日本の多神教と欧米の一神教、すなわちキリスト教の歴史を比較すると、きわだって目立つのがカトリック教会という組織が行った悪事です。その悪事とはなにか。残酷極まりない裁きです。
カトリック教会という組織が起こした悪事は、当時カトリック教会というものが絶対的権威を持っていたから正当化されましたが、現在の感覚でいえば全く残虐きわまりない大犯罪です。
カトリック教会が犯した犯罪を知ると、もう十年以上前になりますか、オーム心理教が起こした犯罪が全く小さく見えてしまいます。それほどカトリック教会の悪事はひどかった。日本では、ある特定の宗派が組織をあげてカトリック教会が行ったような悪事をしたという歴史は全くありません。カトリック教会が行った悪事の中でも、極めて陰惨で残酷な悪事は、異端審問と魔女狩りの裁判です。
異端審問とは、宗教裁判で「お前は正統派のキリスト教徒でなく異端者」だという判決を受けたら火刑に処せられてしまうのです。中世ヨーロッパ最大の教皇と知られる、インノケンティウス三世(在位1198-1216)は、「神をかってに解釈し、教会の教義に矛盾する思想を抱いた者は、容赦なく火刑に処すべし」と宣言しました。
彼は異端者撲滅のために、本来なら聖地エルサレムからイスラム教徒を追い払うはずの十字軍さえも利用し、イスラム教徒に悪逆非道のかぎりを加えました。1231年教皇グレゴリウス九世は、独立機関として異端審問制度をもうけました。教皇直属の異端審問官の設置、裁判の非公開、密告の奨励、拷問による自白の強要が規定されたのです。異端審問でなによりも残酷だったのは自白を引き出す方法でした。例をあげましょう。
「審問官は、まるで死神のように、頭巾のついた黒いマントにすっぽりと身を包み、ほとんどすべての被告人から自白を引き出した。手足を少しずつ切断したり、体の関節をはずしたりして苦痛をあたえるさまざま刑具が考案された。
こうした刑具には「栄光は神だけのもの」という銘文がたいてい彫りこまれていた。一番使われたのが、拷問台(台の上に寝た者の手足を引っ張って関節をはずす)、宙吊り(後ろ手にしばった両腕にロープをかけて吊るし、両肩がはずれるまでぐいと引く)、水責め(のどの奥に差し込んだじょうごに水を流し込んで腹を膨らませる)だった。
またラードやグリースを身体に塗りたくり、じわじわと火であぶるものもあった。二十世紀にドイツのナチスは、人を焼くかまど使って悪名をとどろかせたが、この刑具を最初に使ったのは十二世紀の東欧の宗教裁判所です。
蛇がうじゃうじゃいる穴に被告人を突き落とし、生き埋めにするというのもありました。
特に酸鼻を極めるのはネズミを使った拷問でした。被告人のむきだしの腹の上でネズミを山盛りした大皿をひっくり返し、皿に火をつける。すると、ネズミはパニック状態となり、被告人の腹の中に逃げ込もうと穴をほるのである。それでもこの苦痛に耐え、自白しなかった者は、生きたまま火あぶりにされた。集団で火刑の処せられることも多く、それを(アウトダフェ、auto-da-fe) と読んだ。
これでは人々がいかに異端審問を恐れていたかがわかります。いったん異端者の嫌疑をかけられたら逃れることはできないのです。その結果異端審問官は私服を肥やすことができた。賄賂のよって裁判を逃れようとするからです。
異端審問の標的は異端者だけでなく、異教徒も犠牲になることが多かった。15世紀のスペインの宗教裁判は、特に有名です。標的になったのがユダヤ人でした。スペイン国王は、ユダヤ人がいるとキリスト教社会が汚されると恐れたらからだ。ユダヤ人が標的になったスペインの宗教裁判は、あらゆる政争、私怨に利用され、犠牲者総数34万人、そのうち3万2千人が焼き殺された。その大部分がキリスト教に改宗したユダヤ人でした。
異端審問制度も異端者が小人数の場合は、確かに宗教裁判制度そのものは機能しました。しかし異端者が多数の場合は、機能しなくなってしまうのです。宗教改革でプロテスタントの諸派が生まれます。カトリック教会にとって異端者です。裁判をかけるには、人数が多すぎます。プロテスタント派もカトリック教会こそ異端者と考えますから、当然戦争になってしまうのです。したがって宗教改革は、宗教戦争の時代に入っていくのです。
