今だからこそ読むべき「GHQ焚書図書開封7」

私のように70歳も過ぎた年齢ならGHQ焚書図書と言ったらすぐになんのことかわかりますが、自虐史観を徹底的に教えこまれた現在の若い人たちにはあまり馴染みのない言葉でよくわからないのではないかと思います。私は自分のブログにGHQ焚書図書について書くのは今回で二回目です。前回は2011年3月5日に「若者に薦める『GHQ焚書図書開封』」のタイトルで書いています。そこで私は「GHQ」とは何か、「焚書」とはどういうことか、なぜ若い人に読むことをすすめるのか等詳細に書いています。読んでみたいと思う人は、このブログの表紙の左側にアーカイブがずらりと並んでいます。その欄の2011年3月をクリックしていただくと3月に書いたブログが表れます。

今回のブログ記事は、「GHQ焚書図書開封7巻」の紹介です。第1巻が出版されたのが2008年の6月ですから、以来4年ほどで7巻まで出版していることになります。この「GHQ焚書開封」シリーズのこれまでの売れ行きぶりを見て思い出すのは、ヘレン・ミアーズの書いた「アメリカの鏡・日本」です。彼女は、終戦後わずか3年で、まだアメリカ国内では大東亜戦争の勝利感で酔っている最中に徹底的にアメリカを批判し日本を擁護した本を書いたのです。日本占領軍の最高司令官、マッカーサーは、この本の内容に仰天し、この本の日本語訳本の出版を禁止し、日本語に翻訳されて「アメリカの鏡・日本」と出版されたのは戦後50年目の1995年です。しかしこの本は評判にならなかった。私はたまたま本屋で発見して手にいれたのです。彼女は80歳過ぎぐらいまで生きていますが、この本のためのせいか、社会的名声を手にいれることが閉ざされたのではないかと想像しています。それだけに日本では彼女の本をベストセラーにしてあげたかったと思っています。

西尾幹二氏がてがける「GHQ焚書開封」シリーズですが、マッカーサーは、戦後の日本人には読ませたくないとして焚書にしたのが7千冊あまり、そのうち三千冊あまりが現存し、何人かの収集家が所有しています。西尾幹二氏は、それを一冊づつ読み、これは紹介した方がいいと思うものは、解説をつけたり、自分の考えを披露したり、諸々の情報を取り入れたりして紹介しています。こうして私たちは、マッカーサーが後世の日本人たちには読めなくしてしまおうとした本が読めるのですから、筆者は大変貴重な仕事されているのが分かります。ところがこのGHQ焚書シリーズもヘレン・ミアーズの本のようにあまり評判がわかない。
その理由は、マスコミ、教育界などもろもろの社会で自虐史観がはびこっているからです。自虐史観論者がこれらの本を読んだら、自説が史実で真っ向から否定されるからこわいのです。それに最近は人生が長い、40年、50年と自虐史観を主張してきて、それを否定されたら自分の人生がむなしくなる。彼らはかたくなまでに目をつむってこれらの本を読もうとしないのだ。それでもヘレン・ミアーズの本は一冊だけ、そのため忘れられたような存在、しかしこの焚書シリーズは、もう既に7巻。これから続々とで出版されそうです。自虐史観論者には、目障りな存在になる本になっているでしょう。私は著者に主張したい。この焚書シリーズは、続編が出れば出るほど価値が出、いずれ非常な脚光を浴びるでしょう、またそうならなければいけない本だと思います。著者には大変だと思いますが、「GHQ焚書図書開封」全20巻、あるいは全30巻を出し、全国の図書館に配れば、ほとんどの国民の目に映るでしょう。この本の存在感が出て、無視したくてもできなくなるはずだと思います。

今回の7巻は実にタイミングよく出版された本です。なにしろ7巻のタイトルが「戦前の日本人が見抜いた中国の本質」です。最近の尖閣諸島国有化問題で見せた支那人の狂気に満ちた反日デモ騒ぎを見せ付けられた我々日本人は、改めて今後支那とどう対処してゆくべきかを真剣に考えねばならなくなったことは事実でしょう。1986年尖閣諸島近海の大陸棚に石油資源が埋蔵されている可能性があることが判明すると、支那、台湾は突如として領有権を主張し始めた。現在では支那は、尖閣諸島は清国の領土だったが、日清戦争で日本に略奪された島だと主張している始末です。これまでどちらかと言えば、日中友好関係などときれいごとばかりが語られてきたが、これからは日本国民も日本企業も支那に対してどう対処していくか、対支那との戦争までひっくるめて真剣に考えなくてはいけなくなってきました。時期をみはからったかのように出版された「GHQ焚書図書開封7」(戦前の日本人が見抜いた中国の本質)は、日本国民必読の本であり、国民よ目を醒ませと言いたい。特に支那とビジネスの係わり合いを持つ人には絶対に読まなければならない本でしょう。

