私の人生で一番怖かった事

私の人生に最大の影響を与えたのは、大東亜戦争の結果です。私の年齢を考えれば、それは誰にもあることなので、戦争の話はこれ以上言及しません。私の苦労の最大の原因は、両親の長期にわたる病気です。戦後直後は、父親の病気だった。戦争勃発前に結核を患っていた。日本鋼管に勤めていてインドのゴアに転勤を命じられ、出張前の身体検査で初期の結核であることがわかって、インドへ行けなかった。そのお蔭で軍隊に取られずにすんだが、自覚症状はないから本人は元気、しかも戦争中は満足な治療も出来ずに終わった。その結果病状は悪化した。終戦直後には強制的に入院させられ、片肺は切除され、残った片肺だけで日本鋼管に復帰、そして子会社に転勤させられた。それから数年後腎臓結核と診断され、腎臓は二つあるから、一つ切除するというのだ。片肺と残りの腎臓一つでも生きられると言うのだ。ところが父は医者の勧めを拒否、現代医学を拒否する当時の新興宗教、メシア教に入信したのだ。
メシア教は現代医学を完全に拒否し、患者の片手の手の平を患部あてるのだ。暇さえあれば手のひらを患部にあてるのだ。そのやり方で治癒した信者の話を妄信し、母のどんな反対も拒否、一切病院に行かず、薬をもらおうともしなかった。結局母は、このままでは父死んでしまう」と思って、父に嘘をついて強制的に病院に飛び込んだ。腐った腎臓を切除して取り出し、残りの腎臓は、能力の7、8割ぐらいは残っているが、残りの2、3割は死んでいた。これでも生きられるから大事に使いながら生き延びようとすることに決めた。日本鋼管の子会社だから働き続けられたのでしょう。出張の時は、ビジネスバッグに尿瓶を入れて出張していた。半病人のような勤めをしながら定年(55歳)まで働き78歳で死んでいった。定年時には役職など何もなかった。大学まで出てまんざら無能な男ではなかったから無念な人生だった。

一方母親は、戦後直後父が満足に働けなかったから、その苦労は母親が背負うことになる。母の苦労をこの目で一番みてきたのは、長男の私だ。母の死に際のもだえ苦しむ姿を見ながら死んでいった母を見ると、神や仏に怒りさえ感じます。私が神や仏に無関心なのは母の死の影響は大きい。母は50代前半、52,3歳だったと思います。胃癌になり、三分の一切除して治癒した。その後10年間は重い病気は何もせず、完全に胃癌は治癒したと思っていた。ところが胃の手術の11年あるいは12年後、今度は咽頭癌になった。喉には二つの声帯がある。治療のため声帯一つを切除。治癒したが声量が半分になって弱弱しい声になっただけで元気になったのだ。それから何年ぐらいたったのだろうか、その頃の記憶はあいまいです。次々と癌の襲われるのです。今度は大腸癌だった。大手術だった。肛門を切除し、人口肛門を自分の腹にとりつけて退院してきた。その時期私は初めて親孝行をしたのだ。離婚していた私は、実家のボロ家を壊して建坪42坪あまりの二階家を新築し、私は両親と母の手伝いをしてくれる独身の母の妹と四人暮らしを初めていた。私も念願の貧乏からの脱出の願いが少し身を結んだのだ。新築の家に住み始めても母親の節約ぐせは続いた。当時の人口肛門は、アメリカ製で日本製がなかった。そのためでしょうアメリカ製の人口肛門は高かった。冬は寒いから一回使った人工肛門は使い捨てだったが、春になると母は一回使った人工肛門は、庭にある水道できれいに洗い、乾して再利用するのだ。私が使い捨てにしろと言ってもきかなかった。それでも元気が出てきて、人口肛門をつけながらあちこち出かけられるようになった。その頃のことだったと思う今度は小腸癌を宣告された。これで四つの癌を宣告されたが、父は一度も癌にかかったとは母には言わなかったし、私や妹にも母には癌とは絶対に言うなと命じた。母は、知っていたかどうか全く分からなかったが、内心は自分が癌にかかっているようなそぶりを見せたことは一度もがなかった。当時小腸癌の治癒は難しく手術は困難だった。治癒時間長くなれば、悪化するだけでまさに死の病だった。患者がベッドの中で静かに寝ているだけならば、問題はないのだが、治療が長引くと、患者の痛みが激しくなるのだ。母は、「痛い、痛い」とヒーヒー泣く、それを診ている家族たちは、母の体を一生懸命さすってやるほかなかった。この時の老いさらばえた母の痛々しい声で泣き声をあげる姿は、あまりにも惨い姿だった。痛みを和らげることが出来なかった原因もあった。あの当時痛み止めに使うモルヒネの量が少なかったのだ。モルヒネ中毒なるのを医者は恐れていたのではないかと素人判断しています。結局母は痛みに苦しみながら71歳で死んでいった。死後、医者は一人で癌を三つも、四つも患うのは多重癌と言って珍しい体質だから、死後解剖させてくれないかと言った。父は、母に死後これ以上メスをいれて切り刻むのは可哀想だと言ってことわった。

