日米の歴史と文化を語る(7)

「日本人とヨーロッパ人の最初の出会い」
鹿児島県の大隅半島の南に種子島があります。現在、種子島と言えば、種子島宇宙センターと言って日本の人工衛星打ち上げの基地と現在の日本人なら誰でも知っています。その種子島に1543年、一艘のポルトガル船が漂着した。その時種子島領主、種子島時尭(ときたか)の配下の武士がポルトガル船員と出会った。出会ったのはいいのですが、双方全く言葉が通じません。ところが幸いにもポルトガル船にシナ人が乗っていた。二人は砂浜に漢字を書いて筆談をはじめた。それで彼らがポルトガル人であることがわかりました。ポルトガル人を観察してびっくりしているものの一つに、彼らが箸を使わずに手で食事をしていることでした。ということはその頃日本の一般家庭では箸を使って食べていたのです。ポルトガルの船員が手で食べていたというのは、船が島に漂着したせいではないかと思ったのですが、なんとヨーロッパの一般庶民は、19世紀に入っても、ほとんどの地域の民衆は日常、手づかみで食べていたのです。木製のスプーンはありましたが、だいたいパンですくって食べ、骨や皮や食べかすは、どんどん床に投げ、そこに犬猫が待ち受けて平らげていたのだ。
ただ各地の王族や貴族の食卓では18世紀中ごろからナイフとフォークを使うテーブルマナーを発達させていった。
ポルトガルの船員が手づかみで食べていたのは、特別の事情ではなくあたりまえのことだったのです。ポルトガル船の種子島漂着6年後の1549年に、最初のキリスト教宣教師が布教のため日本にやってきました。この16世紀後半から17世紀にはヨーロッパ諸国の宣教師たち、貿易商、船員たちが日本にやってくるようになりました。その頃の日本文化について、アメリカ人作家(現在は日本に帰化)で日本文化に造詣の深いドナルド・キーン氏はこう語っています。
「ヨーロッパの人達は、日本を見て、日本の文化はだいたいヨーロッパの文化と同じ水準に達していると言っていました。もっと客観的に考えますと、当時の日本の文化の水準は、あらゆる点でヨーロッパよりはるかに上だったと私は思っています。日本人の生活が、まず清潔であることに、ヨーロッパ人は驚きました。ある宣教師が手紙の中で、日本の家の中が清潔でありすぎるから、どこでつばを吐いたらいいかわからないと書いてあります。ヨーロッパでは、きっと家の中で平気でつばを吐いていたにちがいないと思います。また当時のヨーロッパの食堂では、床の上に葦などが敷いてありました。食べながら残り物を捨てるのですが、葦があるとみえなくなるのです。あるいは、犬を呼んでたべさせました。当時のヨーロッパ人は日本の家のなかを見てどんなに驚いたでしょう。どんなに文明的だと思ったでしょう。」
私が力説したいのは、このドナルド・キーン氏のように日本の歴史や文化を熟知している欧米人がいることはいるのです。ところが一般の欧米人は日本の歴史にはほとんど無知と言っても言い過ぎではありません。このため日本は、欧米人に接するまでは、文化的にも文明
的にも、また科学技術の面でも何一つみるべきものがなく、未開の国同然であった。
現在の日本の発展のもとはといえばすべて欧米人の指導によるものと考えている人が多いのです。これは歴史の無知による傲慢さです。ドナルド・キーン氏が日本の文化水準はあらゆる点でヨーロッパよりはるか上といったこの時期、日本は、当時なかった言葉で、現在使われている言葉でいえば、強力な軍事大国でもあったのです。軍事大国になるきっかけは、ポルトガル船の種子島漂着です。この時ポルトガル人は、種子島領主に鉄砲の使い方を教え、島を離れる時二挺の鉄砲を置き土産として領主に献上した。鉄砲という名前の武器は1510年にシナから堺に渡来したと言われています。その時は銅銃でした。その後銅銃は堺で作られたと言われています。
堺といえばポルトガル宣教師、ガシパール・ビレラが「堺はベニスのように執政官によって治められている」といった自治都市のことです。銅銃よりポルトガル人がもたらした鉄砲の方が性能が圧倒的に良かったのでしょう、たちまちのうちに鉄砲は全国にひろまったのです。このため鉄砲の伝来と言えば、ポルトガル人が置き土産に残していった鉄砲をさすようになった。この鉄砲が種子島に伝えられた頃の日本は、戦国時代といって全国の大名が日本 全国の統一をめざして戦いにあけくれていた時代でした。そのため鉄砲がまたたくまに全国に使われるようになった主な原因になった。日本全国統一を目指す大名の中でもナンバーワン候補になったのが織田信長でした。この織田信長が戦場で鉄砲を使用する全く新しい戦法をあみだし、そして大成功したのが1575年の長篠の戦いでした。彼の戦法は三千丁の鉄砲隊を参列に並べたのです。当時の鉄砲は、先込め銃といって、一発撃つたびに銃口に火薬や弾を込めなおさなければならないから連続使用は不可能だった。そこで千丁の鉄砲隊を参列に並べ、最初の一列が撃つとすぐひきさがって二列目が撃つ、二列目が引き下がると三列目が撃つ、三列目が撃つと最初の一列目が撃つといった具合に連続して鉄砲が使えるようにしたのです。長篠の戦いの時の敵は、当時日本最強を誇ると言われた武田の騎馬隊です。そこで信長は木で作った柵をもうけたのだ。武田の騎馬隊が柵を乗り越えようと、もたもたしている時に、一千丁の銃がいっせいに火を吹き、それが連続して行われたと言われています。これにより武田の騎馬隊は壊滅した。黒沢明監督の映画「影武者」を見た人は戦闘場面を思いだしてください。あの戦闘場面が長篠の戦いなのです。信長が採用したこの戦法で戦闘形態が変わったのです。鎧(よろい)と兜(かぶと)をつけ、長やりを持つ重装備の騎馬隊の戦いから身軽に動ける歩兵隊の戦いに変わったのだ。この意味では、長篠の戦いは世界の戦史に残る戦いではないでしょうか。信長のこの戦法について、最近亡くなられた上智大学教授、渡部昇一氏はこう語っています。