同じ白人で同じキリスト教徒でいながら、宗派が違うと、徹底して憎しみ会い、殺すか殺されるかという戦争にまで発展するのです。現在のイラク戦争では、同じイラン人で、同じイスラム教徒がシーア派とスンニ派に分かれて殺し合いをしています。
一神教の人たちは、日本人の想像力では、はかりきれない精神構造を持っているのではないでしょうか。
日本には仏教の宗派が沢山あります。その宗派どうしがお互い異端者よばわりし、憎しみ会い、裁判で拷問にかけて殺してしまう事件など一件もありません。宗派どうしが争って戦争にまで発展したのもありません。
キリスト教を布教しに最初日本にきた外国人宣教師、フラシスコ・ザビェルは、日本では仏教諸派がお互いに協調的なのに驚いているのです。
次は魔女狩りの話です。魔女狩りの裁判というのは、キリスト教の世界では、悪霊と交わる魔女の存在が信じられていたのです。若い女性より年寄りの女性の方が魔女呼ばわりされるのが多かったと言われています。これは私の個人的見解ですが、欧米人の女性は目鼻立ちが大きいから、年寄りの女性はなんとなく怖く見えます。漫画や御伽噺に出てくる魔女は、ほとんどがしわくちゃで鼻がつんと高く、目が大きいです。欧米型の女性です。日本型の年寄り女性、鼻ぺちゃで目の細い魔女は、漫画や御伽噺には出てきません。
老婆の他に魔女の疑いをかけられやすいのは、世間の注目を引く女性、例えば、美人、精神障害者、身体障害者などでした。おばあさんの代から教えてもらっている野草を薬にかえる方法など知っていると、魔女の嫌疑をかけられるので、医療の分野から女性を追い出してしまい、西洋の伝統的薬草治療を壊滅同然に追い込み、西洋の漢方薬がまったく発達しなかったといわれています。
とにかく魔女は存在するものと信じられ、魔女の存在を信じないものは異端者とみなされたのです。ではなぜ魔女の存在が信じられたかというと、キリスト教はもともと女性蔑視の宗教だったからだと言われています。
2世紀、アレクサンドリアの聖クレメンスは、「どの女も、自分が女であることを大いに恥じるべきだ」、6世紀、キリスト教徒の哲学者ボエティウスは、「女は下水溝の上に建てられた聖堂だ」、10世紀、クリュニー修道会のオドは、「女を抱くことは肥やし袋を抱くようなものだ」、13世紀、聖トマス・アクイナスは、「女は神がおつくりになった失敗作である。万物の創造においては、いかなる欠陥物も作られるべきではなかった。したがって、女は万物創造のさい生み出されるべきではなかったのだ」
アメリカでは1692年にマサチュウセッツ植民地のセーラムで魔女狩りが起き、150余名が投獄され、19名が絞首刑されています。アメリカの魔女裁判の大きなものはこれくらいでヨーロッパに比べればはるかに少ないのです。ヨーロッパの魔女裁判は、15世紀から18世紀の3百年にわたって行われ、16,17世紀が最盛期でした。魔女裁判でたまに、男性が魔女扱いされる時がありますが、ほとんどが女性です。
魔女として密告された女性は牢屋に入れられます。密告された女性が魔女であるかどうか審判が行われます。審判では、まず全身の毛がそられます。恥部に魔女のしるしがあると信じられていたからです。次に魔女は痛みを感じない部分があるという言い伝えから、全身を針のようなもので突き刺します。しかし何度も刺されると、あまりの痛さに感覚が麻痺して痛みを感じなくなるのです。するとそれをもって魔女の証拠とされてしまうのです。
台の上に縛り付けられて舌を抜かれる拷問や、両足に重りを縛り付けて「魔女の椅子」とよばれる三角形の台に何時間も跨がせるといった、女性にとって大変きびしい拷問も行われました。こうしたきびしい拷問に耐えかねてとうとう魔女であると白状すると、処刑が待っているのです。そのほとんどが火あぶりの刑です。
そのほか股裂きの刑、釜湯での刑など現在では考えられないような残酷な方法で処刑が行われました。
魔女の牢獄で働いていた医者は、半狂乱になった女についてこう語った。