母の死後、葬式など一段落すると、母の妹二人と私と二人の妹のことが心配になってきた。母の癌体質を継いでいるのではないかと心配になってきた。医者も癌体質を継いでいるとは断言できないが、母の妹より、母の実子の私と私の妹二人のほうが母の癌体質を継ぐ可能性が高いと言ったのだ。私は家も建てたばかりだし、貧乏から脱出して経済的に少しはゆとりが出たばかり。私も癌体質を継いで、母親のように癌をいくつも患い、その治療のために再び貧乏になるのではないかと、今思えば極端に恐れていたような気もする。癌の早期発見、早期治療すれば早く治せる。そのためこれから毎年一年に一回人間ドックに入り、検査してもらう。治療費のために癌保険に入ることも決めた。こうして私が40歳の時からこの年まで40年間一年に一回人間ドックに入って検査を受けてきた。一回も検査をかかしたことはなかった。40代、50代の時は、若い世代の癌の悪化の速度が速い、私は医者に少しでも気になるところは、遠慮なく精密検査にまわしてくれと頼んだ。そのため胃癌、大腸癌、肺癌、等々ずいぶん精密検査をした。そのうち年数が経つと、母の二人の妹が病気で亡くなった。但し癌ではなかった。私が70代に入ると、妹二人は60代、でも癌にはならない。どうやら母の癌体質は継いでないようだと安堵した。
今年8月に80歳になる私は、4月に一日人間ドックに入った。検査の結果、検便に陽性反応が出た。大腸の内視鏡検査が進められた。二つのポリープ発見、入院せず削除した。ポリープの検査結果は良性であった。80歳で癌がなければ、もう癌の心配はないでしょう。癌ができたとしても加齢による癌で体質ではないと完全に決断した。毎年一年一回の人間ドックのほかに、癌にかからないように、またかかっても軽く済むようにと次の二つのことを30年以上続けてきました。今までこのことを他人に話したことありません。今回が初めてです。
1.尿療法
尿療法は、よく知られ密かに実行している方が結構います。私もその一人です。若い男で健康のため自分の小便を毎日飲んでいると公言するような男はいません。私の若い頃は結構女性にもてたからなおさらです。私とキスして尿くさい匂いがすると言われたら、もうおしまいです。それで時々親しくしていたホステスに、俺とキスすると尿くさいかと聞くと、「別に」と少しも気にしていなかった。もっとも若い女性のときには軽めの匂いの香水、熟女のときには濃い目の匂いがする香水を使い分けしていたことも事実だが、尿を飲んでも、口や体から尿の匂いは発散しなかった事も事実です。私の尿の飲み方は朝トイレに行くときに出る尿の全量を飲む、これ一回だけです。しかし男は年を取ると、前立腺肥大症になり夜中にもトイレに行くようになる。その時は夜中にゆくトイレの全量は飲まず、一口だけ飲む。しかし朝起きた時の尿は全量飲みます。入院患者など、自分の尿を水やお茶がわりに全量飲む人もいます。体に効いているのかどうか、さっぱりわかりません。癌にかかることもなかったというので今現在も自分の尿を飲んでいます。

2.ガムを噛む
健康のためガムをわざわざ買って噛むと言った人に私は会ったことはありません。新聞、雑誌、本などで読んだこともありません。私のガム噛みは、私独自の判断で噛んでいるだけです。唾液は殺菌作用があると言います。人は手足が傷つくと、無意識のうちになめます。唾液に殺菌力があるからです。私はテレビで猛獣のライオンが自分の嫁か子供に自分の背中を舐めさせている姿をみました。 唾液に殺菌力があるからです。自分独自の考えでガムを噛み続ければ、大量の唾液が胃に流れ込み、大腸にも流れこむのではないか、胃の中で癌細胞が生まれれば、唾液の殺菌作用が少しでも作用するのではないかと考え、ガム噛みを実行しているのです。ガムはキシリリトールガムです。朝食後歯磨き後にすぐ噛みだします。一日家に居る時は、一つガムを一日中噛んでいます。外出で昼食の時には、ガムを噛み変えます。一日中食事以外ガムを噛み続けても、唾液でお腹が張ることは絶対ありません。
ガムはタバコとくらべたらはるかに安く買えます。尿を飲むのに一銭もかかりません。尿のみもガム噛みもほとんどお金がかかりません。やり通す意志があるかないかだけです。私にはやり通す意志があり、両方ともいつやりだしたか正確な日付けわかりませんが、やりだしてもう30年以上たっています。

私は生まれつき、頭も並程度、体も並程度、大学も行っていず、これと言った就職に有利な技術もなく、ひたすら努力を続けないと、皆さんに勝てません。だから若い時から、人生長生きで勝負と決めているのに、母親の癌体質を継いでいるのではないか、そのことが私の恐怖だった。こうして癌にもかからず、満八十歳を健康で迎え、四年前軽い脳梗塞を患ったが、一度患うと、脳のMRIテストすると必ず脳梗塞の影がある。ところが私の脳梗塞は軽度だったため、去年まであった小さな影が消えていた。医者は軽度のせいというが、右膝には軽い後遺症は残っています。それ以外はすべて順調。80歳は長寿の可能性の始まりだ。人生長生きで勝負の年になったのだ。闘争心、少しも衰えず、さあー、やるぞう。人生とは戦いだ。

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