アメリカの建国神話

私の年代で特にアメリカ史を学んでない人たちのアメリカ建国の常識というものは、イギリスで迫害を受けた清教徒(ピュウリタン)が信仰の自由を求めてメイフラワー号に乗ってアメリカ大陸に上陸した。
恐らくこの程度ではないかと思います。私も最初はこの程度のものでした。それでは学校教育を通して得られる一般のアメリカ人の常識はどうでしょうか。恐らく次のようになるのではないでしょうか。
「17世紀初頭のイギリスでの宗教弾圧を逃れ、信仰の自由を求めた清教徒(ピュウリタン)の一団がイギリスのプリマスを出発し、メイフラワー号に乗ってアメリカ大陸をめざした。1620年の冬現在のニューイングランド州に到着した彼らは、プリマス・ロックに初めの第一歩を踏み、その地をプリマス(ボストンから南に車で1時間)と名づけ、プリマス植民地を設立。
上陸前に入植民の間で取り交わされたメイフラワー・コンパクト(盟約)は後のアメリカ合衆国憲法の基礎となった。その冬の厳しい気候の耐えられずメンバーの半数は餓死したが、二年目の秋には豊かな収穫にめぐまれ、その間援助を受けたインディアンを招いて感謝の機会をもち、それが今日の感謝祭に直接つながる起源となっている」
これを読むとイギリス人が関が原の戦いから10年後の1620年に初めてアメリカに植民地を建設したかのように感じてしまいますが、実はそれよりも早く1607年に男ばかりのイギリス人がバージニアにジェームスタウンという殖民地を建設しているのです。1619年には最初の黒人奴隷がジェームスタウンに輸入されています。
それなのに、あとから建設されたプリマス植民地はなぜ超有名なのでしょうか。それはやはり信仰の自由を求めてやってきた清教徒がいたからでしょう。信仰の自由を求めてアメリカにやってきたとなれば、アメリカ建国の物語には実にふさわしい光景です。ところでメイフラワー号の乗組員全員が清教徒だったのでしょうか。
乗組員は全員で102名、そのうち清教徒はわずか41名でした。残りはイギリス本国ではうだつがあがらないのでアメリカで一旗という連中でした。しかもそのほとんどが清教徒とは敵対関係にあるイギリス国教会のメンバーでした。およそ2ヶ月間の航海期間中、平穏無事ではありませんでした。清教徒と他の連中との対立関係が極度に悪化したのです。
そこで上陸する前に、秩序を維持し、分裂を避ける目的もあったのでしょう、植民地建設の意図と目的をあきらかにし、自由な市民として公正な法律のもとに生活するという契約書に署名したのです。それを後世の人たちが「メイフラワー・コンパクト」、メイフラワー誓約書と呼びはじめたのです。当時はそんな呼び名などつけていなかったのです。
その内容もアメリカ合衆国憲法の基礎になったとか、アメリカ民主主義の起源とか言われていますが、それも後世の人たちのこじつけといってもいいでしょう。
さて上陸した一行は、その冬の厳しい寒さと食糧不足で翌年の春をむかえずに半数が餓死してしまった。一行の大半が農耕生活の経験のない都市生活者だったのが致命傷だった。 残された半数もインディアンの援助がなかったら生き延びることはできなかったでしょう。インディアンが彼らにとうもろこしや、ジャガイモや、かぼちゃなどの栽培方法を教えたのです。
秋の収穫期を迎えた時彼らは感無量だったでしょう。彼らはインディアンを招いて祝宴を張りました。インディアンの酋長マサイトは、部下90名を率いて祝宴に加わりました。その時秋の収穫を神に感謝したのです。これが感謝祭の起源になっています。
現在、プリマスに酋長マサイトの銅像が建っていますのでアメリカの子供たちは、酋長マサイトの名前は知っていますが、かれの息子、キング・フィリップのことはあまり知りません。ましてや酋長マサイトの死後、後を継いだ息子のキング・フィリップがどういう運命をたどったか全然知らないのです。 なぜ酋長の息子の名前にキング・フィリップという英語式の名前がついたか。入植者たちが酋長マサイトの慈悲に感謝して、彼の息子の名付け親になったからです。そのキング・フィリップは、父の死後白人の入植者たちと戦争になり敗れました。
プリマス植民地の人たちは、彼の死体を分断し、その首をプリマスの街頭に25年間さらし続け、腕はラム酒づけにされ金銭をとって見世物にしたのです。妻と子供たちは奴隷として西インド諸島に売られてしまいました。
