「涙の道」 (The Trail of Tears)

私が20代の頃というと、もう半世紀ほど前になります。その頃アメリカの西部劇が全盛の時代でした。多くの映画にアメリカインディアンが登場していました。そしてそのほとんどは、アメリカインディアンが悪、白人が正義の内容でした。インディアンの部族の名前も映画で教えられました。アパッチ、シャイアン、スー族などです。
白人たちがアメリカ大陸にやってきた時、北米大陸には数え切れないほどインディアン部族はいたといわれています。言語も千を超えていたと言われています。そのためインディアンは、自分たちが一つの民族とみなしておらず、白人の侵入者に対し一致団結して立ち向かうことができなかったのです。
アメリカインディアンが最初に白人に接触した時、両民族の間に決定的な文明の差がありました。分かり易く言えば、銃の文明と弓矢の文明です。この文明の差がアメリカインディアンの悲劇になった。白人開拓民の行く先々でその地方のインディアンと衝突し土地を奪われてゆきました。
そして1775年アメリカは独立国になりました。独立宣言には有名な一節があります。すなわち 「すべての人間は神によって平等に造られ、一定の譲り渡すことのできない権利を与えられており、その権利の中には生命、自由、幸福の追求が含まれている」
アメリカ独立前後のアメリカの歴史を見れば、アメリカ人やアメリカ政府は、インディアンや黒人を人間として扱っていなかったことがわかります。独立宣言を起草したトマス・ジェファーソンは、たくさんの黒人奴隷を雇っている大牧場主であり、徹底した人種差別主義者として知られています。
後年日本移民を含むアジア諸国の移民が徹底的に差別され、移民が禁止されてしまうのも、黄色人種が人間として扱われなかった証明です。 アメリカ独立後は、国家自らがインディアンの土地略奪に拍車をかけ、彼らを僻地に押し込めて行ったのです。インディアンの数々の武力抵抗があり、アメリカ人による数々の虐殺が行われ、数え切れないほどのインディアンの悲劇が繰り返されました。
そして明治23(1890)年12月29日サウス・ダコダ州のインディアンの居留地、ウーンディッド・ニーで武装したスー族の一部が、アメリカ第七騎兵隊に包囲され、 武装解除して降伏しました。 ところが、どこからともなく出た一発の銃声をきっかけに虐殺が始まった。犠牲者約300人、そのうち女、子供は約200人でした。
これが最後のアメリカ人とアメリカインディアンの武力衝突となりました。 これ以後、インディアンの武力抵抗はなくなったのです。 アメリカ軍によって完全に武力制圧されたことになります。
アメリカという独立国家ができてから115年後のことでした。
アメリカインディアンの各部族の悲劇の物語は、色々本に書かれていますが、私が一番胸を打たれるのは、チェロキー族の悲劇です。 チェロキー族は、現在のジョージア州とアラバマ州を根城にする部族でした。チェロキー族も最初のうちはアメリカ人に武力抵抗しました。 しかし決して勝つことのない戦いで広大な土地を失っていきました。
そこでチェロキー族は武力抵抗をやめ、アメリカ文明を学び、実践していきました。まず1820年前後にチェロキー国家、すなわち独自の政府を設立したのです。1820年代のチェロキー国家の発展にはすばらしいのがあります。
セコアイという一人のチェロキー人がアルファベッドに似たチェロキー文字を作りだしたのです。1825年に新約聖書のチェロキー語訳完成。さらに1827年には英語とチェロキー語を使用して成文化された憲法を制定しました。 1828年には英語とチェロキー語を併載する週間新聞「チェロキー・ フェニックス」を発刊したのです。その社説には次のよう事が誇らかに述べられていました。
「わが国の法律、公文書およびチェロキー人民の福祉状況に関係ある事柄が、忠実に英語とチェロキー語両語で出版されるであろう」 同じ年にチェロキー国初代の大統領が選ばれました。
このチェロキー国の発展の陰にモラビア教団の宣教師たちの活躍があった。しかしジョージア州当局は、チェロキー国の発展を望まず、政府に働きかけてチェロキー族を一掃しようとします。また 州当局はチェロキー族の土地の買収を企てます。
チェロキー国は、個人の土地売買を禁止し、もし違反の場合死刑という法律を作って抵抗します。
チェロキー族の団結が固いとみた州当局は、いくつかのいやがらせをするのですが、そのうちの一つが「チェロキーランド宝くじ」です。 州当局はかってに各インディアンの家屋に番号をふりあてるのです。
この宝くじを簡単に言えば、私の家の住所は、2-12-10です。この番号を引き当てた白人には、私の家や土地が無料で手に入るのです。
無論白人が、番号を引き当てたからと言って、そのインディアンの家に行ったところでおいそれと引き渡すはずがありません。しかしインディアンは、うっかり家を留守にして遠出ができなくなったことは確かです。実にたちが悪いいやがらせです。チェロキー国の指導者が、一番気を使ったのが一部国民の暴発です。暴発すれば州当局に武力を使う口実を与えることになります。 チェロキー族は、徹底して耐えることによって武力介入されないようにした。
