代は日本中に名前は知られていなかったが、戦後は日本中で名を売った男なのだ。それもソ連のエージェントとして活動しながらなのだ。それを明確な形で文章化したのが元警察官僚の左々淳行氏です。(左々淳行著「インテリジェンスのない国家は滅びる」海竜社)。この悪の瀬島が長生きし95歳で大往生です。悪人にも悪人なりの幸運があるとはこのことです。だから私は瀬島龍三が憎いのです。

近衛文麿
近衛家は天皇家に次ぐ古い家系で、名門中の名門。五摂家(摂政関白の家柄)、近衛家、九条家、二条家、一条家、司家の筆頭です。明治24(1891)年生まれ。東京帝国大学と京都帝国大学を卒業。戦前は貴族制度があり、25歳になると侯爵としての世襲である貴族議員になる。近衛家の御曹司、長身で貴公子然とした端正な風貌で人気があり、将来の首相として嘱望されていた。43歳の時には、アメリカ訪問しルーズベルトやハルに会っています。昭和12(1937)年の時、第一次近衛内閣の首相になった時が、45歳7か月です。それから敗戦までの昭和20(1945)年までの8年間に三度の近衛内閣が成立。この8年間は日本史上最大の危機と言っていい。この8年間に近衛は3度も政治の表舞台に立ち、例え首相でなくても非常に重要な政治家だった。敗戦の年、近衛は自殺し、自らの命を絶ったのだ。近衛の政治についての批判はいろいろな本に書かれていますが、私がこれから書く事が本、特に歴史本で書かれていることを私は読んだことがありません。他の人は読んでいるかもしれませんが。
私がここで書きたいことは、確かに近衛家は、名門中の名門家系の御曹司です。しかし大学卒業後どこかに就職した経験がないのです。どういう能力があるのかないのかさっぱりわからずに45歳で首相に抜擢されているのだ。マスコミでも比較的自由に物が言えた時代でも、「名門中の名門家の御曹司というだけで、能力があるかないかもわからないまま首相にさせていいのか」という疑問符さえも語られた形跡がないみたいです。大東亜戦争勃発かという時に、近衛のように能力のない男を首相に選んだことは最大の失策なのだ。敗戦時、GHQに取り調べられると簡単に自殺。無能且つ意志薄弱な男だったのだ。

日本の歴史上近衛文麿という悲惨な首相を経験しながら、日本国民は、戦後の現在にいたっても、名門家の出身なら、能力を問わず人の頭に立てるのだ。最近では名門、細川家の御曹司、細川護熙、鳩山家の御曹司、鳩山由紀夫、我々国民は当たり前のごとく二人を首相に迎えいれているのだ。二人とも最低の首相だった。わが国民は、政策の反対デモはするが首相につく政治家への反対デモをしたことはない。日本国民は、家柄をことさら大事にするため、政治家稼業がファミィリービジネスになり、二代目、三代目議員が目白押しだ。我が地元神奈川県では、河野一郎、河野洋平、その洋平のガキが河野太郎、ガキ太郎の大叔父は河野健三。そのガキの太郎が安陪内閣に入閣して、なんと驚くことに国家公安委員長。日本の政治家がどんどん小物化して、この面からも日本の将来が暗いものになる。日本国民に政治見識が全然ないから、日本の将来が暗い物になるのも当たり前でしょう

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1 Comment »

諏訪田陽山  より:
2015年12月31日 6:48 AM
「近衛文麿は駄目男」には、大賛成です。2つの理由があります。
1、支那事変の初期(昭和13年1月16日)で『蒋介石を相手とせず』と宣言し、支那事変の解決が出来ないようにしたこと。
2、昭和16年9月6日の御前会議での決定事項『10月下旬までに日米合意の目途が立たなければ、10月上旬には日米開戦を決意す』を、近衛は守る意思がなかったこと。10月上旬に東条陸軍大臣から「日米戦争を決意するんですか?」と問われると、「ふがふが」とは言うが、決意するとも、決意しないとも言えず、第三次近衛内閣を投げ出して逃亡した。

  近衛は人様に仕えて辛酸を舐めた経験がなく、とうてい一億の国民を正しく導く能力に欠けていたのだろう。今でいうなら、人気抜群の小泉進次郎。

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