プリマス植民地は、信仰の自由を求めて建設されたとよく言われますが、クエイカー教徒がイギリスでの迫害から逃れてやってくると、きびしい迫害を加えて追い出してしまうのです。プリマスの近くにやはり清教徒が建設したマサチュウセッツ湾植民地があるのですが、そこでは追い出しの警告を無視するクエイカー教徒4人を絞首刑にしてしまいました。自分の信仰の自由は守るが、他の宗派の人たちの信仰の自由は認めないのです。同じキリスト教でも宗派が違えば憎しみあうのですから宗教戦争も起こるはずです。
プリマス植民地で興味をひくのはその克明な裁判記録です。殺人事件もありますが、かなりの数の性犯罪も記録されています。 たとえば、1639年9月インディアンの男性テイジンと関係をもったロバート・メンドラブの妻メアリーは、町の通りを荷馬車の上で鞭打たれながら引き回されました。
1665年10月にはサラ・エンサインの売春行為が発覚、彼女も鞭打たれながら荷馬車で引き回されました。牧師のジョン・コットン・ジュニアは、複数の女性信徒の密接な関係がばれてプリマスから追放されています。最もショッキングな事件は獣姦です。
1642年、ラブ・ブルスターに仕えるトーマス・グレンジャーという下男が動物と性行為をしていたところをみつかってしまったのです。 彼の告白によるとそれまでに彼が相手にしたのが、馬一頭、牛一頭、 山羊二頭、羊五頭、子牛二頭、七面鳥一羽だと言うのです。
結局裁判では、旧約聖書のレビ記20章15節に「男がもし獣と寝るならば彼は必ず殺されなければない。またその獣も殺さなければならない」とあるので、これに従うことになった。最初に彼と関係をもった動物たちが殺され、その後本人が絞首刑になっています。
旧約聖書に動物と性行為をした罰が書かれているくらいだから、昔の狩猟民族には、めずらしくなかったのではないでしょうか。それにしてもこの克明に記録されている裁判記録というものは、さすが訴訟社会に生きるアメリカ人の先祖ということを如実に示しているのではないでしょうか。
このプリマス植民地は、大きく発展することもなく1691年に マサチュウセッツ湾植民地に合併されてしまいました。プリマスの地は 耕地に乏しく、漁業にも適さず経済活動が低調だったからです。プリマス植民地は、イギリス人が建設した植民地の中でも小さく、またニューイングランド地方のなかでも一番小さくてさして重要な植民地ではなかったのです。
ところが現在のプリマスは、毎年大勢の観光客がどっと押し寄せるアメリカ最大の国民的史跡になっているのです。原寸どおりに復元されたメイフラワー号が係留されていて当時の服装をした人たちが観光客の質問に答えてくれるのです。植民地時代の清教徒の生活を再現したプリマス・プランテイションもあります。親切にしてくれたインディアンの酋長マサイトの銅像もあります。
清教徒たちが上陸第一歩を踏みしめたと言われるプリマス・ロック(岩)がまるでギリシャのパルテノン神殿そっくりの巨大な円柱にかこまれていて手すりの外からその岩を拝顔するようになっているのです。
その岩には彼らが上陸した年の1620という数字が刻みこまれています。ところがその岩は、メイフラワー号に乗っていた人たちが、自分たちが最初に踏んだ岩だといって記念に残しておいたものではありません。
実は上陸した年からなんと121年後の1741年に当時94歳の老人、エルダー・トーマス・フォーンスという人が、「この岩は、彼らが最初に踏んだ岩だ」と宣言した岩なのです。 プリマス植民地を建設した清教徒たちは、ピルグリム・ファーザーズ( 巡礼者)とも呼ばれていますが、これも建設当初から呼ばれた名前でなく、後世の人たちが上陸からおよそ170年後の1794年に、ある歌の歌詞のなかで、彼らをピルグリム・ファーザーと呼んだのです。 それ以来ピルグリム・ファーザーズと呼ぶようになったのです。
史実の都合の良い部分に創作を加えてできたのがアメリカの建国神話と言っていいでしょう。特にアメリカの歴史は新しく、インディアンから土地を奪い、黒人奴隷をこき使って民主主義国家を建設してきた国にとって建国物語は絶対美化しなければない宿命にあるのではないでしょうか。

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