「これを別の言葉で言えば、一定の戦場に一定の時間、一定の量の弾を流し続けるという発想である。そしてこれは鉄砲の使い方としては、まさに最先端の使い方であった。西洋でこの戦法が意識的に採用されるには、実に第一次大戦の末期に、実質上のドイツ参謀総長であったルーデンドルフが西部戦線で実行するまで約350年待たなければならなかった。もちろん、第一次大戦のドイツ軍の鉄砲・機関銃の数と長篠の戦における鉄砲の数は比べくもない。だが意識的に一定戦場に一定の時間一定の量の弾を流し続けるという発想法は世界史的にみても信長によって始められたと言ってよい」。
さらに軍事史研究の世界的権威でイエール大学教授、J・パーカーは、彼の著書「長篠合戦の世界史」の中でヨーロッパ人が銃の装填のし直し時間を短縮するのに努力を重ねたのに対し、日本人は命中度を上げることに専心したと述べています。信長のこの戦法も三千丁の鉄砲が自分の手に入っていたからこそ可能になった戦法です。当時ヨーロッパでも、一つの戦場で三千丁も鉄砲がつかわれた例はないと思います。信長方だけで三千丁で、敵の武田方でも当然鉄砲を使っていました。しかし武田方は自慢の騎馬隊を頼りにしすぎたため、使用した鉄砲の数は少なかったと言われています。それでも両軍あわせて三千丁以上の鉄砲が一つの戦場で使用されたのです。鉄砲といえば当時は世界の最新兵器です。鉄砲が種子島に
伝わってからわずか30年後には、日本はその最新兵器の大変な量産国になっていたのです。鉄砲を使用するには、弾がなければなりません。弾の原材料は鉛です。ところが鉛は日本では産出しません。そのため各大名は、鉛の購入に必死でした。その鉄砲の弾が、1619年オランダ人の日本からの買い付け品目の報告書には、鉄砲の弾、11,696発の記載されているのです。早くも鉛の原料輸入から製品として輸出にむけられているのです。
長篠の戦いに勝った信長は、1578年には、自分が作らせた七艘の鉄船を使用して、瀬戸内海の制海権を握る敵を海戦で勝ちをおさめているのです。
戦いが終わって堺港に入港すると、鉄船の噂を聞いて見物人がわんさとおしかけて、皆びっくりしたと言われています。その見物人の一人の日記には、
「堺の浦へ近日伊勢から大船が調達されてきた。人数総勢三千人ほど乗船していた。船は横7間(一間は約1.8メートル)、縦は十二、三間もあって。鉄の船である。これは鉄砲が貫通せぬ用意である。まことに仰々しいことであった。大阪へ廻航して敵の通路を妨害するためのことである」と書かれている。
鉄戦がヨーロッパで採用されていたのは18世紀にはいってからです。ポルトガル人でカトリック・イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスは、織田信長に会い、1569年6月1日付けで信長の印象をローマに報告しています。
「この尾張の王は、年齢は37歳なるべく、長身痩躯、髯(ひげ)すくなし、声ははなはだしく高く、非常に武技を好み、粗野なり。正義および慈悲の業をたのしみ、傲慢にして名誉を重んず。決断を秘し、戦術に巧にしてほとんど規律に服せず、部下の進言に従う事稀なり。彼は諸人より異常なる畏敬を受け、酒は飲まず、みずから奉ずること極めて薄く、日本の王侯をことごとく軽蔑し、異教いっさいの占いを信ぜず、名義は法華宗なれども、宇宙の造主なく、霊魂の不滅なることなく、死後なにごとも存せざることを明らかに説けり。その事業は完全にして巧妙をきわめ、人と語るにあたり、紆余曲折をにくめり。」
なかなか的をいた人物評です。神仏その他の偶像を軽視し、占いも信用せず、魂や霊もなく死んだらそれで終わりという考え方は、当時として全く常識では考えられなかったのではないでしょうか。信長のこの考え方にうそ、いつわりがない証拠を見せたのが、フロイスのこの報告書の二年後、1571年に敵対する比叡山の延暦寺を焼き討ちにしたことです。僧侶、信徒など多数殺し、800年の伝統を持つお寺をことごとく焼き尽くし、お寺のひとかけらも残さないほど徹底したものでした。これを知った当時の人たちが仰天したのも当然です。しかし考えてみれば第二次大戦の時は、お寺も教会も聖域ではありませんでした。信長が生きていた時代の彼の無神論と比叡山焼き討ちの行為は、原題でも通用しますが、当時の常識を超越したものであったことは間違いないでしょう。この天才肌の信長は、自分の腹心の武将の裏切りにあい、満48歳で死んでしまいます。その後の日本の歴史にとっては全く惜しまれる早死にでした。

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