「彼女たちはしばしば拷問にかけられ・・・暗く不潔な牢獄に果てしなく閉じこめられ・・・
絶えず引きずりだされては残忍極まる仕打ちを受け、ついには、このむごたらしい現実から逃れられるならすぐにでも死にたいと思うようになり、恐ろしい牢獄に突き戻され繰り返し拷問を受けるくらいなら、言われるがままに罪を告白しようという気になるのだ」
イギリス国王ジェームス一世は著書「悪魔学」の中で「彼らは拷問を受けなければ白状したがらない」と書いています。
取調べ最中に性欲を起こした審問官は、自分でなく女が悪いのだと考え、女の乳房や性器をくぎ抜き、やっとこ、真っ赤に焼けた鉄の棒などで傷つけた。
魔女狩りの戦慄はとどまるところを知らなかった。教会は魔女の子供たちに同情を寄せるどころか、残忍極まる仕打ちをした。九歳半以上の女子と10歳半以上の男子は告発されて拷問を受けた。もっと幼い子供たちも、親に不利な証言を引き出すために拷問された。二歳の子供の証言でさえ有効とみなされた。
それでは魔女狩りで殺された人たちはどのくらいの数に上るのか。
たとえばドイツのビュルツブルクでは、1616年から翌年までのわずか1年間で300人が火あぶりにあっています。
あるいはドイツのマインツでは、1611年から1629年の間に1000人を超える人が処刑されています。ストラスブルグでは1615年から1635年の間に5000人の魔女が殺されたといわれています。イギリスのスコットランドでは、1590年から1680年の間に5万人以上が処刑されました。現在は美しい観光地となっているイタリアのコモの町にいたっては、1523年の一年間だけで1000人を超える魔女が火あぶりにされたと言われています。
こうした魔女の処刑に関する記録はほとんど失われており、その実態は正確にはわかりません。しかし、現在推定される数だけでも、16世紀から17世紀の間に900万人もの人々が魔女として処刑されていると言うのです。
カトリックもプロテスタントも異端審問と魔女狩りの宗教裁判を行っています。両者とも同罪です。トマス・ジェファソンと言えば、アメリカ独立宣言の起草者であり、また第三代のアメリカ大統領で、アメリカ歴史上の超有名人の一人です。その彼は1785年にこう書いているのです。
「キリスト教の教えが広まってからというもの、何百万という無実の男女や子供が火あぶりにされ、拷問され、罰金を課され、投獄されてきた。けれども、私たちは一インチたりとも統一に向かって進んでいない。ではいったい圧政は何をもたらしたのか?世界の半分の人々が愚者に、残りの半分が偽善者に変ってしまった。そして世界中の人々が過ちや悪行を支持するようになったのである。」ここで言うジェファソンの世界とはキリスト教世界のことです。
異端審問、魔女狩りは、主にヨーロッパでの教会の悪事です。ヨーロッパ諸国が、アジア、アフリカ、中南米に武力進出し、植民地政策を進めた時、カトリック教会は、ヨーロッパ各国の影になって植民地化政策に協力してきたことはよく知られています。
さらにカトリック教会の悪事は、つい最近まで続いていたのです。第二次大戦中にナチスのユダヤ人虐殺計画に抗議することを拒んだばかりでなく、当時のローマ法王ピオ十二世はヒトラーと条約を結び、カトリック教会はユダヤ人迫害には目をつぶるから、そのかわりにナチス政権はカトリック教会を迫害しないという約束をとりつけていたのです。
カトリック教会が、ユダヤ人迫害を容認したのは、4世紀以来キリスト教が、ユダヤ教を叩き続けていたことと無縁ではありません。
これらカトリック教会の数々の悪事に対して2000年3月、法王ヨハネパウロ二世が教会史上初めて、教会の侵した過失を認めたことが全世界に報道されました。その過失とは、カトリック教会が11世紀から12世紀にかけてイスラム圏に十字軍を送って改宗をせまり、殺戮を繰り返した事、ヨーロッパの異端者や魔女狩りに宗教裁判と称する拷問と殺戮を繰り返したこと、そしてユダヤ人を迫害してきたことであり、法王はこれら歴史上の過失を指摘して神に許しを乞うたのです。