第7巻で西尾幹二氏が紹介しているのは、1911年の辛亥革で清朝が倒れてから30年間支那に滞在していた長野朗氏が書いた「支那の真相」(1930年)、「民族戦」(1941年)、「支那三十年」(1944年)の三冊です。長野朗氏は、陸軍士官学校の出身で石原莞爾と同期でした。陸軍大尉で支那に派遣されたが、支那問題の研究に専念するために1921年軍を辞めています。ジャーナリストのような仕事をしていました。本も沢山書いています。彼の著書18冊がGFQの焚書の対象になっています。軍人出身だからと言って当時の軍人のように支那人を上から目線でみることなく、下からの目線で見、時勢、時流に迎合することなく冷徹なまでにも自分の目で見ることに専念しているだけに読者はひきこまれます。

私は大東亜戦争に関する分厚い本を書いていますので、当時の支那の情況は或る程度勉強して知っておりますが、次の二点については私が知っている以上に詳しく書かれ、「実態はこうだったのか」と吃驚しています。

(1)英米人が支那人に「排日思想」を植えつけた。
「最初に英米人は、排日と親英米の空気を造るのに全力を注いだ。そのために宣教師と学校を配置した。英米の宣教師はわずか数百の県を除き、支那数千の県にことごとく配置され、その数は数千に達した。大正八、九年には一船毎に数十人の宣教師が送りこまれ、アメリカは年に二千万ドルの金(当時では相当の金額だったでしょう)を使った。これらの宣教師は教会に簡単な診療室を設け、支那人の関心を得た。また教会の手で各地に学校が設けられた。大学、専門学校など外人設立のものが支那の国立学校よりも多く、中等学校が数百、小学校、幼稚園は数千に達した。準備は完了した。これを基礎に排日運動を起こしたから、燎原の火のように一挙に全国に広がったのである」と本書は記しています。

その他学校への図書の寄付、アメリカに留学生を迎えいれる便宜などその政策は徹底していた。英国など日英同盟の効力があるうちは、アメリカの影に隠れてこっそりと大々的に支援していたのです。驚くではないですか。それではなぜ英米両国は、支那に排日思想を懸命になって植え付けようとしたのか。彼らは日本の技術と支那の人口の多さが結びつくのを警戒していたからです。日支関係が良好になれば自分たちが入り込む余地がないことを十分知っていたのだ。

(2)支那人(漢民族)の満州支配
私の知識では、支那人が満州民族の出身地である満州地方を侵食していた。満州事変後満州国が建設されると支那人がどっと満州地方に雪崩れ込んできたと考えていました。ところが著者の長野朗氏によると、満州事変が起きた時には満州は完全に支那人の手ににぎられ、満州人を押さえ込み、朝鮮人をいじめ、蒙古人をだまし、日本人さえもいたぶられていたのです。そういうことが目立ったから日本人がたちあがり、満州国ができると五族協和(満州人、漢人、蒙古人、朝鮮人、日本人)をうちだしたのもそのためなのです。だからその時日本は、満州民族をなくすつもりはなく、満州人と満州文化と満州語を残すことが満州国の大事な文化継承目的だったのです。日本が戦争に負けると、満州地方は完全に支那のものになり、満州人も満州語も満州文化も目を皿のように探してもその残滓を見つけられるかどうかになってしまった。満州事変は、満州の支配をかけた日支間の戦争だった。日本が戦争に勝っていれば、満州地方も満州人も、満州語も、満州文化も健在だったのです。