ところが1829年ジャクソン大統領(インディアン武力討伐で名前を売って大統領になった男)は、国会施政演説でジョージア、アラバマ州内のチェロキー族の独立国家を認めず彼らを全部ミシシッピー川以西の地に移す法案を提出すると発表、翌年ジャクソン大統領提案の「インディアン強制移住法」が可決成立してしまったのです。
そして運悪く1830年代にチェロキー国内で有望な金山が発見されてしまいました。そしてとうとう1838年5月23日が、チェロキー国、国民のオクラホマ居留地移住の日と決められ、ジャクソン大統領の署名がなされました。オクラホマまでの移住距離はなんと1300キロです。
その移住日にまにあわせるためアメリカ政府は、急造の強制収容所をつくりチェロキー族を押し込めた。ところが実際の本格的移住は、その年の秋ごろになってしまったので、その間約半年間、強制収容所に押し込められたままの生活を余儀なくされたのです。
合計およそ16,000人のチェロキー族をオクラホマ州に設置された居留地に強制移住させるには膨大な費用がかかりますが、その費用はすべて政府が持ち、実際の運送は入札に参加した民間業者にまかせました。業者は政府からおりるお金を少しでもピンハネするために、毛布の枚数、食糧の量、幌馬車の数など減らすことができる物はあらゆる物を 減らしました。
オクラホマの居留地までおよそ1300キロ、道中は難渋をきわめました。食糧不足による栄養失調、冬の寒さ、コレラや天然痘などの伝染病などで次々と病人や死者が出ました。死者が出たところで埋葬のための行進は止まることはなかったのです。死者はその場で捨てられた。
運送業者は、チェロキー族の死を歓迎したのです。一人でも死ねば、その分費用がうくからです。
16,000人で出発した人数が、目的地に到着した時なんとわずかの4,000人、到着して間もなく死んだ人もいるでしょうから、4人に一人以上死んだことになります。このチェロキー族の強制移住を「涙の道」(The Trail of Tears)と呼ばれています。
1838年12月、まだチェエロキー族が飢えと寒さと疲労の長い長い嗚咽の列がオクラホマに向かっている時、ワシントンの国会では大統領、ヴァン・ビューレンが白々しい報告を行っていた。
「私はここに国会に対し、チェロキー・ネイションのミシシッピーの西の彼らの新しい土地への移住の完了を報告することに、心から喜びを感ずるものであります。
先の国会において承認決定されました諸方策は、最も幸福な結果をもたらしました。現地の米司令官とチェロキーとの間の了解に基づいて、移住はもっぱら彼らの指導のもとに行われ、チェロキー族はいささかのためらいを示すことなく移住いたしました」
アメリカの大統領が議会でうその演説するのは、今に始まったことでなく歴史があるということです。
アメリカ政府は、人口およそ20,000にも満たない小国すら認めようとはしなかった。チェロキー族は、自分たちの文字を作り、英語を学び、アメリカ政府に協調するためあらゆる努力をしましたが、報いられることはなかったのです。
なぜか? それはインディアンが有色人種であり異教徒だったからです。アメリカ政府が、有色人種であり異教徒である人たちを対等に扱いはじめたのは、大東亜戦争後も1960年代以降になってからのことなのです。
このチェロキー族の悲劇「涙の道」(The Trail of Tears)の物語は、一般のアメリカ人の間では常識にはなっていません。しかしアメリカ人が主張する大東亜戦争時の「バターン死の行進」は、日本軍の残虐行為としてアメリカ人の常識のように知られています。
「バターン死の行進」とは、フィリピンのバターン半島の戦場でアメリカ兵とフィリピン兵、合計7万6千人が捕虜となり、鉄道のあるサンフェルナンドまでおよそ112キロを夏の炎天下歩かされたので多数の死者が出たと言われる事件です。
1970年制作のアメリカ映画に「フラップ」という作品があります。 日本でも上映されたかどうか不明です。ずっと前に亡くなった、私の年代なら誰も知っているアンソニー・クィーンがアメリカ兵として第二次大戦従軍の経験あるアメリカインディアン役を演じています。 その彼のセリフの中にこういうのがあるのです。 「(涙の道)にくらべりゃ、バターン死の行進なんざぁ、そんじょそこらのピクニックみてぇなもんだ」
それはそうでしょう。夏の炎天下に歩かされた距離はおよそ112キロ、捕虜の米、比兵は手ぶらで歩けるが護衛する日本兵は、20キロ完全装備で歩くのだから日本兵も苦しい行軍を強いられ、日本兵の犠牲者も出たほどです。
それがチェロキー族にいたってはオクラホマ州の居留地まで1300キロも歩かされているのです。まさしく「バターン死の行進」なんかピクニックに見えるわけです。
なにかと「バターン死の行進」を例にあげるアメリカ人よ、チェロキー族の「涙の道」(The Trail of Tears)を勉強しろというのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です