こと外交問題に関しては、私の年来の主張は、日本人は「うぶでバカでお人好し」です。従って多くの読者は、この法王の記事になんの疑問を感ぜずに読み終わってしまうのではないでしょうか。「許しを乞う相手が神である」ということが重要なのだということがお気づきなりましたでしょうか。もし名指しでユダヤ人やイスラム人に許しを乞うたら、賠償問題に発展しかねません。自分の信じる神に許しを乞うて、法的債務をつきつけられるのを防いでいるのです。
ローマ法王ですらこのように用意周到な答弁をするということです。日本の首相は、自分の国を侵略国と呼ぶなど、いまだかってどの国の元首もしたことがないことを平気でするのです。
いかにうぶでバカでお人好しの民族かの証明です。
アメリカは現在、唯一つ超大国です。どの国も一国だけで経済的にも軍事的にもアメリカにたちうちできません。超大国としてのしあがるためにどれほどの数の人間を殺してきたか誰も数えることはできません。キリスト教も世界的な大宗教団体にのしあがるためにどれほどの数の人間を殺してきたか誰も数えることはできません。
うぶでバカでお人好しの日本人は、この現実をまず認識することが必要です。
この日記を書くにあたって、私は参考文献として主に「キリスト教封印の世界史」(原題:THE
DARK SIDE OF CHRISTIAN HISTORY)、ヘレン・エラーブ著、杉谷浩子訳、井沢元彦監修)を利用しました。井沢元彦氏は、本書で「未だにキリスト教の信仰が、極めて強い西洋世界の中で、このような本を書くことは、まさに命がけの行為である」と書いています。
私も全く同感です。それだけに著者、ヘレンの勇気には感心します。例え殺されなくても、彼女への圧力、非難は相当なものでしょう。十数年前にもなりますが、イギリスの作家、確かラシュディー氏とか言う人が、彼の小説の中でイスラム教をからかったり、非難したりしたら、イスラム教会は、イスラム人の誰かが彼を殺すように暗殺命令を出したのです。危険を感じたラシュディー氏は身を隠しました。最近になってやっと顔をメディアの前に出しました。
イスラム教徒でない人間が、それも小説の中でイスラム教を批判しただけで、死刑宣告されたり、暗殺命令をだされたりしてたまったものではりません。とにかくこの世で一神教が幅をきかしているかぎり世界の平和は、絶対にありません。
現在の環境破壊は、一神教のなれのはてだという私の意見にヘレンは同意しています。ヘレンの最後の文章の一部を引用しましょう。
「キリスト教はたしかに暗黒の裏面史がある。だが、それを知ったからといって、キリスト教のすべてを否定する必要はない。遠い昔から現在に至るまで、正統派の暴虐な考えや振る舞いに昂然と立ち向かってきたキリスト教徒だっている。恐れや罰よりも愛と慈悲を重んじ、服従ややみくもな信仰より個人の権限や調和をめざしてきた教徒は星の数ほどいるのだ」
私も一言つけ加えましょう。
キリスト教がここに書いてきた悪事だけでしたら、世界的な宗教になっていなかったでしょう。
しかし同時に人々を恐怖にさらさなかったら、ここまでキリスト教が発展しなかったといえることは確かです。中南米を見て下さい。彼らはほとんどカソリック教徒です。彼らの先祖はキリスト教信者の兵士や神父によってもう数えきれないほど殺され、彼らの文化は完全に破壊された。
生き残った彼らは、強制的にキリスト教信者にさせられたのだ。現在の中南米人は、自分たちの先祖を悲惨な目にあわせたキリスト教を一生懸命信仰しているのです。まさに恐怖がキリスト教を発展させた例です。
一神教の国どうしが世界平和について話し合ったところで平和になるわけがない。日本のように多神教国にならなければ世界平和など実現するわけがありません。
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6 comments »
たくま より:
2013年9月4日 7:47 AM
カトリックだけではありません魔女狩りはむしろプロテスタントで凄惨を極めましたマルチンルターは「自分は魔女たちが殺されることに一片の同情も持たない」と語っています。