この本を読めば、支那人は、ハシにも棒にもかからない最低の民度、しかも残虐で恐ろしい民族だということがよくわかる。その支那に対して戦前は、幣原軟弱外交、あるいは幣原の誠心誠意外交をつらぬこうと失敗したことを現代の私たちは、学ばなければいけません。1931年幣原外相は、国会でこう語っているのです。
「日中間の問題を処理する上において、両国何れの一方も宣伝や威嚇を以って他の一方に対するが如きことがあっては、特に事態を紛糾せしめるのみであって、何ら有益なる目的を達し得らるるものではありませぬ。互いに寛大なる精神と理解ある態度とを以って、共存共栄の途を講じてこそ諸般の交渉案件は解決せられ、双方の真正なる利益を増進し得られるものと考えます。我々は常にこの信念をもっているのであります。」

幣原の主張は大失敗に終わりました。現在の日本の政治家でも幣原と同じようなことを言っている人が大勢います。「共存共栄」、「誠心誠意」、「大局的な観点から」、「戦略的互恵関係」等々、こんな言葉を支那人にかけるのは、「馬の耳に念仏」、で全くなんの役にもたちません。ただ一つ役に立つのは軍事力の強化だけです。戦前は軍事力が強力だったのに、強力だったのは、軍事力だけではありません。日本国民全員が国に対して誇りをもち、自分の国は自分で守る気概があふれていた。それでも失敗した。その原因は何か。外交です。私は日本の外交について常日頃主張していることがあります。自分の本にも書きましたが日本の外交は、「三語外交」。日本の外交は三語の言葉で言い表すことができるということです。その三語とは「うぶでバカでお人好し」外交です。日本民族は、この「三語外交」からいつ脱却できるか永遠のテーマのような気がしてなりません。

最後にこのブログ記事とは直接関係がありませんが、最近私があまりにもあきれた事件が国内で起きたので、その怒りの文章でこのブログを終わらせます。9月25日都内のホテルで支那駐日大使主催のレセプションが開かれた。レセプションは国慶節(支那の建国記念日)と日中国交正常化40周年を記念する行事でした。このレセプションなんと約1200人も出席しているのだ。テレビ画面に出て来る参加者の中に私は、経団連会長、米倉弘昌、河野洋平、民主党の岡田の三人の顔をみつけた。今度の事件では日本政府は何も悪いことはしていません。それに対して支那政府が不服だから日本を強く非難してもいいでしょう。しかし大群衆の官製デモをしかけてパナソニックなど日本企業への破壊行為、支那駐在の日本人家族は、恐くなり帰国、日中国交正常化40周年の支那側の行事はすべて中止、日本側の経済活動に支障をきたすよう、通関業務の遅延など妨害工作が目白押しに行われています。

それら責任のすべては日本側にあるというのが支那の主張です。私は参加者を代表している経団連会長に聞きたい。国交回復40年、この40年間、支那側は靖国、教科書、歴史認識などの諸問題で内政干渉し、その度に日本側は低姿勢、それにもかかわらず日本は、膨大なODA資金や超低利の円借款と様々な経済協力をしてきました。そして今度の事件。日本が悪かったのですか。支那に対して怒りを感じないのですか。日本人としての矜持を持っていないのですか。招待状が来た時、ていねいに断ることができたはずです。尖閣諸島領海で海上保安庁の巡視船が支那の漁船に衝突された時、あなたは尖閣諸島は、日本の領土ではないと解釈されてもしかたがない言い方をしていました。

あなたは、私より一つ若い。二人が20代から40代のおよそ30年間は、国全体が外貨獲得のために一にも二にも輸出、輸出でした。そのためでしょう、バイヤーが日本に来た時には、なんとかして注文が欲しい、あるいはバイヤーと仲良くしたい一心でバイヤーに夜の女を世話する営業マンもいた。そこまでやったらいくら仕事のためとはいえ、日本人としての誇りが傷つき、あるいは人間としての道にはずれた行為と言わねばならないでしょう。あなたがたがしているのはこれを同じことなのです。官製デモで日本企業が破壊されるなど、支那にたいして多少とも苦情の一つぐらい言うのもあなたの仕事の一つではないのでしょうか。買い手は神様とばかり、全ての言動を許すなら奴隷根性で仕事をしているのも同然でしょう。支那のレセプションに1200人も集まったバカ者たちよ、このブログで紹介した本を読めというのだ。経団連会長や河野洋平など読まなくていい、さっさとくたばれといいたい。乱暴な言葉使いになってしまいましたが、これは一日本人市民の憤怒の声です。

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