キリスト教について、勉強すればするほどその排他性/選別思想に問題があると気が付いてきました。イエスの言葉には今でも強く惹かれますが、「最後の審判による異教徒は地獄に落ちキリスト者のみが天国に行く。」(イエスが異教徒100人隊長にあなたの信仰は立派であるといった言葉や、異教徒であるよきサマリあ人の話などはなぜか、この文脈では無視される)これがキリスト教の中心思想であるならば、これは異文化・異教徒・異教の神・への脅迫以外の何物でもないのです。神とはある意味では文明です異教の神を認めないとは、異教の文明を認めないことです。この排他性が、異文明を認めない憎悪の歴史につながっていることは間違いありません。
魔女狩りも・インディオの殺戮も・ピューリタンの北米でのアメリカインデアンの絶滅も、(自分たちは新ユダヤ人であり・アメリカは約束の地・新カナンで先住民は聖絶する)イエスの思想ではないが、黙示録や旧約聖書・出エジプト記・ヨシュア記・などにみられる異教徒の存在を許さなヤハウェの不寛容な異教への憎悪の教えのもとに実行されたことは明らかです。「聖書では、「異教」の神に仕えるよう誘う人に対しては
>・・このような者は必ず殺さねばならない(申命記13.10)」
[キリスト教関係の人間はキリスト教が悪いのではなく人間が悪いのだと言い訳します。]
キリスト教は以上のように、現実にはイエスの教えで成り立っていないのです。
マルチンルターがドイツ農民戦争で
それゆえ、(農民の)反乱ほど有害で悪辣なものはないということを思い出し、だれもが公然とであろうと、あるいは内密であろうと、(農民たちを)打 ちのめし、しめ殺し、突き刺させばいいのだ。それはまさに狂犬を人が殺さなければいけないのと同じことである。もし汝が狂犬を打たなければ、犬が汝に襲い かかり、汝もろとも全社会をも打ちのめすだろうから。「農民を刺し殺せ・押せ絞め殺せ」と叫んだ(15万人が死んだ)時も、「ユダヤ人と彼らの嘘」
で、シナゴーグやイェシーバーを、跡形残らず徹底的に焼き払うべし・ 更にユダヤ人の所有する家をも打ち壊し、・所有者を田舎に住まわせるべし・宗教書を取り上げるべし・ ラビの伝道を禁じ、従わないようであれば処刑すべし・ ユダヤ人を撲滅するための方途を穏便に実行すべし・高利貸しを禁じ、金銀を悉く没収し、保管すべし・ユダヤ人を農奴として働かせるべし」と書いた(ルター派・教会はナチに協力的で、ルターの反ユダヤ思想がホロコーストにつながった)時も、「魔女狩りに一切の同情をせずもっと殺せと・ルター」
すべて、聖書の教えに基づいているのです。
魔女狩りも・旧約の文言「魔女たちを生かしておいてはならな」という記述によって実行されたのです。
キリスト教の教えにはイエスの精神と逆行する、他者(異教徒への)憎悪が黙示録やヨハネの福音(ユダヤ人憎悪)に記されています。ホロコーストもマルチンルターや聖書の教えに依拠して実行されたと、多くの人が指摘しましたが。
なぜかキリスト教関係者は、このことに耳を傾けません、そのことに無反省です。
今日でも、福音派の牧師のブログを覗くとイエスを受け入れないものは罪人であり、地獄に落ちるとの主張が繰り返され、キリストの再臨がイスラエルとアラブ・アメリカの戦争によって起きると期待する主張も目にします。
こうした主張を見ると、キリスト今日は憎悪の宗教なのかと感じてしまいます。イエスを神とあがめながら、イエスのアガペーの精神は無視してしまう。
信仰義認とは逆に結えばキリスト教信者以外は地獄に落ちるという脅迫です。
イエスは私の言葉を行うもののみが天の国に入れるのだといっているにもかかわらず。「また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わないものはみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。」
プロテスタントはこのイエスの言葉を無視して信仰義認を主張します。そして、「3位1対」・イエスが神であり・それを信じる者のみが無条件に救われ復活するるという信仰が・他者に、揺さぶられたとき、キリスト者は存在不安に陥り憎悪に身を任せ殺戮の歴史を作り出してきた。
今日、中東情勢を見ていると、また惨事がハルマゲドンとキリストの再臨のキリスト教思想を口実に起きる予感がします。
尚、異端とされるクエーカ・アーミッシュの人々はこの限りではありませんクエーカは絶対平和主義で、ノーベル平和賞を二度も受賞しています、(他宗教を迫害した歴史がありません)キリスト教神学を認めないクエーカーのほうが、異端のほうが、イエスの精神に忠実なのは実に不思議です。(クエーカー教徒は3位一体は砂上の楼閣に過ぎないと表明し、ピューリタンに迫害されました)
そして、職業的聖職者おおかない・クエーカー・アーミッシュ・無教会派などの異端とされる宗派のほうがイエスの精神を守っているのはなぜでしょうか。
えんだんじ より:
2013年9月4日 7:58 PM
たくまさん
ブログへのコメントありがとうございます。
私などキリスト教の悪事など歴史的な史実をちょっと披露しただけですけど、
たくまさんは、キリスト教についてよく勉強していますね。私はたくまさんの質問について答えることはできません。
ただこれは、私一人の意見かもしれませんが、人間の文明には必ず悪事がともなう、すなわち悪事が伴わないと発展しないのではと考えることさえあります。たくまさんのキリスト教感あるは宗教感を教えていただけませんでしょうか。
たくま より:
2013年9月16日 11:56 PM
私一人の意見かもしれませんが、人間の文明には必ず悪事がともなう、すなわち悪事が伴わないと発展しないのではと考えることさえあります。たくまさんのキリスト教感あるは宗教感を教えていただけませんでしょうか。
さすがですね、
自分も、そのことは考えます。キリスト教がある種の悪魔的な魅力を、もっていると感じてまう気持ちも心の深いところにはあります。
宗教とは何か、キリスト教・ユダヤ教は救済の宗教と自らを主張しています。
しかし、冷徹に考えると救済というより、ユダヤ教の歴史は民族として、生き残るための知恵であります。心理学と脳科学によれば人は元来他者に対し共感があり、痛みをあたえることに苦痛を感じるそうです。
しかし、理由がつけられば、「たとえば神の命令であるとか、相手が悪人・悪魔であるとか、」喜んで、正義の行いの満足感の元に、殺人も行えるといっています。
一神教の発明も、元来ルーツの異なる奴隷が、エジプトでて、流浪の民となったとき、唯一の神を発明し、その律法を神の口に入れ、唯一の神の命令として、それを共同体が受け入れることにより、本来バラバラなルーツの奴隷が、一つの民族にまとめられていったのだと思います。
キリスト教の近代史に、においても、このような知恵は機能し、帝国主義や植民地主義が,神の名の下に遂行されました。
しかし、現代地球のリソースは、限界に達してしまった、現代では、このことが批判的に見直されたほうが良いと思います。
イエス、の出現は上記のユダヤ・キリストのあり方とはまったく異なっていて、その本質は人間の我執・欲望の充足の放棄にあると思います。
アーミッシュの生き方はそうした意味で、イエスの宗教を受け継いで、欲望や発展ということの放棄・歴史の進展の放棄にあるように思います。
仏教も進化とか発展といったことを、放棄した諦念の哲学に思えます。
私の宗教観ですが、上記のように生きるための知恵として宗教を見ていますが、イエスやブッタ
のような、非現実的に見える宗教」により深い、問題提起があるように思います。(神の国や涅槃などの神秘的な深みも含め)
特に、発展・進化・というような方向が生きずまってしまいそうな現代においては、放棄の思想が
い意味を持ちえると感じます。すみません、自分自身矛盾した考えを、心のうちに持っており、あまり上手く自分の考えがまとめることができません。
ただ、コメントし動機は、プロテスタントがカトリツクに対して、自分たちは正当性がありキリスト教の歴史の悪行をカトリックのみに、押し付けているように、思え、・・・・
自分が、してる範囲では、ドイツ農民戦争でのルターの対応、反ユダヤ主義・魔女狩り。ピューリタンの北米インデアンの殺戮(950万人とも聞く)・・・・・
プロテスタントも相当悪い!
自分は別にカトリックではないのですが、どうもプロテスタントがズルく思え・・・コメントしました。
えんだんじ より:
2013年9月17日 8:33 AM
たくまさん
お答えありがとうございます。
私は宗教観がとぼしいため、私のブログ「キリスト教の悪事」はカソリックもプロテスタントも両方含んだ意味で
書いてみましたが、実際に書かれている悪事は、カソリックばかりで、プロテスタントの悪事が書かれていなかったことに疑問を持って書かれたことだと思います。大変失礼しました。
これは宗教観とぼしい私の意見ですが、現在のように一神教が世界の主流では世界に平和はやってきません。
高木康行 より:
2014年8月9日 2:18 AM
失礼します。御一読をお願いします。
ほとんどの教会が、聞く耳を閉じています。聞くという責任があるのではないでしょうか?
また、不正だと、スパムだと称してコメント投稿も拒絶するところも多い状況です。
また、アクセス拒否とか卑劣な耳ふさぎをしています。
また、コメント欄を消しているとか・・、極端な字数制限をしたりと・・
また、メールアドレスを明記しないとか、聞いて答えようという姿勢が全くありません。
この様な状況でよいのでしょうか?この様な聖職者の姿勢で良いのでしょうか?
.
題:キリスト教は、この様な人間たちに与えられた宗教だった。
(現代の時代において、信仰する必然性はない)
…(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
キリスト教は、人間の捉(とら)え方が、本当に汚(きた)ない。
それは、その出来た時代から生まれた『人間観』なのだが・・、
あまりにもその人間観が・・、
『人間に、人類に・・害を与えている』。
その結果は、恐ろしい限りだ。
それは、キリスト教の歴史を調べればすぐにわかる・・次々と出て来る悲惨な史実があまりにも多い。
確かに・・、キリスト教が生まれた時代は・・、
そして、キリスト教が生まれた地は・・、
「人を殺すなよ」と・・言われなければならない様な人間たちだった・・、時代が、環境が、などが、その様な時代だったので・・その人々を責めることはできないが・・、
また、「盗むなよ」と・・言われなければ、盗みばかりが・・世の中に充満している様な社会だった・・
今、日本は、その様な状況にはない事を誇っても良いが、
そしてまた、海外からも称賛されるが、そして、海外旅行へ行った方々も口にされるが、『素晴らしい日本』が口から出て来る・・、
キリスト教の生まれた地のレベルは、比較できないくらいの・・低いレベルの社会だった・・、
そしてまた、キリスト教の生まれた地は、「女性を犯すなと・・言い続けなければ、言わなければ、女性を犯すような社会の中にいる人間たちだった」。
現代と比較にならない・・低いレベルの人間たちだった。
キリスト教は、この様な人間たちに与えられた・・宗教だった。
確かに、生きることに・・汲々(きゅうきゅう)とする社会環境は・・、
現代と比較にはならないくらいの劣悪な環境だった。
故に、出来あがる宗教も、また、その劣悪さにしかなり得なかった・・、
その劣悪さに・・応じた・・教えとなった。
信仰する神殿にも・・娼婦が居て・・、
人々が生活する巷にも・・、娼婦たちが居た。
また、一般の民の女性も・・神殿娼婦となるように・・仕向けられた・・シキタリだった。
神殿巡礼者にその行為をしなければならないという低次元の話だった。
また、多くの民族が、生きる糧を求めて殺し合うという荒れた社会で・・人心は乱れに・・乱れていた。
また、世には・・世の終わりを告げる『終末思想』が、満ち満ちていた・・イエスも、この終末思想に囚(とら)われていた。
そして、社会の大切なバックボーンである環境も・・『劣悪』だった。
砂漠の地の環境が・・、
天の恵みの・・降雨が少ない環境が・・人心を荒廃させた・・飢餓と『背中合わせの世界』だった。
現代の・・今の・・『飽食』の時代からは、想像を絶する環境だった。現代の人々には、置き換えて想像することなど・・できる訳がない中に居た。
この様な人々や・・地に・・出来た、その宗教理念は、明らかに、豊かに進んだ・・現代の社会にいる人々へ・・適用できるような・・考え方、および、宗教理念ではない。
適用できる・・わけは・・ない。
そこを、無理に・・応用して・・起用しようとするから、
古代で生きるためにした行為を・・、
生きるための隣国の富の強奪、奪い取りに行く行為の考え方・宗教理念がにじみ出て来る・・
その考え方の心底には・・
「(キリスト教の)神の義があるから正義の行為なのだ」という・・欺瞞の我利のキリスト教の宗教理念。
この考え方に洗脳され・・戦争にまみれた、
また、他民族を殺してばかりの・・戦争にまみれたキリスト教の歴史が現出するのだ。
キリスト教は、進んだ現代において・・その存在理由はない・・存在しては・・いけない宗教なのだ。
現代には、現代に相応(ふさわ)しい宗教であらねばならない。
信仰する者を・・「光の子」と称し・・、
信じない者を・・「闇の子」と称して・・差別し・・、
異教の者とし・・、
「異教徒は殺せ」のキリスト教教義・考え方で殺戮対象とする。
当然の戦争ばかりが・・現出する。
殺し合いが・・現出する。
また、キリスト教は、イエスの事を「人の子」と言ったが・・、
「人の子」は、神と共にあるとされ・・、
終末の時に「雲の乗って」・・イスラエルを解放するために、天から降りて来ると・・されている。
キリスト教は、完全に一民族のための「民族宗教」なのだ。
キリスト教聖職者は、この様な『真実は隠し』・・、
自分が勝手に作った宗教観・言葉で、キリスト教だと語っているが・・、キリスト教ではない形に歪曲された嘘話になっている。
また、イエスの言葉と称される言葉の多くが、実際に、イエスが言ったという言葉ではないということが・・、
研究されているが・・、
この様な真実も隠され・・、
まったくの作為の中からできた宗教となっている。
イエスの死後に作られ、イエスの言葉だとされているだけなのだ。
この一例の様に、真実の中に出来あがって来た宗教ではない。
イエスの死後、原始キリスト教団の中で作られた言葉を、イエスの言葉だと『都合を付けた』だけ・・、
この様に、この例の様な架空の話・・都合の話の中に、できた宗教であるがため、真実の、一つの真実の・・中にできたものではないがため・・、キリスト教は、あちこちで、好き勝手にできた事ごとが多いため・・、
必然的に食い違いが多いという結果になっている。
必然、矛盾も噴出するという状態・・、
その矛盾を無くそうと・・糊塗(こと)するため・・、
またまた、その部分は直ったらしくなっても・・、
その糊塗した行為が、また、新たな別の所を綻(ほころ)ばすという・・その様な・・繰り返しとなっている。
他の宗教から持ってくる教義がまた、あまりにも多い宗教でもある。ぬか味噌漬け・・状態である。
あなた方は救われません。また、人類も救われません。
次世代へ伝えて行ってはならない宗教である。
・・
(詳しくは、以下のブログへ)
http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /
えんだんじ より:
2014年8月9日 8:49 AM
高木康行さん
ブログへのコメントありがとうございます。
私は、あなたの言われる、「現代には、現代に相応した宗教があらねばならぬ」という考えには賛成です。あなたがここに書かれている全文をキリスト教信者によませても、誰も最後まで読んでくれないでしょう。熱心な信者であれば、あるほど他の説には耳をかそうとはしません。
高木さんのブログクリックしましたが開きませんでした。